第46話 凪とベッドへ――

「……ああもう」


 湯船に浸かりながら、俺は何度も顔にお湯をかける。


 先程の事が脳にこびりついている。目を瞑れば思い出してしまう程に。


「良くない。良くないぞ、俺」


 凪をそういう目で見た事がないかと聞かれれば、素直に首を縦に振る事はできない。色々と……凪の女性らしい部分が当たったりする事はあったから。


 しかし、なるべくそういう視線を向けないようにしていたのも事実だ。理由として――


「そういうの。苦手……だよな。きっと」


 俺が凪と知り合う。助けたきっかけだ。凪は痴漢に遭っていて、そのせいで男性が怖くなった。


 だから、そういう事を想起させてしまうかもしれないし……数年後とか。俺達が成人してからになると勝手に思っている。


『蒼太君は別ですよ』


 ――勝手な俺の妄想だ。凪にこんな事を言って欲しい、と勝手に思い描いているだけだ。


「……はぁ」


 この熱いお湯が心地良い。俺はため息を吐きながら、お湯の中に顔を沈めるのであった。


 ◆◆◆


 髪や体を拭いて、パジャマに着替える。


 凪はリビングに居る。『私は大丈夫でしたが、本来お風呂はリラックスするべき場所です。私は本を読んでどうにか気を紛らわせますから、ゆっくり入ってきてください』と言われたのだ。


 そのままリビングに向かうと――俺はつい、足を止めて。凪を見てしまった。


 凪はソファに背を預け、集中した様子で本を読んでいた。


 その青い瞳が上下に動き、白魚のように細く綺麗な指がページをめくる。


 そして、時折何かを考えるように顎に手を添える。じっと、本ではなく何も無い空間を……虚空を見つめて何かを考えているようだった。


 しかし、それは十秒にも満たない時間。


 また、その指が本へと戻り。ぺらり、とページをめくる音が部屋に響く。また凪の瞳が上から下へと断続的に動き始めた。


 ――ああ、綺麗だ。


 その一言に尽きた。


 あの時とも――凪と出会う前に見ていた表情とも違う。

 失礼かもしれないが、公演会の時を思い出した。


 取り繕う訳でもない、真剣な凪の表情。それはとても綺麗で。


 思わず見蕩れてしまった。


 その時、ふと。凪の手がページをめくる音が止まり。その顔が上げられた。


「――あれ? 蒼太君、もう上がってたんですか?」

「あ、ああ。今さっき上がった所だ」


 凪の蒼い、海の底のような瞳がじっと俺を見てきて。

 やがて、その形の良い眉が顰められた。


「……蒼太君。こっち、座ってください」

「ん? あ、ああ」


 凪が本に栞を挟み、机の上に置き。隣をぽんぽんと叩いた。


 今更ではあるが、今の凪はふわふわもこもこの空色のパジャマを着けている。先程見蕩れてしまったのはその服装とのギャップもあったのかもしれない。


 そんな事を考えながら凪の隣へ座ると。凪が俺の頭に手を伸ばし、髪を触る。そして、ジトッとした目で俺を見てきた。


「……やっぱり。ちゃんと乾かしてませんね、蒼太君」

「あ……」


 やばい。ついいつものように半端な乾かし方になっていたか。


「い、いや。自然乾燥とか。結構すぐに乾くぞ?」

「いくら部屋に暖房を効かせていてもダメです。風邪引いちゃいますよ」

「……ごもっともです」


 何も言い返せない。凪の言葉に反省していると、くすりと笑う声が聞こえた。


「もう、しょうがないですね。私が乾かしてあげます!」

「え? い、いや。それは……凪に悪いというか」

「私は嫌じゃありませんし。むしろ、蒼太君の髪を乾かすのも楽しそうですから」


 そう言って凪は立ち上がり、自分の荷物の中からドライヤーを取り出した。


 そのままソファ越しに俺の後ろに回る。


「それじゃあ乾かしますよ?」

「……ああ、ありがとう」


 大人しく俺は受け入れる事にした。凪がドライヤーの電源を入れると、ぶおおっと強い風の音が耳に入る。しかし、そんなにうるさくはない。


 その暖かい風が髪に当てられ、手で髪をわしゃわしゃと撫でられる。


「熱かったりしませんか?」

「ああ、大丈夫だ。気持ちいい」


 凪の細い指が髪をかき分け、頭全体がポカポカと暖かくなる。


 気持ちよくなり、思わず目を瞑ってしまう。



「軽くマッサージもしておきますね」


 凪はそう言って、今度はぐっ、ぐっ、と頭を揉んでくれる。それがまた気持ち良い。


「……ふふ。気持ち良さそうで何よりです」

「ああ。凄く気持ち良い」


 凪の楽しそうに笑う言葉にそう返すと、凪の指に力が入り。気持ちよさに思わず眠りそうになった。


 五分ほどすると、ドライヤーの音が止んだ。


「さて。こんな所ですね」

「ありがとう。とても良かった」

「ふふ。どういたしまして」


 そうしてドライヤーを片付ける凪を見てから……俺は時計を見た。

 そろそろ凪が寝る時間だと気づき、それと同時にとある事を思い出した。


 ……凪の寝る場所、どうしようか。


 いや、まあ大丈夫か。ソファもあるんだし。


「そろそろ寝る時間だから、凪は俺の部屋のベッドを使ってくれ」


 そう言うと。凪はピタリと体を止めて俺を見返した。


「……蒼太君はそちらのソファで寝るとか言いませんよね?」

「ん? ああ、そうだな。クッションを枕替わりにすれば寝られるはずだし」


 ソファはそんなに大きくないが。……まあ、どうにかなるだろう。


 だが。


「だめです」


 凪は怒ったようにそう言った。


「い、いや。しかしだな……」

「だめです。一緒に寝ます」


 凪は頑としてそこを譲るつもりはなさそうであった。


 ……でも、ここで変に断りすぎるのも凪を傷つけるか。


 俺は色々と考えた後に頷いた。


「……分かった」


 俺がそう言うのを見て、凪が嬉しそうな顔を見せる。


「はい! それじゃあベッド、一緒に行きましょうか!」


 変な事をするつもりはない。しかし、その言い方が少し気になってしまった。


 凪なら『一緒に寝ましょうか』とか言いそうなものだが。

 いや、考えすぎだ。別にどちらでもそんなに意味は変わらない。


 凪に続いて歩き、寝室に向かう。嫌に心臓がドキドキとしている。


 寝室に入ると、凪がニコリと微笑み。


「それじゃあベッド、失礼しますね」


 ベッドにごろんと横になった。そして、ぽんぽんと横を手で叩く。


「さ、蒼太君も早く来てください!」

「ああ、分かった」


 これじゃあどっちが家主か分からないな。


 そんな事を考えて思わず笑ってしまいながらも、ニコニコとしている凪の隣に寝転がった。


 元々ベッドも大きめの物を買っていたので、二人で横になっても苦にならない。


 顔を向けると、すぐ隣に凪が居た。


 横向きになって、俺をじっと見ている。


「えへへ……私、お泊まりって初めてなんです。なんだかドキドキしますね」

 そのまま凪の小さな暖かい両手が俺の右手を挟んだ。


「……ああ、そうだな」


 高鳴る心臓をどうにか意識の外に持っていきながら。 凪をじっと見た。


 その柔らかい瞳が俺を見て。手をきゅっと握られる。


 凪の微笑みがどんどん濃くなった。


「ふふ。嬉しいです、蒼太君と横になれるなんて」

「……朝だって。ベッドに潜り込んで来ただろ」

「あの時とは別です。今はあの時よりもっと、蒼太君が傍に居るような気がしますから」


 そう言って。凪は体をもぞもぞと動かし、少し近づいてきた。甘い花のような香りが鼻腔に届く。


「でも少し、緊張しますね。男の子の隣で眠るのは初めてなので」

「……そんなに緊張しなくて良い。変な事をするつもりはないからな」


 凪が安心して眠れるよう、そう言うと――


 凪はまたじっと俺を見て。


 頬を赤くした。


「……変な事、本当にしないんですか?」


 小さく、しかし確かにそう聞こえてしまって。

 俺は思わず、固まってしまったのだった。

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