第47話 やめられない

『……しないんですか?』


 その言葉が、強く耳に残っている。

 聞き間違えじゃないかと、凪を見る。すると、じっと凪に見返された。


「我慢、しなくて良いんですよ」


 手を握っていた手がそっと離され、その細く綺麗な指が俺の胸に置かれる。


「……あ、あまり。からかわないでくれ」

「からかってなんかいませんよ。……本気です」


 凪が俺に近づいてくると、その花のように甘い匂いがより強くなった。


 凪との距離はほとんどない。お互い、少しでも動いてしまえば触れ合える距離まで来た。



 凪の蒼い双眸が俺を射抜き。俺の手をまた掴んだ。

 そして、その手を自分の胸に――


「凪」


 俺は一度、凪の名を呼んだ。ピタリと凪の動きが止まる。


「凪」


 もう一度呼ぶと、凪はゆっくりと……手を離した。


 少し不安そうに。凪は俺をじっと見ている。俺はそんな凪を――抱きしめた。


「ふぇ? そ、蒼太君?」

「凪」


 三度みたび。凪の名前を呼んだ。


「大好きだ」


 この気持ちが伝わるように。


「大好きだ、凪。……大好きなんだ、凪の事が」


 おそるおそる、凪が俺の背に手を這わせて。ぎゅっと、抱き返してくれた。


「だから、俺は大切にしたい。凪の事を」


 不安そうな凪を安心させるように、背中をとんとんと叩く。


「で、ですが。それは……私に女性としての魅力がないという事でしょうか」

「そんなはずない。……あまり言う事ではないと思っていたが。凪の女性らしい魅力は存分に感じている。頑張ってそこに視線を向けないよう努力してるんだぞ」

「……もっと向けてくれても良いんですよ」


 小さく呟かれた言葉が心をくすぐりながらも。今はそれを無視して、凪を強く抱きしめた。


「――凪。まだ俺に申し訳ないって思ってるだろ」


 そう言うと。凪の息を飲む音が聞こえた。


「それは。しかし、私は蒼太君が大好きで。そ、その。そういう事をしたいって思う気持ちは本当です」

「……ああ。そうであって欲しい。いや、そうなんだろう。でもな」


 凪を抱きしめる力を緩めると、凪も同様にしてくれる。俺はそのまま――至近距離で、凪の蒼く光る瞳を見つめた。


「俺は凪と対等でありたいんだ。今すれば……凪は無理をするはずだ」


 俺の言葉を聞いて、凪の瞳が一瞬揺らいだ。……やはりそうか。


「凪がそう言ってくれるのは凄く嬉しい。でも、まだ早い……と俺は思うんだ」


 凪との問題は今朝方解決したばかりなのだ。多少無理をしてでも俺を喜ばせたいと思ってもおかしくない。


 もちろん、俺は凪に無理をして欲しくない。


 これからはいくらでも時間はあるのだから。ゆっくりで良い。


 凪はじっと、俺を見て。


「……ごめんなさい」


 そう、言った。


「謝らなくて良い。これは俺のわがままなんだから。……その。まだ心の準備が出来ていなかった事もあるしな」


 凪へそう言って笑い、頭に手を置いた。


「ゆっくり進んで。二人で幸せになろう、凪」


 そうして頭を撫でると、少しずつ凪の頬が柔らかくなり。


「……はい!」


 笑顔で、頷いてくれたのだった。


 ――かと思えば、凪の顔が急接近してきて。


 柔らかく、暖かい唇が重ねられた。


「……でも、我慢できなくなったら言ってくださいね。わ、私はいつでも。大丈夫なので」


 頬を真っ赤にしながらも。凪は俺の手を両手で包みながら、そう言った。


 今自分で言った事なのに、ぐらりと脳が揺れてしまう。

 その甘い匂いに思考が傾きそうになりながらも、どうにか俺は耐えた。


「我慢は良くありませんから、ね?」

「……分かった」


 既にグラグラと、積み重ねられた瓦礫の上に居る気分ではあるが。


 どうにか頷くと、凪は満足したように微笑んだ。


 そして――凪はじっと。俺を見た。


「……あのですね」

「なんだ?」


 神妙な面持ち……とは少し違う。少し気まずそうだ。


「……私、はしたない子かもしれません」

「いきなりどうした。……今の事なら別に気にしなくても良いんだが」

「いえ、そちらも確かにそうなんですが。……その、ですね」


 凪の顔が赤くなり……その口元を両手で隠した。


「ち、ちゅー……キス、するの。私、大好きかもしれないんです」


 恥ずかしそうに目を逸らして、凪は言う。


「蒼太君とキスしたら、頭の中がふわふわして。心がぽかぽかして、幸せって気持ちと……大好きって気持ちが溢れるんです。だから、その」


 凪が潤んだ瞳を俺に向けてきた。


「……もういっかい、してもいいですか」


 どうして凪は――


「もち、ろんだ」


 こんなに可愛いんだろうか。


 どうにか言葉を絞り出すと。凪は目を輝かせ、その手を下ろした。


「し、失礼します」


 そのまま顔を近づけてきて。その柔らかく、暖かな唇が触れてきた。


 酷く甘い。……それが錯覚だと分かっているはずなのに。甘く感じてしまう。


 唇が触れ合うのは数秒にも満たない時間。凪は離れ――


「もう、いっかい」


 また、唇を重ねてきた。その瞳はうっすらと開いていて、甘えるように手を俺の背中に伸ばしてきた。


 そのまま抱きしめられ、唇を重ねられる。先程と同じようにすぐそれは終わり――


 唇が重ねられた。三度目である。


 いや、三度だけではない。また唇が重ねられ、離れ――まるで、雛が親鳥に餌をねだるように。キスを繰り返された。


 何分、続いただろうか。もしかしたら十分は続いたかもしれない。


 何度も繰り返され、俺も凪も軽く息を乱していた。


「……だめ。これ。やめたくなくなっちゃう。しあわせ、あふれちゃう」


 まるで眠い時のようにぽやぽやとしながら。凪は普段使っている敬語すら忘れてそう言った。……しかし、凪はそう言いながらも腕はがっちりと俺をホールドしている。


 その頬は赤く、潤んだ瞳から一筋の涙が伝った。悲しいから、とかではない。その反対だと見ていて分かる。


 俺はその雫を指で拭いながら微笑んだ。


「溢れるくらい幸せなら、凪が満足するまで……しても良いんだぞ。その、俺も幸せだから」


 そう言うと。凪がまた唇を重ね――る直前で止まった。


「だ、ダメ! です! あ、朝になっちゃう。なっちゃいますから!」

「……そうか?」

「あぅ……やっぱりあと一回だけ……だ、ダメです! そ、蒼太君も! あんまり私を甘やかさないでください!」


 頬を赤くしている凪は怒っていてもどこか可愛らしく見える。思わず笑ってしまった。


「凪は甘やかすぐらいが丁度良いんだよ。……少しくらいわがままで良いんだ」

「そ、それでも……本当に朝になっちゃいますから。ダメ、です」


 凪がホールドしていた手を離し。そっと、自分の胸の上に手を置いた。


「蒼太君とキスをすると。嬉しくなって、幸せになって。……ここがドキドキするんです。でも、蒼太君が傍に居るから安心してしまって。ずっと、してたくなるんです。でも、だからダメなんです。……外でも求めちゃいそうになりますから」


 確かにそれは……良くないな。TPOは弁えないと周りに迷惑がかかってしまう。


「ですから。一日に一回……や、やっぱり二回まででお願いします」

 あの時の。頭を撫でる回数を増やした時のように。慌てて訂正しながらも凪は言った。


「ああ、分かった。もし増やしたくなったら言ってくれよ?」


 そう返すと。凪は嬉しそうに頷いた。


「はい!」


 元気よく、そう返事を返して。俺達はまた横になったのだった。


 二人で仰向けになり……顔を凪に向けると、凪と視線が合った。


「蒼太君」

「なんだ?」

「大好きです」


 きゅっと、手を握られる。――重ねられるものではなく、指を絡める、恋人繋ぎと呼ばれるものだ。


「俺も大好きだ」


 そう返せば、凪は顔を綻ばせて笑う。溢れんばかりの嬉しさを表現するかのように。


「……また明日、ですね」

「ああ。また明日」

「はい! ……ですが、もしかしたらドキドキして眠れないかもしれませんね」


 凪の言葉に俺は笑う。


「同じだな。……じゃあ眠くなるまで何か話でもするか」

「はい! 是非!」


 食い気味に頷く凪へと。俺は話をするのだった。



 これから――凪と行きたい所やしたい事を。お互い、眠くなるまで何度も。


 ◆◆◆


 やけに体が熱い。


「……うたくん」


 誰かが俺を呼ぶ声が聞こえる。俺の意識は急速に覚醒していった。


「蒼太君、大丈夫……じゃないですね。凄い熱と汗です。待ってください、今お水持ってきますから」


 すぐ目の前に凪の綺麗な顔があった。ひんやりとした手が額に添えられていた。その手が離れたかと思えば、凪は部屋の外に出た。


 俺は起き上がろうとして……視界がぐらりと揺れた。


 ――ああ、この感覚。懐かしいな。


 俺、風邪引いたのか。


 ゆっくりとその事を理解した頃に。凪が水を持ってきてくれたのが目に入った。


 昨日まで。感覚としてはついさっきまで元気だったんだがな。


 熱の篭った息を吐いて。俺は凪から水を受け取ったのだった。

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