第56話 過去と未来

「中、結構狭いですね」

「対面に座ると少しゆとりが出来ると思うが……どうする?」

「いえ、このままで。……蒼太君が近い方が嬉しいので」


 俺達は観覧車に乗った。ほんのりと緊張感が漂っているのは気のせいじゃないだろう。


「そ、そういえば、もう冬休みに入りますね。蒼太君のお家ってどう向かう予定ですか?」

「電車だと時間がかかりすぎるから……新幹線だな」


 凪にそう答えながら。俺は一度、目を瞑った。凪は何かから目を背けるように、言葉を続けていた。


「し、新幹線でしたか。初めて乗りますね。そういえば蒼太君――」

「凪」


 一度、凪の言葉を遮って名を呼んだ。凪がビクリと肩を跳ねさせる。


「ありがとう。でも、先に一つ聞かせて欲しい事があるんだ」


 凪は、俺の事を考えて楽しませてくれようとしている。……トラウマを想起させないようにしてくれていた。

 その気持ちはとても嬉しいものだ。


 しかし、このままだと凪がまた空回ってしまう気がしたから。……楽しませようとしてくれる、肝心の凪が少し無理をしているように見えたから。


「聞きたいこと……ですか?」

「ああ。多分、ここでしか聞けない事で……これを聞かないと、俺も凪も先に進めないと思ってな」


 凪が小さくこくりと頷く。


 一度深呼吸をして、凪と向き合った。



「不安に思う事とか、悩んでいる事があれば教えて欲しい」



 ――本当は聞くつもりがなかった事だ。

 時間がそのうち解決してくれると思ったから。


 でも、凪は違った。

 やり直したいと。俺と凪の未来を見据えて、真剣に考えてくれていた。


 凪は目を丸くしていた。

 口が小さく開き、呟くように凪は言葉を絞り出した。


「どうして、気づいたんですか?」

「ずっと凪を見ていたからな。……まあ、瑛二に忠告されたからでもあるが」

「巻坂さんに?」

「ああ、そうだ」


 あの日。先週のこの日に言われた事だ。


 早期に解決したと言っても、凪の心情を思えばすぐに切り替える事は難しい。


『最終的には上手くいくだろうし、時間が解決してくれるはずだ。ただ、一歩間違えれば蒼太に依存しかねないからな。お前はそんな事望んでないだろ?』


 だから、凪の事はよく見ておいた方が良いと言われたのだ。


 凪は頷く俺を見て、少し考え込む素振りを見せた。


 数秒の後。



「ふとした時に、考えてしまうんです」


 ぽつりと、凪が呟いた。


「本当に、私が蒼太君を幸せに出来るのか。と」


 そう言ってからしかし、凪はぶんぶんと首を振る。


「いえ。あの時言ったように、蒼太君の事は必ず幸せにします。絶対に。何があろうと」


 ですが、と。凪が目を伏せて。自嘲するように笑った。


「私には前科がありますからね。大切な人を――深く傷つけてしまいました。だから、時々自分が信じられなくなるんです」


 凪は手をそっと、自身の胸に置く。


 ……その表情は、とても悲痛なものだった。


「もし、また蒼太君を傷つけてしまったら。そう考えただけで、胸がギュッと苦しくなって。自己嫌悪に陥って。もし、本当にその時が来てしまえば」


 凪は目を瞑り。小さく口を開いた。


「私は。死を――」

「凪」


 その手を取る。酷く、冷たくなってしまっていた。


 その手を両手で包み込み。俺は凪を見た。


「話してくれてありがとうな。続きは言わなくて良い」


 片手を凪の背中へ持っていき、その体を抱きしめる。


「辛かったな。凪」

「い、いえ。私なんかに比べれば、蒼太君の方がよっぽど……傷ついていますから」

「それでも。凪が辛かった事に変わりは無い」


 特に、一人の時にそんな事を考えてしまっては……さぞ苦しかっただろう。


「大丈夫だ、凪。そんな未来は来ない。慰めとかではなく、ちゃんと根拠があって言ってるからな」


 凪が小さく顔を上げる。やっと、その目が俺を見てくれた。


 想像の中の、苦しんでいる俺ではなく。

 幸せな今の俺を。


「一つ目は、凪がそうして悩んでくれているからだ。それだけ不安に思ってくれているのなら、そんな未来が来る事はありえない」

「で、ですが。もし私が気がつかないうちに蒼太君を傷つけてしまうかも――」

「それもないな」


 凪の言葉を否定し、笑いかける。


「凪は思慮深い。実際前の事だって、凪が考えすぎてしまってそうなってしまっただけだ。その時は空回っていたが。それももうないだろう」


 背中に置いていた手を上に持ってきて、凪の頭を撫でる。


「そこで二つ目だ。凪の両親が居るから、というのがある」

「……パパとママ、ですか?」

「ああ。宗一郎そういちろうさんと千恵ちえさん。二人がいるからだ」


 一つ頷いて、そのサラサラな髪へ指を通す。驚く程に引っ掛かりがなく、絹のように滑らかで触り心地が良い。


「あくまで俺の見立てではあるが……二人なら、あの事をかなり後悔していると思う。凪のように」

「……はい」

「だから、同じ過ちは繰り返さない。凪の変化を見過ごす事はないはずなんだ。……まずないと思っているが。たとえ凪が空回ったとしても、宗一郎さんと千恵さん……そして、須坂さんが止めてくれるだろう」


 凪だって、前の凪とは違う。感情を面に出すようになったし、宗一郎さん達とお互い歩み寄ろうとしている。二人はもちろんの事、須坂さんだって居るのだ。


「まあ、言葉で凪の不安が完全に消えるとは俺も思っていない」


『不安』とは、そういうものである。俺が出来る事は、こうして話すか、『不安』を忘れるほど一緒に何かを楽しむくらいだ。


「でもな、凪。確実に言える事が一つある」


 凪がきょとんとした表情を見せる。そんな表情でも非常に絵になった。


「……なん、でしょうか」


 手を凪の頭から頬に移す。その頬を撫でると、凪が少しくすぐったそうに……しかし、少し嬉しそうな顔を見せた。


 それを見ていると自然と俺の頬も緩んでくる。そのまま、凪の瞳を見ながら告げる。



「一ヶ月後。一年後。三年後。五年後だって、俺は凪の隣に居る。これから先、ずっと」


 もう片方の手で、凪の手をぎゅっと握った。


「その時、笑えばいいんだ。『そんな未来、来ませんでしたね』って。杞憂だったんだって、二人で笑おう。――笑わせて見せるよ」



 つー、と。凪の目から一滴の雫が伝い、俺の手に乗った。


「……凪?」

「どうして」


 凪の顔がくしゃりと歪み。その目からは溢れんばかりの涙がこぼれ落ちた。


「う、うぅ……」

「凪!? そ、その、どうした!?」


 一瞬頭の中が真っ白になって。自分の発言を冷静に振り返る。


 しかし、冷静になってはいけなかった。次の瞬間には俺の顔が火を噴くように熱くなっていた。



 ……なんて歯の浮いたセリフを言ってるんだ、俺。


 本心ではあるが……いや、本心だったからこそ、顔がどんどん熱くなってしまう。



 しかし、それで泣くのは違うんじゃないかと思い、改めて凪を見た。


 凪は俺の言いたい事を悟ったのか、ぶんぶんと首を振る。


「ち、ちが、ちがう……んです。い、いやとかじゃ、なくて。その」

「わ、分かった。分かったから一旦落ち着いてから喋ろう? な?」


 無理に喋ろうとする凪を抱きしめ。とんとんと背中を叩く。


 昔、嫌な事があって、泣きじゃくっていた時に母さんや父さんがしてくれた事である。無事に効いたようで……数分も経たないうちに、凪は泣き止んだ。


「あ、ありがとうございます」

「……どういたしまして」


 そのまま凪を離そうとしたが……凪の手は俺の背から離れなかった。


「凪?」

「す、少し恥ずかしいので。このまま言わせて頂きます。先程の……泣いてしまった理由を」

「……ああ。分かった」


 頷いて、俺もまた凪を抱きしめた。


「そ、その、ですね。さっきも言ったように、蒼太君の言葉が嫌とかそんな訳じゃなくて。むしろ反対と言いますか」


 少し歯切れを悪くしながらも、凪が続ける。


「……すっごく。すっごく、嬉しくて。それでですね。私、蒼太君の事が大好きなんです」

「お、おお……? あ、ありがとう」


 いきなり告げられた言葉に困惑しながらも。続く凪の言葉に耳を傾ける。


「もう、これ以上ないってくらい大好きだったんです。それなのに――」


 凪の手が俺の服をぎゅっと掴み。その顔を上げた。


 すぐ目の前に凪の端正な顔立ちがある。その顔はリンゴのように真っ赤だった。


「もっと、蒼太君の事が好きになったんです」


 その顔がもっと近付いて。ふわりと甘い香りが強くなったと同時に、唇に柔らかいものが触れた。


「大好き、が。もっと大好き、になっちゃったんです」


 それだけ言って、凪が俺の首筋に顔を埋めた。


「これ以上の好きはないって思ってたのに……。それで、好きだって感情と嬉しいって感情が爆発しちゃって……ああなっちゃいました」

「そ、そうだったのか」


 凪の言葉と吐息がくすぐったい。身震いを誤魔化すために、更に強く凪を抱きしめた。


「先程。蒼太君は『言葉で凪の不安が完全に消えるとは俺も思っていない』と言いましたが」

「……? ああ、言ったな」


 凪が顔を上げる。すぐ目の前に来たその瞳は、じっと俺の目を見据えていた。


「消えましたよ」


 その言葉と同時に、凪の瞳にほんのりと暖かい光が灯る。


「全部、消えちゃいました。観覧車に乗って、つい思い出してしまって。不安だった心が全部、なくなっちゃいました」


 柔らかく笑う凪。その表情からは【氷姫】と呼ばれていたあの頃からは想像がつかないほど――


 綺麗で、可愛らしくて、暖かい。そんな笑顔だった。


「蒼太君」


 鈴の音のように澄んだ、耳心地の良い声が俺の名を呼ぶ。


 その白魚のような指が伸び、俺の手を掴み。握った。


「愛しています」


 揺らぎのない言葉だった。


 手から伝わってくる温もりから、真っ直ぐと俺に向けられた視線。そして声から、それが嘘偽りのない言葉だと分かる。

 俺の心臓がドクドクと強く鼓動を奏で始めた。


「貴方の事を、誰よりも愛しています。これからもずっと、愛します。貴方の事だけを」


 自分の心臓の音に重なって、凪の心臓の音も聞こえてくる。


 凪の顔が近づいてきて、甘い匂いがより強くなった。


 唇が重ねられる。柔らかな唇が当てられるのと同時に、手をにぎにぎとされる。




 ――長い。普段なら、長くても数秒で終わるはずなのに。


 五秒。十秒。二十秒と、その時間は続く。


 どうにか意識をしないようにしていたが。その時間が続くと、どうしても気づいてしまう。自身の胸に当たる、柔らかい感触に。

 凪の女性らしい柔らかさや、温もりが伝わってきた。それでより一層心臓の音がうるさくなって。でも、凪の心臓の音も俺に負けないくらい激しくなっていて……。



 それからまた少し経って、段々と呼吸が苦しくなってくる。凪もそうなのだろう。蒼い瞳にはうっすらと膜が張っていた。


 ぽんぽんとその肩を叩くと、凪は離れた。

 とても、名残惜しそうに。


 お互いの口の端から銀色の糸が引き。それを見て顔に血が上り、凪も同様に顔を赤くしていた。


 凪はその頬に手を置き、すうはあと深呼吸で呼吸を整える。


 そしてまた、俺をじっと見てきた。


「蒼太君」

「……なんだ?」

「今更何を、と思われるかもしれません。ですが、改めて。私から言いたい事があるんです。あの時は勢いのまま決まってしまったので」


 俺は頷き、続く凪の言葉を待つ。



 凪はそっと、俺の手に手を重ねた。



「――蒼太君。私の婚約者になってください」



 その言葉に、俺は少し驚いてしまう。しかし、それと同時に納得もしてしまった。


 俺と凪が婚約者だという事は凪の母親……千恵さんから言われて決まった事だ。思うところがあったのだろう。


 高校に迎えに来てくれた時や、忘れ物を届けに行った時の事は……少し、お互い暴走していた節があるので置いておこう。


 凪の手を握り返す。凪がもう一度、口を開いた。


「不安だから、とか。決して後ろ向きな理由ではありません。蒼太君を幸せにしたい。二人で幸せになりたいと思ったから、です」


 分かっている。もう凪の表情に不安は見えなかったから。

 だからこそ――俺は。


「ああ。もちろんだ。婚約して……幸せになろう。二人で」


 そう言った。凪の顔がぱあっと輝き、体を寄せてきた。


「高校を卒業したら――いや。今言うのはやめておくか」

「……はい!」


 観覧車はやっと、一番上に辿りつこうとしていた。

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