第92話 暖かい場所
「ご馳走様。美味しかった」
「お粗末様でした」
夕ご飯はチキンのトマト煮をメインとした料理であり、今日もとても美味しかった。
「片付けは後で私がやりますので。とりあえず水にだけ漬けておきますね」
「ありがとう」
今日は大人しく凪に甘えよう。そう思って待っていると……少しして、凪が戻って来た。手に一枚の布を持って。
「蒼太君。お風呂に入ったらこちらに着替えておいてください」
「……バスローブ?」
「はい、バスローブです」
よく見ると、それはバスローブであった。
この家には元々バスローブが置かれていた。俺も凪も風呂に入った後はパジャマ派だったので、使う事はなかったのだが。
「珍しいな。バスローブなんて」
「こちらの方が都合が良いんですよ」
「……? 分かった」
よく分からないが、別に拒否する理由もない。そう思って頷いた……のだが。
「それと。脱いで頂く予定ですので、中に下着を着けるかどうかはお任せします」
「分かっ……えっ、今なんて?」
続く言葉に耳を疑ってしまい、思わず聞き返してしまった。
「ば、バスローブは後で脱いで頂く予定です。なので、その前提で下着はお任せします」
……どうやら俺の耳がおかしくなっている訳ではないらしい。
「……分かった」
いや、これ分かったで良いのだろうか。
でも、顔を真っ赤にしている凪にこれ以上話を聞くのもな。
「わ、私は少し準備がありますので」
「了解だ」
分からない事だらけだが、サプライズ的なものなのだろう……と思っていると。凪は顔を赤らめたまま柔らかく微笑んだ。
「それとも、私も一緒にお風呂入った方が良いですか?」
「ッ――だ、大丈夫だ」
「ふふ。遠慮しなくて良いんですよ?」
凪がにこにこと笑っているものの……それは、俺の事をからかっているという訳でもなさそうで。
一瞬。一瞬だけ考えてしまったが、ぶんぶんと煩悩を消し去るように頭を振る。
「と、とても魅力的な提案ではあるけど。その、大丈夫だ」
「分かりました。蒼太君もお疲れでしょうし。またの機会にという事で」
その言葉に安堵しつつも……心の奥底では断って良かったのかと自分に問いかけてしまう。
今日はそういう日じゃないから。それに、凪も何かしら準備があるらしいから――と、自分に言い聞かせる。
「……じゃあ俺も風呂に入ってくる」
「はい! ごゆっくり入ってきてくださいね! その間に準備は済ませておきますので!」
色々と分からない事が多かったが、とりあえず風呂に入ろうと俺は立ち上がった。
◆◆◆
お風呂はとても良い。特にこの寒い時期、体がポカポカと温まる。
十分に温まってから出ると、脱衣所は寒く感じる。
……バスローブも久しぶりに着るな。
バスローブなんてホテルくらいでしか着けないし、ホテルに泊まったのも昔旅行に行った時くらいだしな。
ふと、昔の事を思い出した。
「旅行、か」
割とインドア派な俺ではあるが、昔は両親に連れられてちょこちょこ旅行に行ったりもしていた。
以前も考えた気がするが、いつか凪ともどこかに行ってみたいな。
二人で、でもそうだが。瑛二達みんなとも行ってみたい。高校生のうちは難しそうだが。
そう思いながらバスローブを身につけ……一応下着は履く。
そして、一度深呼吸を挟んだ。うるさくなりつつある心臓を抑えるために。
……慣れないな。こういう空気。というか慣れる気がしない。
凪とキスをする時もそうだ。安心して心が満たされるけど……それ以上にドキドキする。
慣れる、のだろうか。……別に慣れなくても良いか。
「よし、行こう」
ドライヤーで髪を乾かし、部屋へと向かってノックをした。
「凪、入っても良いか?」
「はい、準備出来てますよ」
確認してから部屋に入ると――まず感じたのは暖かさであった。部屋は暖房が効いていた。
続いて、ほんのりと甘い匂いに気がついた。花の匂い、だろうか。
そして、凪は……床ではなく、大きめのマットの上で正座をしていた。俺と同じくバスローブを着て。
「いらっしゃいませ、旦那様」
「な、凪? これは……?」
「そうですね。一つ一つ説明していきましょうか。その前に、蒼太君もこちらにどうぞ」
凪に言われてマットの上に座る。マットも大きく、俺と凪が寝転がる事も出来そうだ。
「まずこの匂いですが、アロマディフューザー……アロマオイルを部屋に散布するものですね。アロマオイルも含めて、押し入れの中にあったんです」
「……そういえば見覚えがあるな」
ここに来てすぐの頃、押し入れの中とか色々探ってみたんだった。このマットもその時見つけたやつだな。
「はい。それと、蒼太君のマッサージをしようかなと。同じくマッサージオイルがあったんですよ」
「ああ、だから脱ぐ前提だったのか」
「はい。そして、風邪を引かないように暖房を強くしておきました」
なるほど。そういう事か。
それにしても……マッサージか。
「本格的なマッサージではありませんが、日本舞踊の練習や本番後に自分でマッサージはしてますので。基本的な事は出来ますよ」
「それは楽しみだな。ありがとう」
「ふふ、どういたしまして。それではこちらに寝転がってください。バスローブは脱いでくださいね」
凪の言葉に頷いてバスローブを脱いだ……ものの、一つ疑問が生まれた。
「なんで凪もバスローブなんだ?」
「オイルで服を濡らしてしまわないように、というのが表向きの理由です」
「……? 他にも理由が?」
「はい。ですが、そっちは後で話しますね」
後で、か。……話してくれるなら良いかとマットの上に寝転がる。
凪に目を向けると、彼女はマッサージオイルを指に馴染ませていた。
「こちらもとても良い匂いがするんですよ」
凪が手を近づけてきて……そこからは、部屋を満たしている甘い匂いとは違う、柑橘系の爽やかな匂いが漂ってきていた。
「あ、俺この匂い好きなやつだ」
「良かったです。それでは、肩の方から触っていきますね」
その言葉の後、ぴとりと肩に柔らかく暖かな手が触れてきた。
「全身の力を抜いてくださいね。リラックスですよ」
ゆっくりと円を描くように、肩に塗り込まれる。そして、硬く強ばった筋肉をほぐすようにぐっと力が入れられた。
「やっぱり肩、凝ってましたね。力が入っていたんでしょう」
「そうかもしれないな。今日は長かったし」
「では、少し強めにやっていきましょうか」
……ああ、気持ちいいな、これ。
凪に触れられた場所がぽかぽかしてきた。血行が良くなっているのだろう。
このアロマオイルも何かしら作用しているのだろうか。
それにしても、とても落ち着く良い匂いだ。
アロマオイルとセットで使われる事を想定しているからか、混ざってより良い匂いになっている気がする。
「背中も硬いですね。少し痛むかもしれませんが」
「うっ……ああ、でも痛気持ちいい感じだ」
気にしていなかったのだが、意外と背中も凝るものらしい。
小さな鈍痛の後、それを上回る気持ちよさに目を閉じてしまう。
「ここはどうですか?」
「……結構痛い」
ぐっと指を押し込まれた。ツボ押しというやつだろう。こちらは結構痛い。
「少しだけ我慢してくださいね」
「あっ、うっ……」
ぐりぐりとそこを押され、でも体を動かないよう頑張る。
少しの後、その指が離されて痛みが和らぐ。
「はい、お疲れ様です。またしばらく痛い事はしませんからね」
「……後であるのか」
「少しだけですよ」
いや、まあ……少しくらい我慢しよう。それだけ体に悪い部分があるという事だろうし。
「それでは次は腕の方にいきますね」
という風にマッサージは進んでいった。とても気持ちよく、痛いけどそれが終わると体が軽くなる。
「では、次は脚の方に」
「……ん」
気持ちよくて、眠気に
ビクッと体が跳ねてしまう。
普段人が触れる事が無い……太腿の付け根に指が触れていた。
「あ、ごめんなさい。言ってませんでしたね。股関節辺りのマッサージも大切なんです。特に凝り固まりやすい部分ですので」
「そ、そうか……」
「はい。少しだけ我慢してくださいね」
凪の言葉に頷いてうつ伏せに戻るも……落ち着かない。
落ち着かないというか、太腿の付け根というと色々と危ない場所で。どうにか我慢をする。……色々とバレてしまわないように。
しかし、彼女に隠し事が通用するはずがなかった。
「も、もし我慢が出来なくなったら。遠慮せず言ってくださいね。……蒼太君になら私、何でもしますから」
「……分かった。でも大丈夫だ」
色々と溢れそうになってしまったが、どうにか抑える。多分そうしたら……マッサージどころではなくなってしまうから。
「今は凪のマッサージの方が受けたい」
「……! 分かりました!」
凪の楽しそうな声が聞こえてきて頬が緩んだ。同時に全身の力を抜いた。
「では続き、やっていきますね」
ちょっとしたトラブルはあったものの、それからは順調にマッサージは進んでいった。時々痛かったりもしたが、少しずつ慣れてきて。今度こそ睡魔が襲いかかってくる。
「蒼太君、眠くなってきました?」
「……少し」
「分かりました。マッサージもこれで終わりですので」
もう終わりか、と思いつつ。ぼんやりと近づいてくる彼女を眺めていた。
「ちょっと体起こしますね」
「ん……?」
凪の手を借りつつ起き上がろうとして。でも、座ったり立つ事もなく。力が抜け、凪に抱きつく形となってしまった。
「ああ、悪い。今すわ――」
「いえ。これで合ってますよ、蒼太君」
腕に力を入れて座ろうとして。凪に手を握られて止められた。
「……?」
「私がバスローブを着ていた理由、話していませんでしたね。……脱ぎやすいんですよ、バスローブって」
――バスローブがはだけた。
透き通るような真っ白な肌が視界いっぱいに広がる。
「それと、こっちの方が感じやすいだろうなと思いまして」
その言葉にああ、と声が漏れる。彼女に手で招かれるまま……そこに頭を乗せた。
とくん、とくんと。鼓動が聞こえてくる。
それは生命の鼓動。彼女が生きている事を示す証だ。
「今日は本当にお疲れ様でした、蒼太君。よくがんばりましたね」
その手が頭に置かれて、撫でられる。……気持ちいい。
眼を閉じると、彼女の鼓動が全身に響く。全身に凪の暖かさが巡ってくる。
「おやすみなさい、蒼太君。……これからも蒼太君が頑張る度に私が支えます。癒やしますからね」
「……ありがとう。凪」
顔を上げて彼女の方を向くと、唇に柔らかいものが触れる。
幸せな気持ちが心を満たし、頬が緩んだ。彼女と気持ちが通ったようで。
「愛してますよ、
その言葉を最後に。意識は深い暖かい海の底に沈んでいく。
凪の暖かさが、そして鼓動の音が。荒んでいた心を癒やしてくれたのだった。
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