第9話 幼馴染との一日

「……うた君」


 真っ青な海を漂う。

 それはとても心地よい時間だった。


 とろとろと、その中に自分が溶けだしていくようで。自分が自分でありながらも、自分でなくなっていくような。そんな感覚に襲われる。


 ずっと。その波に何もかもを委ねたくなってしまう。


「蒼太君、朝ですよー?」


 優しい言葉と共に、体が揺らされる。


 ああ。この声。鈴のように綺麗で涼やかで……暖かさもある。この声も好きだ。



 だけど、その言葉が聞こえてきた瞬間から。その世界が薄くなりかけてきていた。


 まだ、続いて欲しくて。気がつけば俺は手を伸ばしていた。


「ひゃっ! そ、蒼太君? ……もう、仕方ありませんね」


 その柔らかいものを抱きしめ。隣に誘う。


 世界が花色になったかと錯覚するくらい、いい匂いがした。


「あと五分だけ、ですからね?」


 その声を頭の上から聞きながら。


 柔らかく、いい香りをする物に顔を埋め。


 その海を漂い続けたのだった。


 ◆◆◆


「申し訳ありませんでした」


 床に膝をついて。背筋を伸ばし、両手を八の字にして。床に頭をぶつけそうな勢いで下げた。


「そ、蒼太君? 良いんですよ?」

「いや。俺は許されない事をした」



 目が覚めると。目の前に柔らかいものがあって。何なのかもわからず、寝惚けて抱きしめ続けていた。


 ふと、いつも感じる良い香りに気づいたのだ。



 ――俺は凪を抱きしめ。あまつさえその胸に顔を埋めていたのだと。



 やらかした、とかそういうレベルではない。大罪である。


「ほ、ほんとに気にしてません……というか、私としても得した気分なんですよ?」


 そんな俺にも凪は優しい言葉を掛けてくれた。


「だ、だが」

「それ以上謝ったらぎゅってしちゃいますよ」


 凪の言葉に怯みそうになったが、別に良いのではないかという思いが駆け巡る。


「まあ、どちらにせよするつもりなんですが。……日課にするつもりですし」

「日課?」


 聞き捨てならない言葉が聞こえ、反射的に聞き返していた。

 さすがに聞き間違いだろうと思っていたのだが。俺の言葉に凪はとても良い笑顔で頷いていた。


「はい! ハグをすると良いホルモンが分泌されるらしいので!」


 頬が引き攣った。本気、なのだろうか。


「ついでにお互い、身長の成長を実感出来ると思うので! さ、蒼太君! 立ってください!」


 凪に引っ張られるようにして立ち上がった。土下座していた所なので、手と膝の部分をぱっぱっと軽くはたかれた。


「さ、蒼太君」


 凪がそっと手を広げた。


 その姿は――どこか、慈愛を感じるもので。母が子を抱きしめる時のようにも見えた。


 少し迷った後。

 俺は、その背中に腕を回した。凪の顔がぱあっと明るく輝いて。ぎゅっと、抱きついてきた。


「ん……ふふ」


 嬉しさからか、その口からは笑い声が漏れている。


 昨日決意したと言うのに、早速折れてしまいそうだ。


「毎朝の日課にしましょうね」

「……明日からはまた元の生活に戻るが」

「学校に行く前にですよ」


 それは……誰かに見られたらめちゃくちゃ恥ずかしいのではないか。

 特に父さんに見られたらどんな事を言われるのか分からない。


「良い一日を送るため、ですから!」


 そう理由を付けるのは多分、俺に気を使わせないようにするためだろう。


「……分かった」

「!」


 頷いた瞬間、凪の抱きしめる力がより強くなり。


 十分ほど。その時間は続いたのだった。


 ◆◆◆


「いただきます」

「はい、どうぞ」


 朝食は和が中心であった。


 熱々の白米にお味噌汁。焼き鮭に野菜の和え物。

 日本食、という感じの朝食である。


「やっぱり重かったですかね?」

「いや、良いぐらいだ。朝は食べるタイプだと言ったしな」


 まずはお味噌汁を手に持った。


 一口飲むと、味噌や出汁の旨味と暖かさが喉を通り。胃をポカポカと温めて、それが全身へと流れ込んでいくのを感じた。


「凄く美味しい」

「ふふ。良かったです」


 凪が柔らかく微笑み。自然と頬が緩んでしまう。


 鮭と和え物も良い味付けをしている。ご飯も温かく、ふっくらしていて美味しい。


 そうして食べている間も凪はじっと俺を見つめていた。どこか暖かな視線である。


「美味しいよ」

「ふふ。良かったです」


 俺の言葉に凪は嬉しそうに笑う。――本当に嬉しそうに。


「蒼太君の食べっぷり。良いですね。ずっと見ていられます」

「な、なんか恥ずかしいが」

「ふふ、ごめんなさい」


 凪がそう言って自分のご飯に手を伸ばした。


「昼と夜は手伝うからな」

「大丈夫ですよ。私がやりたいからやってるんですし」

「いや、でも」

「私がお世話したいんです」

「……わ、分かった」


 なんとなく凪の言葉に圧を感じ、押し切られてしまった。ちなみに朝は、凪はご飯の準備をしてから俺を起こしにきていたらしかった。二度寝をしてしまい迷惑を掛けてしまった。反省である。


 そうしてまたご飯を食べていると、度々視線を感じて。そこに目を向けると凪の蒼い瞳と視線が合い、また微笑まれていた。


 それを繰り返しながら朝食を全て食べ終えた。


「ご馳走様。片付けは俺がやるからな」

「いえいえ、お片付けまでがお料理なので」

「譲らないぞ。……さすがに全部任せ切りなのは良くない。それに、俺も家事の手伝いは好きな方なんだぞ?」


 これは事実である。そもそも凪に嘘は通用しない。

 凪は小さく笑った後に頷いた。


「……わかりました。じゃあお願いしますね」

「ああ。任せてくれ。凪も好きにしてて良いからな」

「はい!」


 そうして俺はお皿をお膳に入れて、キッチンへと運んだのだった。


 ◆◆◆


 昼ご飯を食べてまた片付けをして。ゆったりとした時間を過ごした後。


「お買い物行きましょう!」


 と、凪が言ったので買い物に行く事になった。


「……なんか新鮮だな」

「蒼太君とお買い物に行くの、実は初めてですよね」


 前を歩く凪にショッピングカートを押して着いていく。

 凪は色々な場所に視線を移した後、俺の隣に来た。


「楽しいですね、蒼太君」


 その顔はどこかキラキラとしていて。遊園地に来た子供のようにも見える。ここはただのスーパーなのだが。


 遊園地、という言葉である事を思い出した。


「そういえば凪。遊園地行った事ないって言ってたよな」

「……? はい、そうですよ?」

「今の宗一郎さん達なら一緒に行けるんじゃないか?」


 宗一郎さんが忙しいだろうからと。凪はどこに行きたいなど言わず、聞かれても断っていたらしい。

 しかし、今の凪ならば違うだろう。宗一郎さんも千恵さんも行くと言うはずだ。凪も遠慮しないようにすると言っていたから。


 しかし。凪は首を振った。


「いえ、やめておきます」

「……? なんでだ?」

「初めては蒼太君と行くと約束したので」


 その頬はほんのり赤く、嬉しそうに微笑んでいた。


 それと同時に俺は思い出した。


『じゃあ僕が、凪と一緒に遊園地に行くよ』


 数年前の記憶。確か、凪が遊園地に行った事がないと、寂しそうに話していて。思わず言ってしまったのだ。


「覚えてたんだな」

「はい! ……あの言葉も私、嬉しかったので!」

「……そうか」


 それならば。言った責任はちゃんと取らないといけない。


「あ、でもですね。蒼太君、お耳貸してください」

「……耳か」

「一言なので。ここでイタズラはしませんよ」


 俺は耳が弱い。小学生の頃はよく凪にイタズラされていたのだ。

 だが、今回はイタズラ目的ではなさそうだった。


 少ししゃがむと、凪が両手を筒にして俺の耳に当てる。



「蒼太君の準備が出来た時に誘ってくださいね」



 その言葉を聞いて。俺は一瞬だけ目を瞑った。


「……なるべく早く誘えるよう、頑張る」

「良いんですよ、急がなくても。いつまでも待てますから」


 その言葉は柔らかい。全てを包み込んでくれそうなもの。


 その姿にいつまでも甘える訳にもいかない。


 彼女の横に立つ為に。


「あ、今日お肉安いですね。ハンバーグにしましょうか?」

「……ああ、楽しみだな」


 肉の入ったトレイを手にする凪。その姿はまるで――


 頭を振って、邪な感情を掻き消した。


◆◆◆


 それから二人で買い物をして、二人で手を繋いで帰って。二人でハンバーグを作って。

 二人で作って食べたハンバーグはとても美味しく――時間が経つのも非常に早くて。


 気がつけば眠る時間になっていた。



「蒼太君」


 ベッドの中。家には俺達以外誰も居ないのだから、普通に喋っても良いというのに。凪はひそひそ声で話しかけてきた。


「すっごく、楽しかったです。今日」

「……俺も、楽しかった。凄く」


 凪の言葉に頷くと、凪はまた笑う。本当によく笑う子だ。最初の頃が信じられないくらいだ。


「ありがとうございます、蒼太君。私……心に残ってたものとか全部、消えちゃいました。これからはもっと楽しい日々を送れそうです」

「どういたしまして。……俺こそありがとうな、凪。お世話してくれて」

「はい! どういたしまして、です!」


 お互いにお礼を伝えて。二人で天井を眺める。


「また、機会があったら。泊まりに来ますからね。……いえ。機会を作ります」

「ああ。是非来てくれ。俺がそっちに行っても良いな」

「はい! パパもママも喜びますよ! 絶対!」


 そうして話していると、段々凪の声にとろみが入ってきた。眠いのだろう。


「……もう、今日。終わっちゃうんですね」

「また明日が始まるって事だ」

「ふふ。そう考えると楽しみです」


 凪がこちらを向いて、手を広げてきた。その体を抱きしめる。


「おやすみなさい、蒼太君」

「ああ。おやすみ、凪。良い夢を見てくれ」

「はい。夢の中でも蒼太君と遊ぶんです」


 その言葉に頷く。凪の体はぽかぽかしていて、心地よかった。


「俺も。凪と遊ぶ夢を見るよ」

「はい! 起きたらまた、いっぱい遊びましょう。夢の中の私達に負けないように」

「ああ、そうだな」


 そこで体を離した。


「改めて。おやすみなさい、蒼太君。また明日」

「ああ、おやすみ。また明日な、凪」



 そのとろんとしている瞳と目を合わせ、笑い合って。


 とても、とても短い一日が終わったのだった。

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