第97話 選択

「結論から言う。二人への危機はなくなった」


 会議室に入ると、宗一郎さんは開口一番にそう言った。

 ……誰も居ないが、念のため外行きの呼び方にしておこう。


「となると、消息不明だった二人と話せたんですか?」

「ああ。二人と話がついた。それも蒼太君のお陰だ」

「俺の?」


 唐突な言葉に首を傾げてしまう。何もしてないと思うんだが。


「車木君の件、と言えば伝わるかね?」

「……え?」


 思いもよらない人物の名前が出てきて、また聞き返してしまった。


 車木さん、と言えばあの人だよな?


「元々は優秀で人当たりも良く、良い人材だったらしい。……しかし、昨年の十二月頃からとある人物の悪評を広め始めた」

「……それって」

「ああ。蒼太君の悪評だ」


 十二月頃から俺の悪評という事は……そういう事か。


「向こうの仲間……協力者だったんですか?」

「結果としてそうだった。以前から原田に伝えていたんだ。『海以蒼太の悪評を広めている人物が居たら証拠を集めろ。もし特定出来たら呼び出してくれ』と」

「……ああ。だから宗一郎さんからの仕事って」


 一つ一つ納得出来る材料が揃っていく。あの時原田さんが言っていたのはそういう事だったのだ。


「これまで調査は難しく、人物の特定は滞っていた。――だが、蒼太君が仕事に入ってから彼女はより悪評を広めようと必死になった。これは彼女と仲の良かった人物から聞いた事だ」

「……」


 それで見つかった訳か。


 この言い方からすると、悪評を広めた人物を絞り込むのは難しかったらしい。

 つまり、それだけ俺に不満を持っていた人が多かったのだろう。


「――蒼太君」

「……大丈夫だ、凪。もう気にしてない」


 その言葉は本心だ。

 あの時、原田さん越しに伝えられた事を思い出す。


「俺が想像している以上に味方は多い。ですよね、宗一郎さん」

「その通りだ。私もその一人、だからな」

「心強いです。凄く」

「蒼太君、私もですからね?」

「ああ、分かってる。ありがとう、凪」


 ぎゅっと机の下で手を強く握ってくる凪にそう返して、少しの緊張が緩んで微笑む。


 しかし、真面目な場でもあるため程々にして。宗一郎さんへと視線を戻した。


「話を戻そう。原田は車木君を南川グループからの回し者だと考え――結果、『クロ』だったという訳だ」

「そこから二人の居場所を掴んだと」


 正解だ、と言わんばかりに宗一郎さんは頷き――その表情から色が抜け落ちる。



「少々口は硬かったが……滞りなく進んだ」



 その声は普段通りの平坦な声だった。しかし、その表情と相まって場が数度冷え込んだような錯覚に襲われた。

 ……どこかで経験したような感覚だな。


 しかし、それも一瞬の事。すぐに元の表情へ戻った。


「仲間の事も聞き出し、彼女を通して二人とも話し合いは済んだ」

「なるほど」


 その情報の信憑性とかは……大丈夫なんだろうな、きっと。何をしたのかは少し怖いので聞かないでおこう。


「ひとまず解決したと言って良い。もう一度南川陽斗君と話し合ってからになるが――そうなると、二人があのマンションで暮らす必要もなくなる」


 宗一郎さんの言葉に俺は目を瞑った。


 ……最近忙しくて考えるのを忘れていたな。



「ここまでが現状報告だ。――これからの話をしよう。二人に話たい事がある」


 一度凪と目を合わせ、そして二人で宗一郎さんを見る。


「凪。あの事は話したか?」

「……はい。ですがごめんなさい。まだ話し合いは済んでなくて」

「問題ない。まだ十分に時間はある。……それに、私からも改めて話そうと思っていた」


 あの時の話だろう。『二人暮らしをしても良い』というもの。


 背筋を改めて正し、宗一郎さんを見つめる。



「私も最初から大きな会社を持っている訳ではなかった」


 そう前置いて、宗一郎さんが話し始めた。


「最初は小さなマンションの一室を自室兼事務所にしていた。そこから少しずつ大きくなっていき、やがて今のような会社を持つようになった」


 その目が細まり、昔を懐かしむように遠くを向いている。



「――最初に使っていた事務所を今でも残しているんだ。不思議と愛着が湧いてしまっていたようでな。荷物は取り除いたが、管理はしている。……そして幸い、家具は使っていないものがいくつもある」


 その瞳が俺と凪を射貫く。どこまでも吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳が。


「場所は会社から遠くない。二人の学校にも電車から一本で行ける。蒼太君の部屋と比べれば小さいが、好きに使って欲しい」

「……! パパ、もしかしてそこが――」


 宗一郎さん――お義父さんは優しく微笑んだ。


「二人で『好きに』使って欲しい。少し小さいとは言ったが、二人で暮らすには十分だろう。曜日を決めて、その日だけ泊まるといった使い方をしても構わない。どちらにせよ使っていない部屋だからな」


 凪と目を見合わせて、そしてお義父さんと目を見合わせる。お義父さんがこくりと頷いた。



「これで私からの話は以上だ。後は二人でゆっくり考えて決めると良い」

「ありがとうございます、パパ」

「どういたしまして、と言うべきかな。ここは」


 小さく笑うお義父さんと凪を見ていると、ついあの頃と比べてしまって頬が緩んだ。


 仲良くなって良かった。本当に。


「それでは行こう。厚川達も待っている」

「はい! 行きましょう、蒼太君!」


 凪に手を引かれて立ち上がる。もう完全に外行きの表情ではなくなったな。


「……ありがとうございます、お義父さん」

「どういたしまして、だな」


 お礼を受け取ってくれるお義父さんに少しくすぐったくなりつつも、改めて考えていた。



 ……これからどうするべきか。



 ◆◆◆


「さて、ではお話をしましょうか」


 最初の頃に決めた、一日一度の話し合い。今日の議題はもう決まっていた。


「お義父さんが使って良いと言った部屋をどうするか、だな。……二人で暮らすのか、暮らさないのか」

「はい、そのお話ですね」


 そこで会話を切って、考える。


「試されてるんだろうな」

「ですね。どんな答えを出しても尊重されるとは思いますが」



 俺と凪がどんな選択をするのか。


 ……きっと正解はない。ただ、それまでの過程が重要だ。



「何を考え、どのように答えを出すのか。大切な事です」

「そう、だな」


 凪を見ながらじっと考える。


 凪はどう思っているのか――と開きかけた口を閉じる。



「先に俺から言っても良いか?」

「もちろんです」


 にこにこと楽しそうに微笑む凪。その眼差しは期待の色で満ちあふれている。



「俺としては……凪と離れたくない、というのが本音だ」


 そこで言葉を切るも、凪の瞳は変わらずこちらを見つめていた。

 ……言葉に続きがある事を見透かすように。



「――ただ、凪と暮らして一つ思った事がある」

「なんでしょう?」

「俺は凪の事が好きだ。大好きだ。……もう絶対に離れたくない、と思うくらいに」

「同じ気持ちですよ、私も」


 机の上で手を伸ばされる。握ると、彼女の暖かさが伝わってきた。



「だからこそ、このままじゃダメなんじゃないかって思った」

「……と言いますと?」

「もし、今凪が俺の前から居なくなったら……俺はダメになると思う」

「居なくなりませんよ、私は。絶対に」


 手を強く握られた。少しびっくりしてしまうぐらい、強い力。

 目を合わせると、その瞳は強く明るく輝いていた。



「分かってるよ。凪は居なくならない。……でも、俺が嫌なんだ。凪と一緒に居ないと頑張れない俺が」


 帰ってきたら凪が居る。それがどれだけ心強くて嬉しい事なのか。この短い期間で知った。


 だけど、それは今の俺にとって――甘すぎる日常であった。



 別に事故や病気を想定している訳じゃない。


 もし彼女が何らかの事情で一ヶ月家に居なかったり……それか、俺が一ヶ月家に居なくなる時が来る可能性だってある。


 そうなると凪と出会う前の頃のように、とまでは言わないが。かなりメンタルもやられるだろう。


 だから、今は彼女と共に過ごさない日も大切なのではないかと考えた。……考えたのだが。


「それはそれとして、凪と一緒に居たいという気持ちは変わらない。出来る事ならずっと一緒に居たいという気持ちもある」

「……ふふ」


 凪の手の力が緩み、瞳に宿る光が淡く優しいものになる。



「少し話が長くなったな。結論を言うと――土日はお義父さんが言っていた家で一緒に過ごしたい。平日はお互いの家……でも良いし、どっちかの家に泊まりに行っても良いと思う」


 そこで言葉の整理を続けていた脳の回転を落ち着かせる。


「凪はどう思う?」

「同じです」


 手が一度解かれる。そして、彼女は手のひらをこちらに向けるように差し出した。


 そこに手を合わせれば、きゅっと指を絡めるようにして握られた。



「実は最近、蒼太君が居ない時間がとても寂しくて……このままでは良くないなと薄々思ってたんです。その気持ち自体が消える事はないでしょうが、私も感情のコントロールを身につけなければいけません」



 指が手の甲を優しく撫でる。凪がもう片方の手を取りだして、手を包み込むように握った。


「ですので、良い塩梅だと思います。私も日本舞踊や習い事の再開、そして他にやってみたい事があって平日は忙しくなりますので」

「……そうなのか?」

「ふふ、自分磨きみたいなものですね。蒼太君だけに努力をして貰うだけの私ではありませんから。ママともっと仲良く――いえ。これ以上は秘密です」


 凪が秘密だと言うのなら、こちらからこれ以上詮索する必要もないだろうな。


「という事なので、私も休日はお泊まりで良いかと。平日も時々は泊まりに行きますし、私のお家にも泊まりに来てください。須坂さんやママも会いたいと言ってましたので」

「ああ、分かった」

「……あ、でも一つだけ良いですか?」

「ん?」


 なんだろうかと思いながらも言葉を待つ。彼女は笑みを一切崩さない。


「蒼太君のご飯は私が作ります。これだけは絶対に譲りません」

「……でも」

「これだけは絶対に譲りません。蒼太君には健康的で美味しいご飯を食べて欲しいですから。特に体が成長する学生の間は」

「……分かった。ありがとう、凪」

「どういたしまして、ですね」


 正直、そこは不安だった。

 ……俺はもう、完全に彼女に胃袋を掴まれていたから。


「あ、でもたまには外食やジャンクフードを食べたい日もあるでしょうし。その時は先に言って頂けると助かります」

「分かった。多分ないと思うけど」


 凪がくすりと笑い声を漏らす。釣られて俺も笑った。


「では、そういう事でお願いします」

「ああ。……お母さん達にも改めてちゃんと話をしないといけないな」


 先程連絡を入れてみたら二つ返事でOKが貰えたし、宗一郎さんからも話してくれたらしいが……もう一回ちゃんと話さなければならない。


「さて、それではお話はこれくらいにしましょう。蒼太君」

「分かった」


 凪が立ち上がり――向かいから隣へと座ってきた。体を密着させるように。



「そうと決まれば、蒼太君と一緒に居る時間も短くなってしまいますね。来週末までは大丈夫ですが……その分、一緒に居る時間はより濃密な時間を過ごしたいところです」

「そ、そう、だな」


 肩にほっぺが乗せられる。もちもちで、柔らかなほっぺたが。


「また蒼太君と眠る前に電話が出来る、というのも楽しいですが。……ふふ、いけませんね、私。蒼太君となら何をするのも楽しくなっちゃいます」


 そのほっぺが離されて、顔が近づけられる。


 そちらを見ると同時に唇を重ねられた。



「今日はまだ、帰ってからしてなかったので。お疲れ様でした、蒼太君。……本当に、お疲れ様です」


 手がそっと胸の上に置かれた。心臓の音が聞かれている。よくされる事だけど、慣れない。……何もかもが。


「明日はお休みですから。以前蒼太君が言ってくれたネイル……マニキュアを見に行ったり、お家でも色んな事をしましょうね」

「……ああ。色々しよう。家が変わっても、色んな事を」


 まだまだ凪とやれていない事は多いのだから。行きたいところもたくさんある。



「ぎゅー、しましょう。蒼太君」


 言葉を返すよりも早く彼女を抱きしめて、唇を重ねる。



 また生活が大きく変わる。

 それはこれから何度も訪れるだろう。


 しかし、それが怖くない。それどころか、今は楽しみに思えた。

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