第4話 運動会

『三位は一組さんです! しかし、どんどん差は縮まってますよー! がんばってくださーい!』


 どくん、どくん、と。心臓の音が大きく、早くなっていく。


 運動会が始まって、ついに最後の種目になった。

 クラス対抗のリレー対決。一年生から六年生までの一組VS二組VS三組だ。クラスで代表の人を男女一人ずつ決めてリレーをする。


 それも、もう終わりが近づいていた。


「……はぁ」


 息を吐いて。隣はどんどんバトンを受け取っていく。


 俺達のクラスは途中で一人転んでしまって。半周近く差がついてしまっていた。


 でも。俺の前の子が頑張ってくれたから。その差はかなり縮んでいた。


 呼吸を落ち着けて、緊張で背中に汗がにじむ。


 この時間もいやじゃなかった。


「蒼太、君!」

「ああ!」


 真っ白な髪を一つに結んだ凪からバトンを受け取って、走る。


 流れるようにバトンを受け渡されて。スタートは成功した。



 走るのは好きだった。

 意味もないのに、やることがなければ走ってしまう日もあった。

 凪と出会うまで、父さんが忙しい日は外に走りに行く事もあるくらいだ。


 凪と会って、その回数は減ったけど。それでも走るのは好きだった。


 全力で走ると気持ちいい。

 風を感じる、と凪からおすすめされた本でよく出てきたけど、本当ににその通りだ。


 全身に風を浴びて。だけど、足りない。


 もっと速く走りたい。もっと風を浴びたい。



 ――としか、思っていなかったはずだったのに。


 今ではそれ以外に一つ、思ってしまっている事があった。



 ――凪に、良いところを見せたい。


 去年も一昨年も頑張って、一位になって褒められたから。

 今年も良いところを見せたいと思った。


「蒼太君、がんばって!」


 走っている中でも凪の声はよく聞こえた。きれいな、鈴のような声。


 がんばってと言われたのだから。がんばらない訳にはいかない。


「……」


 思わず笑ってしまいそうになった。



 ――楽しい。凪が来てからずっと。


 何をしても楽しい。何があっても楽しい。


 友達がいるって、こんなに楽しい事なんだ。



 ……ほんとに?


 心の奥でそっと。誰かが問いかけてきた。

 違う。誰かじゃなくて――俺だ。


 ……ほんとに、友達だから楽しいのか?


 その問いに、俺は何も返せない。


 ……友達ではなく――


 その言葉は無視して。全力で走り続けた。もう、すぐゴールが目の前にあったから。


『今! 一位で一組さんがゴールしました!』


 同時に、その声が聞こえた。


 走った記憶はほとんどなかった。

 ただ、楽しかった事だけを覚えている。


 一位なんだと理解したら、一気に疲れが来た。


 最後の人は一周走るからだ。俺も体力はそんなに多くない。疲れるのは当たり前だ。


 身体中から汗が吹き出す。全身で感じていた風が一気になくなった。


 呼吸を整えていた時。全身に衝撃が走った。


「すごいです! すごいですよ、蒼太君!」


 ぎゅっと。強く、強く抱きしめられる。


 熱く、柔らかい。いい匂いがして。


 一気に顔が熱くなった。


「な、凪。い、今、走ったばかりだから」

「……? も、もしかして倒れそうなんですか!? 支えます!」

「ち、ちが、違くて!」


 いい匂いがして。心臓がバクバクと音を立てた。


「そ、その。あ、汗、すごいから。汗臭い、だろ」

「……? 蒼太君が頑張ったって証ですよ」


 凪がこてんと、可愛く首を傾げて……ハッと。目を見開いて離れた。


「も、もももしかして私、汗臭かったですか!?」

「い、いや、そんな事はないけど。むしろいいにお……な、なんでもない」

「……! そ、そうですか」


 そこまで話して。俺はここがまだグラウンドの……走る場所からそう離れていない事に気づいた。



 視線が、すごい。


「な、凪。とりあえず戻ろう」

「は、はい!」


 遠くでカメラを構えている父さんは無視して……凪のお父さんがその隣でカメラを構えていた気がするが。多分気のせいだ。


「お、お父様……?」


 気のせいじゃなかったらしい。

 凪のお父さんってああいうキャラだったっけ。……最近父さんがよく話すって言ってたから。変な影響を受けたのかもしれない。


 そんな事を考えながら凪の手を引いて、クラスの列に戻る。


「蒼太君」


 後ろに座った凪がちょんちょんと肩をつついてきて、名前を呼ばれた。


 振り向くと、凪が両手を筒にして耳に当ててくる。


「私も。蒼太君の匂い、好きですよ。……汗をかいてる蒼太君の匂いも」


 耳にこしょこしょとかかる声にぞくり、と。背筋に何かが走った。


 その何かがなんなのかは分からない。

 でも……嫌なものではなかった。


 背筋が震えて、凪は小さく笑っていた。


 その言葉の意味も遅れて分かって。


 顔が熱くなってしまったので、凪から隠れるように前を向いていた。


 ◆◆◆


 運動会が終わると。あの時期がやってくる。


「海以君すごかったねー」

「うん! 最後のとこ速かったねー!」


 何人かの女子がやって来て話しかけてくるのだ。


「それも良かったけどさー」

「最後の東雲ちゃんとのハグ! やばくない?」


 一気に話しかけてくるので、愛想笑いを浮かべることしか出来ない。しかも凪は御手洗に行っている。


 早く戻ってきて欲しいと念じながら愛想笑いを浮かべ続ける。結構きつい。


 ……何がきついって。女子ではなく、男子達の視線だ。


 みんな、すごく面白くなさそうに俺を見ている。


 愛想笑いのせいで顔がガチガチに固まっていた時だった。


「そ、蒼太君!」


 教室に凪が入ってきてホッとした。凪がすたすたとこちらに歩いてきて。


「だ、だめです! 蒼太君は、だめです!」


 頭が真っ白になった。

 頭をぎゅっと、抱きこまれたから。後頭部に柔らか――だ、だめだ。こういうのは考えたら女の子に嫌われるって聞いた。


「きゃー! 大胆!」


 それに女子達が悲鳴……悲鳴? にしては喜んでるような気がする。


「ごめんね〜」

「東雲ちゃんがいないとこで勝手に話しかけたりしないから〜」

「お幸せに〜」


 それだけ言って、自分の席へと戻って行った。


「……」


 凪が離してくれてホッとした。凪はそっと肩に手を置いてきた。


「凪?」

「なんでも、ありません」


 その顔にはなんでもあると書かれてある。どうしようと迷っていると。向こうで女子達が俺達を見ていた。


「……いいよね」

「可愛すぎ」

「話しかけてよかった」

「推せるよねー」

「ねー」


 何かを話しているようだけど、その内容はよく分からない。


 ふと教室を眺めると。周りに比べて大人しくしている三人の姿が見えた。


 その三人は、一昨年まで俺に絡んできていた男子生徒。加藤達だ。


「……凪。本当に何をしたんだ?」

「なんの事でしょう?」


 多分、凪が何かやった。最初の頃はすごく怒っていたし。『俺』に呼び方を変えた後も怒ってたし。


 最近。全然話しかけてこなくなった。


「ふふ。なんの事ですかね?」

「……分かってやってるな?」

「さて、どうでしょう?」


 凪がちょんと、鼻を指でついてきた。


「はー。今の見た?」

「推せる」

「あの世界壊したくない」

「分かる」


 相変わらず、遠くで話している女子達の会話はよく分からない。


「む。よそ見はだめですよ」

「し、してないしてない」


 慌てて首をふると、凪は小さく笑った。


「蒼太君。昨日は本当によくがんばりましたね」


 その白い手が、頭に乗った。


「う、運動会だし。みんなもがんばってたし……凪もがんばってたからな」

「そうですね。みなさん、がんばってました。私もがんばりましたね」


 凪が後ろから机の前に回り込んだ。そのまましゃがんで、机の上に腕を置いてその上にあごを乗せた。


「がんばったごほうび。欲しいなぁって言ったらどうします?」

「……な、何が欲しいんだ?」

「いつものです」


 いつもの。……というと、あれしかない。


「い、今か?」

「はい! 今です!」


 ニコニコとする凪。すっごいニコニコとしている。

 これは……断るなんて出来ない。


 そっと、手を伸ばすと。凪は大人しく頭を差し出してきた。


 その雪みたいに真っ白な髪に手を乗せる。


 すごく、サラサラしていて気持ちいい。


「えへへ」


 凪も気持ちよさそうに笑っていた。


「はぁ……推せる」

「神」

「可愛いの化身か?」


 そんな凪が可愛くて見とれてしまって。遠くから聞こえるその言葉も、上手く聞き取る事が出来なかった。

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