第7話 二人で留守番

「……それにしてもいきなりだな」

「ほんとごめんね、蒼太。二日だけだから」


 いきなり父さんと母さんがじいちゃんの所に向かうと言った。

 父方のじいちゃんで、面識は……あるにはあるが。少し苦手である。


 なんでもじいちゃんが腰をやってしまったらしく、更にじいちゃんの家から病院が遠いらしい。ばあちゃんももう歳だからと。念の為向かう事にしたようだ。


「蒼太を連れて行きたいのも山々なんだが……じいちゃん、苦手だろ?」

「あー……いや、まぁ」


 じいちゃんは厳格であり、行く度にビクビクしていた気がする。お正月とかお盆には顔合わせに行くが。


「お父さんも正直得意じゃないからなぁ。ま、それでも育ててくれた親だからな。二日だけ留守番頼むぞ」

「留守番くらい出来るよ。心配しないでくれ」

「蒼太一人残すのも不安だから……一応来て欲しいって連絡入れたんだけど。そろそろかしらね」

「え? 誰に? 何が?」


 母さんの言葉がよく分からず、聞き返した時。チャイムが鳴った。


「あ、来たわね。蒼太、見てきて」

「……分かった」


 少しだけ嫌な予感がした。

 かといって、無視する訳にもいかないので玄関へと向かう。


「はーい、今出まーす」


 玄関にてそう声をかけて。扉を開くと――


「き、今日はお世話しに来ました!」


 キャリーバッグを片手に引いた、凪が居た。


「……え?」


 状況が理解出来ず。間の抜けた声を上げてしまう。


「そ、蒼太君、お留守番だと聞いたので! お世話をしにきました!」


 二度、告げられたその言葉。自分でも顔が固まったのが分かった。


「……とりあえず入ってくれ」

「は、はい!」


 凪を中に入れて鍵を閉める。

 そのまま凪と共に母さん達の元へ向かい。


 恐らくこうなった理由である母さんを見た。


「どういうつもりだ?」

「こういうつもりよ」

「……なんも分からんが」

「凪ちゃんと一緒なら蒼太も楽しいかなって」


 ニコリと微笑む母さんに頬が引き攣った。

 そのまま顔を凪へと向ける。


「そ、宗一郎さんが許してくれたのか? ちゃんと話したのか?」

「あ、はい。お父様とお母様には許可を取ってきました」

「良いのか……」

「は、はい。『楽しんできなさい』と。今日明日はお稽古もお休みなので」


 なんで乗り気なんだ。宗一郎さん達も。


「ご、ご迷惑でしたか?」

「……いや。全くもって迷惑とかではないが」

「あ、そうそう凪ちゃん。ちょっと狭いだろうけど寝る時は蒼太の部屋使ってね」

「母さん!?」

「は、はい!」

「凪!?」


 とんでもない事を告げる母さんに頷く凪。

 頭が混乱してきた。……凪が泊まる?


 混乱している俺をよそに。母さんが楽しそうに手を頬に当てて笑った。


「ふふ。凪ちゃんが居るなら安心ね」

「そ、そこまで信用されてないか」

「基本は大丈夫だと思ってるけど……料理がねぇ」


 母さんの言葉にうっと喉が詰まった。料理……料理、か。


「で、出来ないことはない……と思うぞ。多分」

「まあ、お母さんも出来るとは思うけど。どうせなら美味しいご飯食べて欲しいじゃない? かといって三食外食だと栄養も偏っちゃうし。一日二日なら問題ないかなとは思うけど。それなら凪ちゃんを呼べば安心よ! って思ったのよ」


 ……確かに凪の料理は美味しい。遠足の時にお弁当を作ってくれた記憶もある。


 それにしても、あの時は驚いたな。

 凪がいきなり母さんに話したい事があると言い出して。母さんに会って一言目に――


『蒼太君のご飯を作らせてください』


 と言ったのだ。色々端折りすぎである。

 母さんも父さんも大騒ぎであった。どうして、とは言わないが。


 そんなこんなで遠足や行事のお弁当は凪が作ってくれるようになった。さすがに悪いと断ろうとしたが、凪は『私がやりたいだけですから』と言ったのだ。


 それならと、何かして欲しい事はないかと聞けば。『頭を撫でて欲しい』……と言ってきた。


 それで、遠足に行く度に頭を撫でるという奇妙な習慣が残ってしまった。


 現実逃避はここまでにして。念の為もう一度聞いておこう。


「……本当に宗一郎さんが許可出したのか?」

「は、はい。この耳でちゃんと聞きました」


 凪が形の良い耳を指さしてそう言い。俺は頭を抱えそうになってしまった。

 色々、やり方はあった気がする。俺が凪の家に行っても――しかし、それだと留守番が出来ない。空き巣とか怖いよな。


「ま、そういう訳だから。蒼太の事よろしくね、凪ちゃん」

「は、はい! いっぱいお世話します!」


 言葉を割り込む暇もなく。母さんと父さんが凪と入れ替わりに玄関へ向かった。


「それじゃあ留守番よろしくね、二人とも」

「何かあったらすぐに電話するんだぞ」

「……ああ。母さんと父さんも気をつけて」

「は、はい! 行ってらっしゃいませ」


 文句は帰ってきてから言おうと、二人に手を振って見送り。


 家に俺と凪が取り残された。


「……あー、その、なんだ。二日間よろしく頼む」

「は、はい! ふ、不束者ですが、よろしくお願いします」


 二日間。

 二人の生活が始まったのだった。


 ◆◆◆


『やるじゃねえか』


 とだけ、チャットがきた。相手は当然瑛二である。


 何を、と返したい所だが。察しはつく。


『凪からか?』

『惜しい。霧香がさっき聞き出した。様子がおかしい事に気づいたらしくてな』


 ……いつかは話す事になりそうだし、別に良いか。それよりも誤解を解かねば。


『言っとくが偶然の積み重なりだからな』

『へいへい。そういう事にしてやるよ。まさか蒼太に先越されるとはなぁ』


 何も分かってないぞ。この男。


『別に変な事はしない』


 と、送っている時だった。


「巻坂さんとお話してるんですか?」

「うおっ……あ、ああ。そうだ」


 すぐ目の前に凪が来ていて、驚いてしまった。そのまま凪がすぐ隣に座ってくる。


「ごめんなさい、蒼太君。西沢さんに話してしまって。一言聞くべきでした」

「ん? ああ、別に気にしてないぞ」


 そこは本当に気にしてない。恐らくいつかは話す事だろうし、なんなら俺が瑛二に聞かれた可能性だってある。


「ちなみに巻坂さんはなんと……?」

「あー……ちょっと話しにくいやつだ」

「そうでしたか。ごめんなさい」

「いや。こっちも気にしなくて良い」


 凪に首を振り、瑛二に『悪い。一旦ここで終わる』とだけ返したい。すぐに『おう、存分にイチャついてこい』と来た。一日だけブロックしようかな。


「それよりどうかしたか? 話した事に関してか?」

「あ、いえ。そちらもありましたが……」


 凪が小さく。柔らかく笑った。


「蒼太君の隣に居たいな、と」


 どくん、と。心臓の音と速さが一段階上がる。

 その笑みはとても……とても、心臓に悪い。


「ダメですか?」

「……俺も凪が隣に居てくれると嬉しい」

「……! 良かったです!」


 小さく返すも、ちゃんと聞いていたようで。凪の笑みはより深いものになった。


 そのまま凪が寄りかかってきた。


「蒼太君。おっきくなりましたね」

「……そこまで凪と変わらないぞ」

「変わってますよ。私なんかよりずっと頼もしくなりました」


 凪の言葉に苦笑する。


「凪だって、大きくなっただろ」

「それは……どこの話ですかね?」


 くすりと、小さく笑う凪。その蒼い瞳がそっと、真下を見た。


「し、身長の話だ」

「……身長だけですか?」


 凪の視線に誘導されそうになって。俺は無理やり、顔を外へ向かせた。


「む」

「そ、そういうのは。良くないから」

「……そうですか」


 凪の声はほんのり拗ねているように思えて。気のせいだと自分に言い聞かせる。


 凪が体重を預けてくる。普段より強く。多分わざとだ。


 手に暖かいものが当たった。見ると、凪の手が重ねられていた。


 そして、それと同時に凪と視線が合う。



「やっと、こっち見てくれた」



 ドクン、と。心臓が跳ねる。


 一度跳ねた心臓は何度も強く鼓動を奏でる。床に強く叩きつけたゴムボールと同じだ。すぐに止まる事はない。止まると困るのだが。


 凪の蒼い瞳には淡い光が点っている。薄い唇は小さく端が持ち上がっていて、その頬はほんのり赤らんでいた。


 その口から漏れた言葉も、普段と少し違う。


 いつもの鈴のように綺麗な声でありながら、軽やかな声。脱力したような声……とでも言えば良いのだろうか。


 時々、あった。凪の言葉から丁寧語が抜ける事が。

 本人曰く、心の声がそのまま漏れ出たものらしい。


「……」

「な、凪?」


 凪の手がそっと伸びてきて。頬に触れてきた。


 むにむにと頬を揉まれる。凪は楽しそうだった。


「思えば、あまり蒼太君のほっぺた。触ってませんでした」

「……別に、触りたくなるものでもないだろ」

「そんな事ありませんよ? 蒼太君がお昼寝してる時とか、何度か触りたくなりましたし」


 凪がもう片方の手も伸ばして。反対側の頬にも触ってきた。

 そのままむにむにと弄ばれる。


 むぎゅっと。凪の白い手に頬を押された。凪はずっと、楽しそうにしていた。


 凪が俺の頬をそっと撫でて。視線を合わせてくる。


「次は蒼太君の番ですよ」


 そう言って、手が離された。


 ……俺の、番?


「い、いや。俺は別に」

「む。触りたくないんですか?」

「それは……」


 思わず顔と視線を逸らしそうになると。凪の手がまたむぎゅっと頬を掴んで目を合わされる。


 その蒼い瞳に見つめられると――嘘なんて、つけなくなる。


「さ、触りたいです」

「ふふ。どうぞ」


 凪が小さく笑いを零して。顔を突き出してきた。


 そっと、手を持ち上げて。優しく触れる。

 自分でも馬鹿げているとは思うが――傷つけてしまいそうで怖い。


 その頬は白く、顔は神様が手ずから作ったかのように整っている。


 その真っ白で長い睫毛に、海のように蒼い瞳。

 肌にはシミや荒れなんてものはなく、唇は薄い桃色で瑞々しい。


 ガラス細工のよう、と言っても良いのかもしれない。触れてしまえば……少しの衝撃で砕け散ってしまうのでは、と思ってしまう。


 しかし、実際にそんな事はない訳で。


 ぷに、と。頬に指が沈み込んだ。


 親指でその頬を撫でる。スベスベしていて気持ちいい。


 四本の指で、凪の頬の輪郭を支え。親指でその頬を撫でる。


 凪は少しくすぐったそうに笑った。それにしても――柔らかい。


 頬を手のひらで包み込むようにすると、手のひらが幸せな事になった。

 凪の口元もゆるゆるになっていて。その笑顔を見ると、心が暖まる。こちらまで笑顔になってしまう。


 頬を指でつついたり、顎をくすぐったり。髪を梳くように撫でれば、凪が嬉しそうに喉を鳴らした。猫のようである。


 つい楽しくて、続けてしまった。


 その頬はスベスベてもちもちで、髪はサラサラだ。

 手のひらや指に凪の暖かさが伝わってくる。


 ああ――これ。いつまでも続けられそうだ。


 と、思っていた時だ。


 ぶに、と。指に今まで触れた事のない感触が伝わってきた。


 ――凪の唇である。



「わ、悪い!」

「……」


 凪が目を丸くして。


 そっと、その細く綺麗な指を自分の唇に当てた。


 ボンッと音を立てたかのように凪の顔が赤くなった。


「す、すまない、ほんと」

「……」


 凪の人差し指がそっと、俺の指が触れた部分を撫でて。


 その頬から耳まで真っ赤になり。桃色の唇が小さく動く。



「お返しです」


 その指が近づいてきて――唇へと触れた。


「……そ、蒼太君の唇も柔らかいですね」


 凪のそんな言葉も頭には入ってこない。



 ――間接キス。


 別にそれは、初めての事ではない。同じペットボトルや水筒で水を飲んだり、ケーキを食べさせ合った事もある。


 しかし。今回のものは今までのものと明確に違った。


 呼吸が止まり、思考が止まる。染まっていく。凪に。


「……」


 凪の真っ白な肌はリンゴのように赤くなっていて。その蒼い瞳と真っ白な髪はより一層際立った。


 じっと、その蒼い瞳が俺を見据える。


 深く蒼い海の底。

 陽が差し込み、暖かい光を放つそれに視線が吸い込まれる。


 気がつけば、その顔が目の前にあった。


 その蒼い瞳はとても綺麗で。鼻がぶつかりそうになる。


 お互いの吐息すら交わりかねない距離。


 そして――


「わふっ」


 その頭に手を置くと。凪が驚いてそんな声を出した。


 その瞳が何かを訴えかけてきたが。それは一瞬の事だった。


 凪が全体重を預けてきて。ずるずると俺の体を滑り、膝の上に頭が乗せられた。


 それからはお互い、無言だった。凪が何を考えているのかは分からない。俺は凪の顔を見る事が出来なかった。



 ――今、見てしまうと。今度こそ我慢が出来なくなりそうだったから。


 天井を見上げ、凪の頭を撫でる。凪の手がそっと、もう片方の俺の手を掴んできた。


「あと少しだったのに」


 小さなその言葉を聞いて。何が、とは言えなかった。


 頭の中には、色々な思いが渦巻きながらも。


 夕飯の準備を二人で始めるまで、そうしていたのだった。

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