第86話 心臓の音

「ふふ」


 どうしてやろうか、このいたずらっ子は。


『旦那様』と特大の爆弾発言を落とした凪。

 彼女は呆気に取られている三人を。そして俺を見て、子供のように楽しそうな笑みを見せた。


 とりあえず怒っている意思を込めて、両手でほっぺに触れてみる。


「ふぎゅっ」


 ついでにうりうりとする。痛くない程度に。

 凪のほっぺたはもちもちすべすべでさわり心地が良い。本人も目を細めて気持ちよさそうにしていた。


「えへへ」

「ちょーいちょいちょい。目の前でイチャつきすぎ。や、良いんだけど。良いんだけどね?」

「なぎりんのほっぺたもちもちで美味しそう……」

「やらんぞ」

「けちー!」


 人差し指で凪の頬をぷにぷにとしながら答える。凪がくすぐったそうにしていたので、そこで解放した。


 そこで、西沢が俺を見てニヤニヤと笑っている事に気づいた。


「……旦那様って言われてるんだ?」

「それは一旦忘れてくれ」


 えー? と西沢が口を尖らせ、今度は凪の方を見た。


「なぎりんなぎりん! いっつも旦那様って言ってるのー?」

「それはですね。えへへ」


 凪が嬉しそうに目を細めて俺を見た。その顔をされると俺としては……何も言えなくなる。


 せめてもの抵抗として、わしゃわしゃとその頭を撫でた。髪が乱れてしまったので一応その後に直す。


「……ほんと隙あらばイチャつくね?」

「う、うるさい」

「ふふ。その話もしたいんですが、冷めちゃうといけないので。食べながらにしましょう」


 その言葉に西沢達がハッとなった。

 さすがに目の前のホットケーキを食べる事が最優先のようだ。


「ではどうぞ、召し上がれ」

「いただきます!」

「いただきまーす!」

「いただきます!」

「いただきます」


 凪の言葉に皆が手を合わせ、食事が始まった。


「やっぱ最初はノーマルで! この甘さも良いんだよね」

「あ、分かる。そのままの甘さも美味しいんだよね……って美味しっ」

「あー! 美味しー!」

「ん、うめえ!」


 凪のホットケーキは三人にも好評であった。何も掛けなくても美味しいのだ。もちろん掛けても美味しい。


「あー、やば、美味し。……美味し!」

「ふわっふわ。すっごい美味しい」

「バターが効いてて良い感じに美味いな」


 三人とも美味しそうに食べている。俺としても、凪の作ったものが美味しそうに食べられているのはとても見ていて幸せである。


「良かったです! 蒼太君は美味しいですか?」

「ああ、美味しいよ。凄く」


 お世辞でも何でもなく本音だ。凪の料理はどれも美味しい。


 どうやら食べている顔で凪も分かるらしく、凄く嬉しそうに頷いていた。


 普段、凪は俺がご飯を食べている時によく顔を見てくる。それが少しむず痒くて、一度聞いてみた事があった。


『大好きな人の幸せな顔を見ると、すっごく幸せになるんです。それに、私が幸せにしてるんだなぁと実感が湧くので。だから、つい見ちゃうんです』


 と、彼女は言っていた。少しだけ恥ずかしかったが……それ以上に嬉しかった。


「あ、そーそー。なぎりん、いっつもみのりんの事は旦那様って呼んでるの?」


 西沢の言葉に思わずホットケーキを喉に詰まらせそうになった。どうにか飲み込み、念の為にコーヒーを流し込む。


 凪は一度俺を心配そうに見たが、何ともない事を目で告げると、一つ頷いた。


「いつも、という訳ではないですよ。頻度としては週に二、三度くらいでしょうか?」

「え、なんで? いつも言っててもおかしくない気したけど。凪ちゃんの旦那様呼びめちゃくちゃ似合ってたし」


 羽山の言葉に凪がニコリと微笑んだ。


「今は早いかなと。それに、私が『旦那様』と呼ぶ明確な基準もあるんですよ」


 得意げに胸を逸らし、凪はふふんと笑う。珍しい笑い方だ。


「蒼太君が一番言われて嬉しい時に言うんです。すると、蒼太君の心臓がドクンって強く跳ねて……それが好きなんです」

「な、凪?」

「ほほう? 具体的にはなぎりん、どんな時だい?」


 止めるかどうか迷っている間に凪は話し始める。


「帰ってきた時に不意打ち気味に、とか。朝、蒼太君が起きた時に彼の瞳を見つめながら……とか。その他は人前で話す事ではありませんね」


 凪がそっと顔を寄せる。手で筒を作り、俺の耳に当てた。


「お風呂のお誘いをした時にも言いましたよね。

「ッ……」


 言葉を失っていると、凪がそっと胸に手を当ててきた。


「と、いう感じですね。蒼太君」

「ま、魔性だ……なぎりんが魔性の女になってる」

「楽しそうでなによりって感じ?」

「んだな。蒼太も楽しそうで何よりだわ」


 どくん、どくんと跳ねる心臓に凪のほっそりとした指が置かれる。胸の奥で鼓動が奏でられる度、凪の笑みが深くなっているような気がした。


 その指が離れ。今度は凪自身の胸の上に手のひらを重ねさせた。


 つい目が動き、それを見られてしまう。彼女は口の端を持ち上げて微笑んだ。


「気になりますか? 私の鼓動がどうなっているか」


 とん、とその雪のように白い指が左胸を突いた。

 その柔らかな胸には簡単に指が沈みこんで、思わず目を逸らしてしまった。その先に居た瑛二はホットケーキに夢中のようであった。


 更に視線を逸らしつつ、顔を手で覆うと手のひらからに熱さが伝わってきた。咳払いを交え、喉奥から声を絞り出す。


「……え、絵面がとんでもない事になりそうだからやめとく」

「ふふ、そうですか。残念です。ではまた後で」


 その言葉に落胆の色は見えなかった。さすがに断ると分かっていたと思うが。


「い、言っておくが」


 その凪から一度目を逸らし、瑛二達の方を見る。瑛二はホットケーキを食べながら。二人はニヤニヤと俺達の事を見ていた。


「べ、別にずっとこんな感じじゃないからな。今日は少し、いや、かなり凪のテンションが高いだけだから」

「ふーん? へぇ……? じゃあみのりん達はいつもはどんな感じなの?」


 その言葉で思い出されたのは、昨日の事。


 昨日は夕飯を食べて、少しだけゲームをした。協力して出来る2Dアクションゲームだ。


 凪は今までゲームに触れてきていなかったからか、かなりおそるおそるのプレイであった。


 最初のコースすらクリアするのに一苦労で、でも、だからこそクリアが出来た時の楽しさは一入ひとしおである。


 凪が嬉しそうにしているとこっちまで嬉しくなって――


「おーい? みのりーん? すっごくニコニコしちゃってるけどー?」

「ッ……わ、悪い。少し考え事をしていた」

「もー、このバカップルめ」


 脳裏から離れようとしない凪の笑顔を一旦忘れるべく、ホットケーキを食べる。程よい甘さが思考を切り替えるのに丁度良かった。


「それにしても、なんかまた一段階ギア上がったよな。蒼太達」

「あ、それ思った。やっぱ婚約とか同棲ってなったら変わるのかねぇ……あ、ハチミツ掛けるの私好きかも」


 瑛二達の言葉に苦笑いをする。

 どうして、と言われても答えられるものではないから。


「恋人、ねぇ」


 ふと、羽山が呟いた。その言葉は小さくも、女の子からしてみれば聞き逃せないものだったのだろう。


「なになに! ひかるん恋人欲しいの!?」

「光ちゃんならすぐ出来ます! きっと良い人に会えます!」

「ちょ、ちょいちょい。別にそんなんじゃないから。熱量。熱量が凄い」


 二人の言葉に羽山は引き気味である。


「ここって私以外カップルだしさ。あ、私はそんな気にしてないよ? どっちかって言うと 見る方が好きだしさ。恋愛漫画とか好きなタイプだし」

「俺らは恋愛漫画と同じか……」

「や、ちょい言い方悪かったかな。人が幸せそうにしてるの好きなんだよね、私」


 羽山はそう言って笑う。


「なんか、逆に気使わせてないかなーって思ってね。私は私で楽しんでるから、あんま気にしないでね」

「ひかるんがそう言うなら! おっしゃ瑛二イチャつくぞ! おら食え!」

「ばっかお前俺が甘いの苦手なの知ってんだろ!あとフォーク突き出すな! 危ねえ!」


 ハチミツがたっぷりかかったホットケーキから避ける瑛二を見て、俺達は笑ったのだった。


 ◆◆◆


「案外やるな! 俺も結構やり込んでるんだぞ!」

「俺も昔からよくやり込んでたからな……一人で」


 ホットケーキを食べた後、俺達はゲームをしていた。今は格闘ゲームで瑛二と対戦をしている所だ。


「……! ……!」

「なぎりんの事見てるだけでも楽しいかもしれない」

「めっちゃ集中して見てるもんね。なんかすっごい可愛い事なってるし」

「だ、だって、その。す、すっごく面白いんですもん」


 俺と瑛二の後ろで非常に気になるやり取りがされている。凄く見たいんだが。


「おら! 隙あり!」

「うおっ!?」

「おっしゃ! やりい!」

「ああ! 負けちゃいました!」


 瑛二のキャラクターに吹き飛ばされ、画面にGAME SETと映し出される。


「……負けたか」

「はっはっは。俺に勝とうなんざ百年早いんだよ」

「や、だいぶ良い勝負だったけどね。次は負けるんじゃない?」

「お? 負けねえぜ! 連戦だ連戦! もっかいやるぞ!」


 瑛二の言葉に頷きつつも、後ろを振り向く。


「凪達はやらないのか?」

「私はやるの、好きなんですが。その、思っていた以上に見る方も楽しかったので。もう少し見ようかなと」

「私も見るの好きだし、後でやろうかな」

「私もー!」


 それなら良いかとまた画面を見た時だった。


「あ、蒼太君。隣失礼しますね」

「な、凪?」

「こっちの方が見えやすいので」


 凪がすぐ隣へと来た。本当に、すぐ隣に。


「やっぱり蒼太君の隣はしっくり来ますね」

「そ、そうか?」

「はい。それに、やっぱり私も蒼太君に見られたい気持ちはありますので」


 きゅっと、服の裾を捕まれる。彼女の方を見ると、えへへと彼女の口からは笑みが零れた。


「あーいうのだよね、ひかるん」

「そーそー。あの氷姫がこんなに甘々氷砂糖姫になるとはね」


 背後からその言葉を受け、凪の耳が赤くなる。それでも、その表情は少しだけ嬉しそうにしていた。


「蒼太! 次も負けないからな!」

「……ああ、俺も負けない」


 俺としても、多分凪が隣に居る事で安心していたのだろう。


 続く瑛二との勝負で負ける事はなかったのだった。

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