第8話 思春期
テレビを眺める。ニュース番組をやっているのだが、その内容はあまり頭に入ってこない。
「お、お風呂! 上がりました!」
「……あ、ああ」
その言葉に意識を取り戻した。
見ると、そこには凪が居た。
もこもこのパジャマはフード付きで、猫耳が生やされている。
乾かされた髪はサラサラで光沢すら放っているように見えた。
「ココア、飲むか?」
「あ、はい! ホットでお願いします!」
凪にソファに座ってもらい、自分のコーヒーを淹れるついでに準備をした。ちなみに俺は先にお風呂を頂いている。
「そういえばコーヒー、どれくらい飲めるようになったんですか?」
「……まだブラックは飲めない」
父さんに憧れてコーヒーを飲むようになった。本当はブラックを飲みたいのだが……まだ美味しく飲めていない。
ただ、最初に比べれば微糖を美味しく感じるようになったから良いだろう。
「はい、凪。ココアだ」
「ありがとうございます」
先にココアを出すと、凪は俺のコーヒーの準備が整うまで飲もうとしない。
自分のカップを隣に置いて、凪の隣に座る。拳一つほど間隔を空けて。
しかし。スッと。凪が近寄ってきた。
拳一つ空けていたはずの隙間がピタッと埋まる。……いつもの事である。
「ちなみにお砂糖、どれぐらいの量なんですか?」
「スティックシュガーの半分だから……1.5グラムとかかな」
「は、半分……? 私、二本くらい入れてミルクも入れないと飲めないんですが」
「凪は甘いのが好きだもんな」
ココアも砂糖たっぷりである。日によっては砂糖ではなく蜂蜜を入れたりするのだ。
「少し太っちゃいそうで怖いですけどね」
「……俺からすれば、もっと食べて欲しかったりはするが。日本舞踊とかやってるとそうはいかないよな」
「そうですね。着付けはもちろんですが、体のバランスも崩れてしまうので」
難しい話である。そうなると大変な思いをするのは凪なのだから、迂闊には勧められない。
「ですが、私としても運動はしてますし。幸いにも太りやすい体ではなかったので。そんなに不便を感じた事はありませんよ」
「……実際運動量凄そうだもんな」
凪の体は細身ではあるものの、それはただ細いというだけではない。腕や脚にはしなやかな筋肉が付いているのだ。
「ただ、将来が怖いですね……日本舞踊を辞めた時が」
「凪なら将来、先生になったりしそうだが」
「ありえる話です。師が師ですからね。しかし……」
凪がココアを一口のみ、小さく息を吐いた。
「自分から蒼太君との時間を減らしたいとは思いませんね。子供との時間もなくなっちゃいますし」
カップを取り落としそうになった。
目を瞑り、カップを静かに置く。
……凪。今なんと言った?
「そうですね。子供の事も考えたら二十代前半では終わるでしょうね。少しもったいない気もしますが」
聞き間違いか。聞き間違いだ、多分。
「やっぱり家族の時間は大切ですから。ね、蒼太君」
聞き間違えではなかった。
顔が、どんどん熱くなっていく。凪がどんな顔をしているのか気になりつつも……この顔を見られていると思ったら、目を開ける事も出来ない。
「ちなみに蒼太君は子供、何人くらい欲しかったりするんですか?」
世間話だと思おう。別に、俺との……という意味で言っている訳ではない、と思う。多分。
「……そうだな」
ふう、と顔の熱をまとめて吐き出すように息を吐く。
コーヒーを飲んでリセットしようとするも。全然苦味を感じなかった。
「最近何かと経済的に厳しいって聞くが。理想を言えば、二人か三人ぐらい居たら楽しいだろうな」
「あ、一緒です! やっぱりそうですよね。それと、出来れば若いうちに授かりたくはあります」
「体力があるうちにな。父さんもそうだったし」
父さんも母さんも二十代前半の時に俺が生まれている。だから、遊び盛りの時に父さんはよく遊んでくれたのだ。……その分大変な事もたくさんあったらしいが。
「蒼太君。良いパパになりそうですね」
珍しい呼び方だった。思わず目を合わせてしまう。
その蒼い瞳と、真っ赤な顔を。見つめてしまった。
「ふふ。昔……本当に最初の頃はパパとママって呼んでたんですよ、私」
「そう、だったのか」
「はい。ある時からお父様とお母様と呼ぶようになりましたが」
凪がココアを飲み、言葉を続けた。
「本当は今でも呼びたいんですけどね」
「……呼べば良い」
咄嗟に、俺はそう返していた。
「呼びたかったら、呼べば良いと思うぞ。俺は」
「ですが。私ももう中学生ですし」
「何歳でも呼んで良いんだよ。……外だと恥ずかしいのかもしれないが。それなら家の中と外で使い方を分ければ良い」
凪が少し、迷ったような素振りを見せた。困った様子は見せない。……やはり、本気で呼びたいと思っているように見える。
「絶対に喜ぶ。宗一郎さんと千恵さんなら。断言しても良い」
「そう、でしょうか?」
小首を傾げる凪へ勢いよく頷いた。
なんせ――
「ほら、俺の父さんもよく言ってるだろ? 俺に『パパ』って呼んで欲しいって」
「……そういえば。蒼太君は呼びませんよね」
「一回呼んだら調子に乗るのが目に見えてるからな。母さんもあまり父さんを調子に乗らせないようにって言ってたし」
そう言うと凪が笑った。そして、目を伏せて。喉から声が絞り出された。
「本当に、喜んでくれると思いますか?」
「絶対に。宗一郎さんも千恵さんも凪の事が大好きだからな」
そう言うと。凪は目を見開いた。
凪は小さい頃、宗一郎さん達に引き取られている。
その頃の宗一郎さん達については知らない。聞いた事もない。
……だけど。今の宗一郎さん達を見ていると分かる。
凪の事を愛していると。断言できる。
「喜び、ますかね」
「ああ。絶対」
凪と。そして、時々宗一郎さんと接して思う。
この親子、不器用すぎる。お互い大切に思っているというのに全く気づいていない。
千恵さんはまだ良……くないな。凪がどれだけ大切に思ってるのか気づいてないし。千恵さんも凪が難しい年頃だと分かっているからか、一歩引いて見ている印象だ。
なんにせよ、これは俺が解決すべき事ではない。凪が解決する事だ。
俺に出来るのは、その手伝いくらいだ。少し強引な気もするが。
「帰ったら一回、二人の事をそう呼んでみないか?」
凪は俺の言葉を聞いて、その顎に手を当てた。
凪は考え込む時、顎に手を当てる。これは宗一郎さんの
癖が伝染ってしまうくらい。凪は宗一郎さんを大好きで……尊敬しているのだ。
そして凪は顎から手を取り。頷いた。
「そう、ですね。呼んでみたいと思います」
「……! そうか!」
思わず声が大きくなってしまった。しかし凪は気にする事なく、柔らかい表情で頷いた。
「私、ですね。蒼太君の家族が羨ましかったんです」
いきなり告げられた言葉。
しかし、関係ない話ではないのだろう。俺は静かに続きの言葉を待つ。
「仲良しで、見ていてお互い大好きなんだなって伝わってきます」
その瞳には強い光が
「羨ましがるだけでは何も変わらないと。今、思いました」
「……凪」
自分から変わろうと、凪は決めたのだ。その言葉が嬉しくて。眩しくて。
つい、腕を広げてしまった。凪が一瞬きょとんとした後。
飛び込んできた。そのまま頭を撫でる。
「良い事だと思う。自分の思いを打ち明ける事は」
「はい! ありがとうございます、蒼太君」
数十秒ほど凪の頭を撫でた。その後、凪が離れて。
「善は急げ、ですね。帰ってからだと揺らいじゃいそうなので。早速電話します」
そう、言ったのだった。
◆◆◆
『凪。こんな時間にどうしたんだ? 蒼太君も居るんだな。こんばんは』
「こんばんは、宗一郎さん」
「お父様……いえ。お父様とお母様に一つ、お話したい事がありまして」
電話をするために俺の部屋へと場所を移した。
どうせなら顔を見て話したいと、俺の机に凪のスマホを置いてビデオ通話を始めていたのだ。
『今千恵を呼んでくる。少し待ってて欲しい』
「分かりました」
そして、数分もしないうちに千恵さんもやって来た。
『こんばんは、凪、蒼太君。お話って何でしょうか?』
「こんばんは、千恵さん」
「お母様。お話は私からです」
『あら? そうなんですか?』
一瞬だけ。千恵さんと宗一郎さんが目を丸くした。何か勘違いをしていたのだろうか。
「あの、ですね。お話というか、お願いがありまして」
『……なんだ? 何でも言ってごらん』
一瞬、凪の瞳が揺れた。
よく見れば。その膝の上に置かれた拳が震えていた。
「大丈夫だ、凪」
向こうに聞こえないくらい、小さな声で呟く。凪にも聞こえるか不安だったが、ちゃんと聞こえていたようだ。
その拳に手のひらを重ねた。向こうからは見えないように。
「はい」
凪も小さく呟いて。そして――
「お家に居る時は、お父様とお母様の事を、『パパ』『ママ』と、呼びたいんです」
宗一郎さんと千恵さんが目を見開いた。
カメラが固まったのかと思った。しかし違った。向こうの画面に映る時計は動いている。
二人は、驚きのあまり固まる、をその身で体現していたのだ。凪の瞳が潤み始めた。まずい。
その時やっと、宗一郎さんが口を開いた。
『良い、のか? また、呼んでくれるのか?』
その言葉や表情に驚きや喜色はあっても、嫌悪の感情は浮かんでいなかった。
「お、お父様とお母様がよろしければ。また、お呼びしたい……いえ。呼びたいです。パパ、ママと」
凪が声を震わせながら。しかし、言った。
『……ああ。凪がまたそう呼んでくれると言うのなら。私としても――いや。パパとしても。そう呼んで欲しい』
『はい。凪、ぜひ呼んでください。ママと』
宗一郎さんと千恵さんは笑顔でそう言った。
ここまでの笑顔を見たのは初めてかもしれない。
「はい! パパ、ママ!」
――当然凪も、笑っていたのだった。
◆◆◆
「ありがとうございます、蒼太君。……本当に。ありがとうございます」
「どういたしまして、と言いたいが。今回は凪ががよく頑張ったからな。狭くないか?」
「少し狭いですけど、これが良いんです」
俺と凪は――ベッドに横になっていた。
色々躊躇いはしたものの。あんなに楽しそうな凪に「一緒に寝てくれますか?」と言われては断る事も……いや。俺が断りたくなかったからだ。
あの後俺達……宗一郎さんも含めて四人で、色んな話をした。
凪を引き取ってすぐの頃のお話だ。どうして引き取ったのか、なども。
それは宗一郎さんの懺悔でもあったのかもしれない。
俺としては驚きの多い話だったものの。凪は色々そこに関しては察しており……しかし、勘違いも多いようだった。
そうして色々な誤解も解いた。
『凪は、凪の幸せを追い求めて欲しい。そのために必要な事があれば、パパがなんでもしよう』
と言って。しかし、凪自身も日本舞踊や他の習い事も好きでやってる事だからと。凪は続ける事を選んだ。
「それにしても、あれは驚いたな。凪に婚約者が出来るかも、なんて」
「あれも近々話そうと思ってたんですよ。……幸い、お父様も『今の凪に婚約者は必要ないだろう』と言ってましたから」
それだけが――本当にホッとした事だ。
「帰って二人と色々話しても良かったんだぞ? 家までは送るし」
「いえ。蒼太君のお世話をしなければいけないので」
凪の言葉に苦笑する。家族を優先しても良いのに、と思っていると。
ふと、腕に暖かい感覚があった。
「蒼太君。……ぎゅってして良いですか?」
「……お前な」
普段なら良い、が。ここはベッドの中である。
「へ、変な気を起こすかもしれないぞ?」
一応、こっちは健全な男子中学生である。さすがに凪が怖がるような事はしないが――
「いいですよ、蒼太君になら」
返ってきた言葉に。俺は口を閉ざした。
「って言ったらどうします?」
「お、お前な……怒るぞ」
「ふふ。貴重ですね、蒼太君に怒られるの」
そして、凪がつんつんと腕をつついてきた。抱きつかせろと言いたげに。
「……良いぞ」
「……!」
許可を出した瞬間、ぎゅっと凪が抱きついてきた。待てをされていた子犬のよう……というと怒られるかもしれないが。
「待ってますからね」
「……」
小さく紡がれたその言葉。何を、とは聞かない。分かっていたから。
「待たせるかもしれないぞ。長い時間」
「待ち続けます。蒼太君の半歩先で」
その言葉に俺は目を瞑った。
「……ですよ、蒼太君」
意図的に、聞こえないようにしたのだろう。前半部分は口の中で呟いて、凪は笑った。
「おやすみなさい。……良い夢を」
「ああ、凪も」
そうして――俺達は眠りについたのだった。
この気持ちに早く、折り合いをつけたいと思いながらも。
まだ少し、難しいと思ってしまっていた。
俺は――まだまだ足りない。何もかもが。
隣に並べるように。頑張らなければならない。
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