第50話 氷姫の逆鱗

「おはようございます、蒼太君」

「ああ、おはよう。凪」


 やっと日常が帰ってきた、と言って良いのだろうか。


 また前とは少し違う日常とも言えるだろう。


 凪がすぐ俺の隣に来る。相変わらず距離が近い……というのはいつもの事なのだが。


 凪の細い指が俺の指をちょんちょんとつついてきた。一目凪を見てみると、どこかそわそわしている。


 ……そっと小指を突き出してみると、凪の小指が即座に絡んできた。

 小指だけだと言うのに、きゅっと指切りをするように掴んで離さない。


 凪が俺をじっと見て……その頬を緩めた。そして、背伸びをして。そっと耳に口を寄せてくる。


「こうして指を重ねると。蒼太君がここに居るんだって伝わってきて。嬉しいんです」


 ゾワゾワと耳心地の良い声が俺の耳をくすぐった。凪が少し顔を離し……じっと俺を見てくる。


 視線を合わせると、ニコリと微笑まれた。かなりの至近距離で。


 ……本当に、心臓に悪い。


 誰だ。美人は三日で飽きるとか言った奴は。もう会って二ヶ月になるがそんな気配全くないぞ。

 いや、元々凪の顔目当てにこの電車に乗っていたのだから今更なのだが。


 思わず凪の頭に手を伸ばしそうになって。どうにか自制した。さすがにここでは周りの迷惑になりすぎる。

 すると、凪も俺の手が動くのと同時に頭を突き出そうとして……動きを止めた。俺と同じ理由だろう。


 そして、ほんの少しだけ。拗ねるような顔をした。

 最初に比べれば、本当に表情が豊かになったと思う。


「二人になった時、な」

「……はい。今はこれで我慢します」


 小指に力を少しだけ入れ、そっと腕を触れ合わせる。


 ただそれだけの事なのに、妙に俺の心臓は高鳴ったのだった。


 ◆◆◆


 電車を降り、少しして。俺はとある事を思い出した。同時にスマホの着信が鳴った。


『ごめんなさい! お弁当渡しに行くの忘れてました!』

「いや、俺の方こそ完全に忘れていた。謝らないでくれ」


 しかし、どうしようか。……お昼は売店に行っても良いが。


「ちなみに凪はどこにいるんだ?」

『今教室に着きまして、荷物を出そうとして気づいた所です』

「なるほどな」


 俺は時間を確認した。普段から早めに出るようにしているので、時間はたっぷりある。


「凪の学校。行ってみて良いか?」


 ちょっとした好奇心から、俺はそう言ってしまったのだった。


 ◆◆◆


 アウェー感が凄い。やはり制服が違うと目立つな。


 凪から了承を貰い、凪の高校に向かっている途中。同じ方向に向かっている高校生達からは怪訝な目で見られていた。


「こうして考えると凪って凄いな……」

 容姿の関係上、俺より視線は強く感じただろう。


 少しの時間歩いていると、凪が通っている高校が見えてきた。


「ここか……あ」


 意外と高校によって新しさとか違うんだよなと見ていると。門の前に見慣れた人物が居るのが見えた。


「凪」


 そんなに大きな声では無い。目立つかなと思ってしまったから。


 しかし、凪はそれでも俺に気づいてくれたようで。その蒼い瞳が俺を捉えた。


「蒼太君!」


 凪のきゅっと引き締まった表情が綻び。嬉しそうに輝く。


「良かったです。あ、こちらがお弁当になります」

「あ、ああ。ありがとう」


 凪が駆け寄ってきて、お弁当を渡してくれる。思わず苦笑いをしてしまった。


「……隠さなくて良いのか?」

「蒼太君の前だと取り繕うのが難しいので。普段はしっかりすれば良いので良いかなと」

「また随分思い切りが良いな」


 周りからの視線が凄い。二度見三度見してくる生徒までいた。


「あ、あの氷姫が笑ってる……?」

「彼氏が出来たってガチなのか……う、嘘だろ。実は兄貴とかじゃねえのか」


 女子生徒からはきゃーきゃーとした声が。男子生徒からは嫉妬や疑惑などのマイナスな感情が向けられる。


 と、その時。校門の方にまた見覚えのある人物が現れた。


「お、東雲ちゃん。もしかして彼が例の彼氏さんかい?」


 羽山である。わざとらしくそう言ってきて、凪へウインクをした。


「は、はい! そうです! 彼は私の恋人……いえ。婚約者です!」


 俺の手を取り。凪はそう言った。辺りの喧騒が更に大きくなる。


「こ、婚約者!?」

「さすがに嘘……いや。でも家柄的に全然ありえるのか?」

「となるとすげえおぼっちゃんなのか?」


 色々な憶測が流れているが。まあ、別に良いか。勘違いしても悪い事はないだろうし。


「……それと。凪、近くないか?」

「こ、婚約者なんですし。普通ですよ、普通」


 凪が顔を赤くしながらもそっと体を寄せてきた。甘い香りがふわりと漂ってくる。


「へえー。ラブラブなんだ」

「ら、らぶらぶ……」


 羽山のわざとらしい言葉に凪は更に顔を赤くする。でも、どこか嬉しそうに頬を緩めていた。


「う、嘘だああああ!」

「東雲ちゃん……いつもの雰囲気と全然違う」

「きゃー! 可愛い!」


 怨嗟と興奮したような声が入り乱れる。そろそろ騒ぎが大きくなって先生が来そうだな。


「じゃあ凪、そろそろ」

「は、はい。そうですね、時間も時間ですし」

 一度カバンの中に凪から貰った弁当箱を入れる。


 早いところ行かないと、男子達の恨みの籠った視線に射殺されかねない。


 その時――


「なんであんなひょろひょろでアホ面晒した奴が彼氏なんだよ」


 そんな言葉が聞こえてきた。まあ、陰口……というか悪口だが。それの一つや二つ言われる覚悟はあったし。問題ない。


 ――と、思っていたのだが。


「どなたでしょうか」


 凪が一歩前に出た。それと同時に、気温が下がったかのような錯覚を覚える。


「……凪?」


「今、蒼太君の悪口を言った方はどなたでしょうか」


 一目で……いや、その声音を聞いただけで分かる。


 凪は怒っていた、


「相手を自分の物差しで勝手に測り。相手にわざと聞こえるよう悪口を言う方はどなたでしょうか。……とても良い趣味をしているとは思えませんが」


 凪がまた一歩、前に出る。先程までうるさかった生徒達の声は凪の言葉と共に止んでいた。


 ――ああ。良くないな。


「凪、俺は気にしてないから」

「私が気にします。蒼太君の事を何も知らないのに。知ろうともしないで、ただ嫉妬の籠った感情をぶつけるなど」

「ま、そうよね。その辺は私も思うかな」


 今度は羽山が出てきた。ジト目でその辺に居た男子生徒達を睨み。


「嫉妬とか恨むとかは一個人の感情だから否定はしないけどさ。それを言葉によく出来るよね。自分から性格が悪いですよって言ってるようなもんじゃん? もうちょっと考えて発言した方が良いよ。自分の声って案外周りに聞こえるもんだからね」


 羽山が先程俺に言ってきたであろう男を睨んだ。男は苦々しい顔をして……その場を去った。


「さ、そんじゃ散った散った。早くしないと先生来ちゃうよ」


 そのついでとばかりに羽山はシッシッと手で追い払う仕草を取る。この場は羽山に支配されていた。


 男子生徒も女子生徒も、気になるのかチラチラと見てきていたが。校舎へ向かって歩いていった。


「……ありがとうございます、羽山さん。少し冷静さを欠いていました」

「ん? ああ、いいっていいって。私としても友達が悪く言われるのは嫌だし。せっかく凪ちゃんと仲良くなってくれそうな子も居たからさ」


 あの時の凪の圧は尋常ではなかった。……なんとなく、宗一郎さんっぽさとかあったが。教育の賜物だったりするのだろうか。

 それは置いといて。あのままだと凪はまた周りに恐れられる可能性があった。恐れられる、と言っても話しかけにくくなるとかだろうが。そういった事態はなるべく避けて欲しかった。


 俺が考えるより早く、羽山が助けてくれたのだ。凪に悪印象が付かないように。


「……俺からも。ありがとう、羽山」

「はいはい、二人まとめてどういたしまして。というか海以君、早く行かないと時間やばくない?」


 羽山に言われて時間を見る。電車の事も考えるとかなりギリギリだろう。


「そうだな。色々混乱させて済まなかったな。嫌な思いもさせてしまったし」

「蒼太君は何も悪くありませんよ、謝らないでください」

「そーそー。ま、また暇な時に凪ちゃんを迎えに来たりしてよ」


 二人の言葉に笑い、俺は立ち去ろうとした。


「それじゃ――」

「蒼太君。一つだけよろしいですか?」


 凪が俺を止めてきた。なんだろうと振り返ると。耳を貸してほしいと言われ、俺は気持ち体を下げた。


 凪が両手で筒を作り、耳に被せ。


「行ってらっしゃい、蒼太君」


 その言葉と同時に。掠めるように、頬に柔らかい物が触れた。


「ッ!?」

「おー、大胆」

「……見えちゃってましたか」

「こんだけ近くに居たらね。でも周りは気づいてないからセーフっしょ」


 凪は耳まで真っ赤にしながらも……俺に向かって微笑んだ。


「それでは、また帰りに会いましょうね。蒼太君」


 その微笑みはとても綺麗で――


「……ああ。また帰りに。凪も行ってらっしゃい」


 凪には勝てないと思い知らされた瞬間であった。


「はい!」


 元気よく返事をして。凪と俺は姿が見えなくなるまで手を振ったのだった。

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