第19話 氷姫、動き出す 前編

 その日の帰り道。東雲はどこか上の空で。話しかけても、ちゃんとした返事は返ってこなかった。


 そして、その日は。初めて東雲から電話が掛かってこない日でもあった。


『今日は電話は遠慮しておきます』


 と、スマホに通知が入っていたのだ。


 ……やはり、怒らせてしまったのだろうか。一度話し合うべきだ、と。そう思い、朝は少し覚悟をして向かった。


 しかし。


「おはようございます、海以君」


 東雲は。ニコリと微笑みながら、そう挨拶してきたのだ。


「あ、ああ。おはよう?」


 その姿は、普段と変わらない……それどころか。いつもより機嫌が良さそうであった。


「昨日はすみません。少し……以前話した、新しく出来た友人にとある相談をしていて。電話が出来ませんでした」

「そうだったのか」


 俺がそう返すと、東雲は頷き……俺の顔をじっと見た。


「どうした?」

「いえ、なんでも。今日からはまた電話をするので。よろしくお願いします」

「お、おお。分かった」


 そして、いつもの場所に移動をした……しかし。


 普段より。距離が近いような気がした。


 勉強を教えて貰った時からそうしていたので、横並びなのだが。……手の甲が当たっている。それほどまでに近い。


「そういえば海以君」


 しかし、東雲はそんな事気にしないとばかりに。俺の名前を呼んだ。


 ……いや。よく見れば、頬や耳が赤いような気がする。


「傘、持ってきてないんですか? 今日は午後から雨が降る予報でしたが」

「……本当か?」


 俺は思わず。間の抜けた声を上げた。空を見るが、今はほとんど雲がない。


 そして、東雲を見ると。真っ白な傘を持っていた。


「うわぁ……洗濯物干してきてしまった」

「ああ……それは辛いですね」


 ちゃんと天気予報を確認しておけば良かった。


 ……まあ。くよくよしていても仕方ないか。


「海以君。良ければ――」


 東雲は何かを言おうとして……止めた。


「なんだ? 言いたい事があるなら遠慮しない方が良いぞ」

「――いえ、なんでもありません。気にしないでください」


 頬と耳を真っ赤にしながら、東雲はそう言った。……まあ、無理に聞く必要はないか。


 いや、それで本当に良いのだろうか。


 しかし、俺が改めて聞くより早く、東雲が口を開いた。


「そういえば。海以君って、ご兄弟とかはいらっしゃるんですか?」

「ん? 居ないが」

「そうですか……。ちなみに。ご両親のお仕事は?」

「父さんは地方の公務員。母さんは専業主婦だな。……どうした? いきなり」


 いきなり東雲に質問をされて驚いていると。東雲はいえ、と続ける。


「私。よく考えてみれば海以君の事、全然知らないなと思いまして。……良ければ。もっと教えて貰っても良いですか?」


 ニコリと笑うその笑みが……いつもより近くにあって。心臓がドクリと音を立てた。


「あ、ああ。良いぞ」


 そうして……結局、昨日の事を聞けないまま。東雲の降りる駅へと着いたのだった。


 ……そして。駅前のコンビニで傘を買おうと思っていたのに、忘れてしまった。


 ◆◆◆


「え、今日雨降るってまじ?」

「まじらしいぞ。天気予報ではそう言われてた」


 学校へ来ていつも通り瑛二と会話をする。どうやら瑛二も傘を持ってきてなかったらしい。


「まじかよ……霧香に迎えに来て貰うわ」

「ぐ……リア充が」

「はは。悔しければ彼女を作れ」

「別に欲しくないからいいか」

「いやそこは悔しがるやつだろうが」


 そんな会話をして。俺は思う。


 今日の帰り、どうしようか。走って帰るしかないな、と。


 ◆◆◆


「雨、ほんとに降ったな」


 玄関で瑛二と待ちながら。俺はぽつりと呟いた。


「しかも土砂降り。……あーあ。世の主婦様は今頃洗濯物の取り込みで忙しいだろうよ」

「俺。朝干しっぱなしで来たんだが」

「まじ? ドンマイすぎるなそれは」


 曇天の空に大粒の雨。最近冷えてきた事もあり、俺は思わずため息を吐いた。


 このまま帰ったら、十中八九風邪を引くだろうな。


「あー。霧香が迎えに来たら俺らで傘買ってこようか?」

「いや、大丈夫だ。人も待たせてるからな」


 こうなったら走るしかない。その準備をしていた時。


 一つ、スマホに通知が入った。


『電車。乗るのが一つ遅れそうなので、少し学校でお待ちしていただいても良いですか?』


 東雲からだ。珍しいな、電車に乗り遅れるなど。


『了解だ』


 それにしても、今行かなくて良かった。雨の中走って電車一つ分待つのは……確実に風邪を引くだろう。


「待つ人が遅れそうとの事だ。俺も少しここで待つぞ」

「お、まじ? じゃあ俺の方が先だろうな……お、噂をすれば」


 校門の方に桃色の傘が見えた。俺からだと分からないが、瑛二は見慣れているのだろう。


 そして、校門で見張っている先生と話し……恐らく、迎えに来た事の許可を得ているのだろう。そして、許可を得たらしく。こちらに歩いてきた。


「よーっす瑛二。天気予報はちゃんと見ないとそのうち風邪引いちゃうよん。みのりんも昨日ぶり。てかみのりんも傘忘れたんだ。意外」

「俺だって傘を忘れることぐらいある。というか、どちらかと言えばずぼらな方だぞ」


 と、少しだけ会話をしてから。瑛二達を見送る。


「それじゃあな、瑛二。また明日……俺が風邪を引いてない事を願ってくれ」

「……良いのか? 本当に傘買ってきても良いんだぞ?」

「多分その辺のコンビニは学生で溢れかえってるぞ。その気遣いだけで……なんだ?」


 その時。校門で異変が起こった。凄い人集ひとだかりが出来ているのだ。


 俺の言葉に合わせて。傘を広げようとしていた西澤も、その隣にいた瑛二もそこを見た。


「なんだ? 誰かの姉ちゃんが女優とかアイドルだったみたいな感じか?」

「絶妙にありそうだな」


 やがて、先生が道を切り分け……そこから。真っ白な傘をさした、女子高生が現れる。


 ……あれ。あの制服、見た事があるな。傘も、どこかで見たような。


 ゾワリと。心が撫でられるような錯覚に陥った。



 まさか。いや、そんなはずがない。



 しかし、そんな俺の思いとは裏腹に。その見慣れた制服を着た女子高生が。……雰囲気だけでも美少女だと分かる彼女は。


 俺の方へ、一直線にやってくる。周りの視線がどんどん集まり。瑛二と西澤もなんだと視線を向けるが……傘でその顔がよく見えない。



 そして、俺の目の前で止まって。





「海以君」




 俺の名を、呼んで。傘を下ろした。




「迎えに来ちゃいました」



 俺は思考が止まった。ぶわりと手汗が滲み。全身から汗が噴き出した。


「……し、東雲?」


 そこで、イタズラが成功した子供のように……笑っていた彼女は。


 ここに来るはずがない、東雲だったから。


 ◆◇◆


 前日の夜へ時は戻る。


「はぁ……」


 私は、痛む胸を手で押さえていた。あれから……どれだけ時間が経っても、痛みが和らぐ事がなかった。


 ご飯も残してしまって、お母様達に心配されてしまった。……早く、どうにかしないといけないのに。


「私。嫌な人です」


 自分で考えて。またため息を吐く。理由は明確だ……。



「海以君」


 彼が、ある女性……確か、親友の恋人でしたか。その方とスイーツを食べて楽しそうにしていた。


 その光景を思い出す度に。呼吸が苦しくなって、心が……心臓が痛くなる。


「……眠れませんね、今日は」


 だけど、海以君に電話をかける事は出来ない。……帰り際。とても雑な対応をしてしまったから。恐らく、今かけても同じ事になってしまう。


 それが分かっていたからこそ、辛かった。


「……海以君」


 彼の声が聞きたい。……また、頭を撫でて欲しい。

 どうしようかと。私はなんとなくスマホを見て……とある人の名前に目が止まった。



『ひかる』

 羽山光さん。そういえば、彼女と連絡先を交換していた。


「……相談、してみるべきでしょうか」


『友達は少ないより多い方が良いよ? 色々な相談も出来るし』


『恋の悩み、とかね? 私、口が堅いことで有名だし?』


 ……恋の悩みではない、はず。うん。違うはず。


 でも、相談するべきだ。私は意を決して、彼女の連絡先を開いた。


『今、お時間よろしいでしょうか』


 そう送ると。すぐに既読が着いた。


『お、なになに? 東雲ちゃんから連絡あるなんて珍しいね』


 その返信が返ってきて、私はホッとして……


 話した。彼の事を。


 とある方と友達になり、仲良くなって。そんな彼が、女性と食事に行くのを見て。苦しくなって、辛くなった事。


 大まかに、個人が特定されない程度に説明をした。


『ね、今電話していい?』

 私は少し迷い……了承の返事を送った。彼には今日、電話が出来ないことを伝えていたから大丈夫だろうと思って。


『もしもし。光だけど。聞こえてる?』

「は、はい。聞こえてます」


 電話越しに、彼女の声が聞こえる。あれから時折、話してはいたので。そこまで久しぶりではない。


『おっけ。まず最初に言いたい事があるんだけど、良い?』

「……お願いします」


 私はどうするべきか。羽山さんへ聞く。



『東雲ちゃん、これ恋してるよ』



 私は、その言葉を理解するのに多少の時間が必要で。


「ふぇ?」


 思わず、そんな声を出してしまった。

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