第91話 切り替え

 ふうと息を吐いて心臓の調子を整える。

 舌はちゃんと動く。笑顔も忘れずに。


 よし、入ろう。



 部署内に入り――口を開く。


「おはようございます!」

「おはよー」

「おはようございます」

「おはよう」


 挨拶は大切だ。自分が来たという報告にもなるし、印象にも大きく影響する……とお義父さんが言っていた。


 それに何より、ちゃんと挨拶が返ってくると嬉しくなる。それが仕事のパフォーマンスにも繋がるのた。


 会釈しながら自分の席に向かうと、既に先伊東さんが俺の席の隣に座っていた。


「おはようっす海以っち。体調はどうっすか?」

「おはようございます、伊東さん。万全です」


 伊東さん。俺の指導係みたいな感じの人だ。茶色の髪をしていて、この中だと俺と一番歳が近い。

 ……それでも五歳以上差はあるが。とてもフレンドリーで、そんなに差がないように思えてしまう。


 伊東さんはひらひらと手を振って、タンブラーを置いた。蓋付きのもので、飲む時以外はしっかりと蓋を閉めていた。


「良かったっす。でも無理はしないようにお願いするっすよ。自分の体調を管理するっていうのは『無理をして体を壊さない』って事でもあるっすからね」

「そう……ですね。覚えておきます」


 席についてメモを取り、PCを立ち上げる。伊東さんが今日の業務について教えてくれた。


「今の所、今日は売り上げ報告の予定っすね。平日と違って時間も長いから、集中力を切らさないように、っていうのが大事な所っすかね。お昼休憩もそうっすけど、目が疲れてきたなと思ったら十分くらい目を休ませるのも大事っす」

「分かりました。……休憩とか、その。大丈夫なんですか?」


 なんとなく、業務時間に休憩というのも良くなさそうな気もするが……と思って聞くと、伊東さんが笑った。


「大丈夫っす。タバコ休憩とかもあるんすよ、この会社。でもそうなると、タバコを吸わない社員に不満が溜まるじゃないっすか。という事で、目安として一時間は業務時間内で休めるようになってるんすよ」


 それは凄い……が、大丈夫なのだろうか。色々と。

 その考えが表情に出ていたのかもしれない。伊東さんがそうそう、と言葉を続けた。


「実際この制度になってからは業務効率も上がって、この会社に応募してくる人も増えたとか」

「なるほど」


 柔軟に対応して、良さそうなら取り入れる……という感じで色々と試行錯誤しているのかもしれない。


「ちなみにここで食べるのはダメっすけど、休憩室でならお菓子とか食べても大丈夫っすよ。向こうに置かれてるお菓子も自由に食べて良いやつっす。この辺説明するの忘れてたっすね。申し訳ねえっす」

「いえ。今まで短時間のアルバイトでしたし、大丈夫ですよ」


 しかし、本当にホワイトな会社だ。ホワイト過ぎるのが少し不安になってしまいそうだが、お義父さんの事だ。俺が心配する必要はないのだろう。


「それじゃ、今日も一日頑張りましょ!」

「はい!」


 そうして一日が始まった。


 ◆◆◆


 しばらく作業をしていると、視界の端から誰かが近づいてくる姿が見えた。


 ……原田部長だ。


「海以君。伊東君。一つ仕事を頼みたい」

「はい、なんでしょうか?」「はいっす!」


 作業を一旦止め、二人でそちらに体を向ける。


「先週行われた取引の記録をまとめて欲しいんだ。別部署からの依頼が来て……そんなに難しくはないんだが、急ぎでね。二人に手伝って欲しいんだ」

「分かりま――」

「いつまでにやればいいっすか? あと量も教えて欲しいっす」


 頷こうとしたものの、伊東さんの言葉に遮られた。部長はああ、と声を漏らしてUSBを取り出してきた。


「すまない、まだ資料を渡していなかったな。二人にはこれに入ってるものをまとめて欲しい。出来れば今日中で頼みたい。君達の今日の仕事は別の社員に回すつもりだ」

「はいっす。……海以っちはこの量行けそうっすか?」

「えっ、と。資料の完成品というか、どんな風にまとめるのか聞いて良いですか?」


 一応資料のまとめ方も習いはしたが、『資料』と一括りにしても千差万別だ。表にまとめるのか、それとも動いた金額をグラフにするのか……それとも両方なのか分からない。


「そういえばまだ教えてなかったっすね。部長、海以っちに過去の資料見せるっすよ」

「もちろん構わない」

「こんな感じっす。これ先月のやつっすね」

「なるほど……出来ます」


 資料を確認して頷くと、伊東さんに頷き返される。


「了解っす。部長、二人で出来ますっす!」

「ああ、よろしく頼む」


 まとめる資料も多くなかった。伊東さんと半分ずつなら余裕を持って出来るだろう。


「それじゃあ頼むよ」

「わ、分かりました」

「お任せ下さいっす」


 部長が戻っていくのを見て……伊東さんと目が合った。笑顔ではあるが、目は仕事モード。既に伸びきっていた背筋を正す。



「海以っちに一つアドバイスっす。相手が上の立場だったとしても安請け合いはしない。これは守った方が良いっすよ」

「……はい」


 それは少し考えれば分かる事。しかし、それは逆を言えば考えなければ分からない事でもある。

 反射的に返事をするのは良くない。……それを俺はまだちゃんと理解出来ていなかったようだ。


 反省をしつつ、続く伊東さんの言葉に耳を傾ける。


「仕事の量と納期くらいは確認するのが良いっす。後から自分に出来ない量って分かると精神的に追い詰められるっすからね。……もしそういう事になった場合、まず依頼してきた人にすぐ報告。あと周りに相談してみる事。とりあえず報連相をちゃんとしてれば大事には至らないっすから」

「……はい、分かりました。ありがとうございます」


 伊東さんの言う通りである。ちゃんと覚えておかなければ……と思っていると、伊東さんがへらりと笑った。


「ま、そんな深刻に受け止めなくて大丈夫っすよ。これ部長お得意の意地悪っすから」

「……そうなんですか?」

「そうっす。普通はこういう頼みとかメールで来るっすからね。新人への洗礼みたいなものっす。もし海以っちが頷いてた場合は部長から後で俺が言ったのと同じ内容のメールが来るんすよ。俺も来たっす」


 なるほど。試されていたのか。


「まあ、口頭じゃ伝わんない人も居るっすからね『社会』ってのを学ばせる為にも必要なんすよ。海以っちの場合は口頭で教える方が有効的って独断で決めたっす」

「そ、それ、大丈夫なんですか?」


 それなら俺に教えない方が良かったんじゃ、と不安になるも。伊東さんは笑みを崩さなかった。


「大丈夫っすよ。話してて分かるっすけど、じゃ海以っちは言って聞くタイプの人間っすよね」


 そう、なのだろうか? 自分では分からない。


「あと、一つ褒めポイントっすね。自分の分からない事はちゃんと聞く。最初はあれっすけど、二回目は出来てたっす。だから俺の考えも間違ってなかったんすよ」


 それは自分に対する客観的意見でもある。こういうのは大事だ。聞き逃さないようにと、続く言葉に耳を傾けた。


「海以っちは分からない所とかガンガン聞いてくれるし。逆効果だと思ったんすよ。……あれで部長に苦手意識を持つ社員も少なくないんすよねぇ。先輩とか同期にも居たっすし」


 ……なるほど。そういう事か。


 伊東さんに助けられたとはいえ、自分の課題は見つけられた。


 先程のように……こう、自分では想像していなかった事に対して弱いんだよな。当たり前の事ではあるんだが。もっと想像力を膨らませなければいけない。



「……うん、やっぱ俺の思った通りっす。反省が出来る子を執拗にいじめる意味もないっすからね。仕事もあるから、最後に一つだけアドバイスをするっす」

「は、はい」

「何事も切り替えが大事っす。引きずるとパフォーマンスも落ちるし、何より精神にじわじわ来る。だから、次はこうしようって決めたら切り替える。これを意識して欲しいっす」

「分かりました」


 切り替え。叱られないように、ではなく叱られた後が大事。

 これを言うという事は、恐らく次からは助け舟を出してくれないんだと思う。


 聞いた事はメモしておこう。忘れないように。ずっと伊東さんと居る訳ではないのだから。


「まあ、最初からそれが出来たら苦労しないんで。少しずつ慣れていくっすよ」

「ありがとうございます」

「いいっすよ。たまには先輩風吹かせたかっただけっすから。それじゃあ海以っちはこっちの作業をお願いするっす」

「分かりました」


 返事をし、少し考える。


 課題、一つ見つかったな。意識していこう。


 ◆◆◆


「……ん? 海以っち、休憩っすか?」

「あ、いえ。少しお手洗いに行ってこようかと」

「了解っす。部長からの仕事も順調っす。休憩はいつでも入っていいっすからね」

「はい。ありがとうございます」


 伊東さん、心遣いというか気遣いが凄い。しかも俺だけでなく仕事仲間全員にこんな感じなのだ。本当に凄いと思う。


 視野が広く、困っていそうな人が居たら積極的に声を掛ける。部長がこの人を指導係に選んだ理由も分かってきたような気がする。


 この人と一緒に居れば、色々な事を学べる。学び取る事が出来るだろう。


 人の良い部分はどんどん見習っていかないとな、と思いながら廊下を歩いていると――



「あのボンボン、見ててイラつかない?」


 ふと聞こえてきた言葉に足を止めてしまった。


 休憩室から聞こえてきた。どうやら扉が開きっぱなしらしい。


 そこから聞こえてきた言葉は――



「ちょ、やめといた方が良いですよ、車木くるまぎさん。聞かれたら首飛ばされますって」

「でも思わない? なんで私達があんなボンボンのお守りしないといけないの?」



 ――誰について話しているのか、簡単に想像が出来るものであった。



 ……お手洗いに行くにはここを通らなければいけない。

 戻るか? 別の通路からもお手洗いは行けたような気がする。


 そう悩んでいる間にも会話は聞こえてきた。


「気持ちは分かりますけどね。あんな子供がコネ一つで将来安泰って。勉強してきた自分がアホらしくなりますよ」

久佐くざ君も思うよね。社長令嬢口説き落としただけで将来が約束されてるのよ? 私もやれる事ならやりたいよ」


 女性の言葉に男性が小さく笑う声が響いてきた。


「逆玉の輿って事ですもんね。いいなぁ。俺も楽してエリート街道進みたいなぁ」

「こうなったら私も社長口説き落としてみようかしら? 愛人の一人にでもなれば化粧品とかカバンとか恵んで貰えそうじゃない?」

「ははっ。良いですね。もし出来たら何か奢ってくださいよ」




 ふう、と息を吐いて足を戻す。


 ……大丈夫。分かっていた事だ。これくらいで心を乱すな。



 別の通路を歩きながら深呼吸を繰り返す。


「……切り替えろ、俺」


 さっき言われたばかりだろと自分に言い聞かせるも――握られた拳は力が入りすぎて、真っ白になっていた。



 ◆◆◆


「海以っち、どうかしたっすか?」

「すみません、少しお腹の調子が悪くて。でも、もう大丈夫です」

「そうっすか? 無理はしないようにしてくださいっす」

「はい、ありがとうございます」



 伊東さんに少し心配されてしまったが、戻る頃には平静を取り戻していた。


 それも――切り替える事が大事だと自分に言い聞かせていたから。

 いま俺がやれる事は、自分の課題を一つずつこなしていく事だけなのだから。


 ◆◇◆◇◆


「――って事があってな。切り替えた、って自分に言い聞かせていたんだが。まだ出来てなかったらしい」

「……」


 アルバイト中は大丈夫だったが、終わってからじわじわと思い出してしまった。


 宗一郎さんの愛人になりたい、みたいな話をしていた事は凪には話していない。

 ……俺ですらこんなにイラついてしまったのだから、彼女に聞かせる話ではないと思ったから。


「だけど、言われた意味も分からない訳じゃない。向こうからすれば俺は成り上がりのボンボンで、逆玉の輿なんて思われてもおかしくないんだ。……実際はともかくな」

「……」

「大丈夫だよ、凪。これから経験を積んで、実力を付けて見返せば良い。それだけなんだから」



 ――そう凪へ。そして自分へと言い聞かせる。


「それに、悪口や陰口を言われる事くらいは覚悟しておいて欲しいってお義父さんに言われていたから。大丈夫だよ、俺は。そんなにというか、めちゃくちゃ気にしてる訳でもないしな」

「蒼太君」


 名前を呼ばれ、彼女の腕の力が緩む。俺も力を抜くと、彼女が少しだけ離れ――



「ッ……」


 唇を重ねられた。

 甘い香りが直接鼻腔へと送り込まれ、彼女の手が頬を撫でてくる。


 そのキスはいつもより長い。一分近くも続いた。



 唇が離され、蒼い瞳はまっすぐと俺の事を見つめてくる。


「蒼太君」


 名前を呼ばれると、こちらも目が揺らいでしまう。



「切り替え、出来てませんよ」


 彼女の言葉に目を見開いた。



「蒼太君の言いたい事は分かります。ですが、それとこれとは違う話です」

「……」

「少しだとしても、心がざわざわしているんでしょう? 蒼太君」


 凪が服をぎゅっと掴んでくる。

 その手は震えていた。



「私も一緒ですから」


 その蒼い瞳から光が消えた。


 ……しかし、それは一瞬だけの事。



「蒼太君はどうしたいんですか?」



 凪の言葉に目を瞑る。



 ……お義父さん。宗一郎さんへ言ったら、もしかしたらそれなりの対処はしてくれるのかもしれない。



 だけど。それだとあの人達が考えた『海以蒼太』と同じになってしまう。



「今は自分を磨く方が大事だと思ってる。特に切り替える事、だな」

「……分かりました。蒼太君がそう言うのなら」


 凪が手を離し、ニコリと笑った。



「一応、私なりにも考えてはみます。少し気になる事があるので」

「……? そうなのか?」

「はい。パパには言わないので安心してくださいね。……でも、それはそれとして。切り替えましょうか。お仕事からお家に」



 凪が俺の手を握ってきた。暖かく、柔らかい手。


「私が支えますよ。蒼太君の事を」


 柔らかな声が耳をくすぐり、手のひらから体温が伝わってくる。



「今日は蒼太君を癒すために特別な準備をする事にします。……その前にご飯ですね。蒼太君、お腹空いてますよね?」

「ああ、ペコペコだ。先に手洗ってくる」

「分かりました。お着替えは後ででお願いします」

「分かった」


 そうして俺は洗面所へ向かった。彼女が一体何を用意しているのだろうと考えながら。



 そうしていると……少しずつ、嫌な気持ちは軽くなっていったのだった。

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