第94話 魔法

「なんか久しぶりな気がする。こういうの」

「そうですね。最近は私が蒼太君に甘えてもらう事が多かったので」


 ソファの上。腕の中に凪が居る。

 ……最近は何かと立場が逆だった。凪の腕の中に俺が居る事が、だ。


 それも別に悪い事ではない。良い事だろう、甘えられる人が居るという事は。



 そして、凪に甘えて一つ思い出した事があった。



 それは、凪と出会って少しして――彼女が俺に頭を撫でて欲しいと言ってきた時の事だ。


 あの時の事を思い出して、凄いと改めて思った。誰かに寄りかかる事って意外と大変で、とても大切な事だったから。


 だからこそ、また凪に甘えて欲しいと思った。彼女を甘やかしたかった。



「凪。ほっべた触っていいか?」

「もちろんいいですよ。……別に許可を取らなくても、蒼太君ならどこを触ってもいいんですよ?」

「そ、それでも無断は色々と良くない気がするから……俺が」

「ふふ、そうですか? 断る事はないですから、安心していつでも聞いてくださいね」


 また凪のペースに乗せられそうだったが、どうにか切り替える。


 頬を触ってみると、凄くすべすべもちもちとしていてさわり心地が良い。いつまでも触っていたくなる。



「……改めて凄いよな、凪」

「……? 何がですか?」

「肌の手入れとか、だな。最近凪に化粧水とかを塗って貰って改めて思うんだ。毎日するの、本当に凄いなって思う」

「ふふ、ありがとうございます。もう日課になっちゃってるので、そんなに大層な事でもないんですけどね」

「そう言えるのが本当に凄いよ」



 今の俺なら多分続けられるが、多分凪と出会う前の俺なら三日坊主となっている。

 自分磨きを続けられるという事は本当に凄い事だ。


「凪が恋人で良かった。……本当に」

「私もですよ」


 頬を弄ばれながらも嬉しいことを言ってくれる凪。ほっぺを更にむにっと掴んでみると、指に幸せな感触が広がった。


「貴方が恋人で本当に良かった」

「……ああもう」


 そんな事を言われると幸せな感情が溢れてしまう。

 つい手を離し、凪の事を抱きしめてしまった。


「今日は俺が凪の事を甘やかす番なんだぞ」

「ふふ、そうでしたね。じゃあいっぱい甘えちゃいます」


 とんとんと肩を叩かれ、彼女の事を離す。すると、凪がぎゅうっと強く抱きしめてくれた。



「頭、なでなでしてください」

「……分かった」


 言い方に悶えそうになりながらも、真っ白な絹糸のような髪の上へ手を乗せる。


 新雪のようにふわふわな髪はとても触り心地が良い。

 そして、頭に手が乗せられると凪の表情がへにゃっとなる。ずっと撫でていたくなる原因だ。


「えへへ」


 その唇から笑みが漏れて、凪は胸に顔を擦り付けてきた。

 本当に……ため息が漏れてしまいそうなくらいに可愛らしい。



「いつも、美味しいご飯ありがとう。凪」

「どういたしまして、です。……ちゃんと美味しいですか?」

「ああ。凄く。めちゃくちゃ美味しいよ、いつも」

「ふふ、知ってます。いつも美味しそうに食べてくれますもんね」


 弾む言葉が耳を撫でる。甘えて貰っているはずなのに、こっちの方が幸せになってしまう。


 髪を梳くように撫でると、その髪は指に引っかかる事なくするすると滑り落ちる。この髪だって、凪の努力がなければこんなに艶のあるものにはならなかっただろう。


「楽しそうですね」

「ああ。楽しいというか、嬉しいんだよ」



 顔を下げるとすぐ目の前に凪の顔がある。

 見ているだけで頬が綻んでしまいそうなくらい綺麗で、愛らしくて。


「凪の見えない努力を今は知っている。……もちろん全部とは言えないだろうけど。それが嬉しいんだ」


 凪の事をもっとたくさん知りたいと思っていて、もっと知る事が出来た。

 凪がぐーっと顔を埋めてきて。ふふっと小さく笑った。


「私もですよ、蒼太君」


 その手が伸びてきて、今度は俺の頬がくすぐられる番だった。


「蒼太君と一緒に暮らして、もっとたくさん蒼太君の事を知れて。とっても嬉しいです」

「……ん、そうか」



 撫でて少しだけ崩れてしまった髪を直し、姿勢を正す。


「……そろそろ次、行こうか」

「次、ですか?」

「ああ、次だ」


 今俺と凪が座っているソファは大きいから寝転がる事も出来る。……よし。


 手を伸ばして小物入れに入っている耳かきを取った。


「おいで、凪」

「……! 耳かきですね!」



 凪は喜んで膝に頭を乗せた。……迷う事なくこちら向きで。


「えへへ。蒼太君に膝枕してもらうの、久しぶりです」

「最近は俺が甘えてばっかりだったからな。寝づらくないか?」

「ふふ。蒼太君の匂いがいっぱいしますから、熟睡だって出来ますよ」


 お腹に顔を埋める彼女に少しだけ恥ずかしくなってしまいながらも、凪が楽しそうだから良いかと頭を一度撫でる。


「耳かき、痛かったりくすぐったすぎたら言ってな」

「はーい」


 元気に返事をする凪を見て微笑みながらも、間違って怪我をさせてしまわないようしっかりと耳かきを握り直す。


「じゃあ始めるぞ」


 なんだかんだ凪に……というか人に耳かきをする事自体初めてなので、少しだけ緊張する。


「ん、ふふ。ちょっとくすぐったいです」

「……悪い、ちょっとだけ我慢してな。すぐ感覚掴むから」


 緊張していたせいか、少し力が入りすぎていたらしい。俺がリラックスしなければ。



 くすぐったそうにする凪もちょっと見ていたいが、さすがにちゃんとしなければいけない。


 しかし、続けてみると案外慣れるものだ。凪がゆったりと眼を瞑る姿を見てホッとする。


 耳も綺麗ですぐに終わり、最後に耳かきの反対にある梵天ぼんてんで仕上げを――



「へにゅん!」

「悪い。……一声掛ければ良かったな」

「そ、蒼太君。……笑っちゃいそうになってますよ。意地悪です」

「ごめんごめん。でも可愛くて」


 予想外の声に思わず笑ってしまい、謝罪の意を込めて頭を撫でる。


「凪、反対の耳やるぞ」

「むぅ……次はちゃんと声かけてくださいね」

「ああ、今度こそちゃんと声かけるよ。ごめんな」


 反対を向く凪。向こう側を向いたが、身を捩ってこちらに寄せてきている。

 もう頬が緩んでいるはずなのに、もっと緩みそうになるな、ほんと。

 こういう姿を見せてくれるのは凄く嬉しい。


「ん……気持ちいいです」

「良かった」


 耳かきをしていると、段々と目がとろんとしてきて。眠たそうな姿を見せてくれる。


「眠たくなったら眠っていいからな」

「ん……まだや、です」

「そっか。分かった」



 凪の目は眠そうだが、まだしっかりとした光が宿っていた。

 寝たくないという明確な意思がある以上、あんまり眠らせに掛かるのも良くないだろう……と、頭に伸ばしかけた手を引いた。



 それから耳かきが終わるまで、凪はちゃんと起きていた。


「梵天するぞ」

「はい。……んにゅっ」


 その声を上げるのを聞いて微笑みつつ、耳かきを片付ける。


 すると、凪がぽやぽやとしながら腕を広げてきた。


「ベッド行くか?」

「お願い、します」

「分かった。一応頑張って掴んでな。落とさないようにはするが」

「はい……」


 これは……ちゃんと抱えないといけないな。



 ソファで横になる彼女の膝と背中に腕を入れ――持ち上げる。


「重くない、ですか?」

「重くないよ。全然、まだまだ軽いくらいだ」

「良かった、です……まだまだおっきくなってもだいじょぶですね」

「……? そうだな。まだまだ大丈夫だぞ」


 凪がそんな事を言うなんて珍しいなとは思いつつも、食べる分には全然問題ない。恐らく身長も伸びるだろうし、俺も一応鍛え続けないとな。



「じゃあベッド向かうぞ」

「ふぁーい」


 ぽやぽやと目を薄く開いては閉じる凪を抱え、俺達は自室へと向かったのだった。


 ◆◆◆


「えへ……ぎゅー、です」

「ああ、ぎゅーだな」


 ベッドの上。今日は凪が俺の胸に頭を乗せてきて、ぎゅうっと強く……はないけど、抱きしめられていた。


「蒼太君の心臓の音、大好きです」

「いくらでも聞いてくれ。凪が好きなら」

「それなら、ずーっと聞きます。これからもずっと、私が聞きます」

「ああ。凪だけだよ。これまでも、これからも」

「……うん。ずっといっしょ」



 眠くなっているからか、多分そこまで頭が回っていない。思っている事をそのまま口に出しているようだ。


「ありがとう、凪。大好きだよ」

「……わたしも、だいすき。そーたくん」



 未だに慣れない。いや、ですます調じゃない凪は滅多に出てこないからなんだが。今度、ですます禁止で話して貰ってみようか。



 ……まあ、別に良いか。慣れても慣れなくても。



「また今日みたいな日、たくさん作るから。……おやすみ、凪」

「おやすみ、なさい。そうたくん」



 ゆっくりと目を瞑り、静かに寝息を立て始める凪。



 今日は甘えて貰おうと思っていたのに、こちらの方が癒される事となった。



 ――まるで、魔法でも掛けられたみたいに。幸せが心をいっぱいに満たしていた。

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