幕間

第101話 甘やかし旦那様

「……ふぅ」


 エレベーターで上の階に向かいながら息を吐く。



 どうやら私は想定していた何倍も緊張してしまっていたらしい。


 ただママと話すだけの時間……という訳ではなかったからだろう。もちろんいっぱい甘えられたけど、それはそれとして真面目な話もたくさんした、



 最近だと一番集中していたからなんだと思う。体力じゃなくて精神力が削れた感じだ。



 帰りも遅くなってしまった。蒼太君には適当に外食して貰って、私は帰ってから適当に作って食べる……予定だ。


 ただ、ちょっと疲れすぎてしまったかもしれない。外食ではないけど、何か買って帰れば良かったかもしれない。



 ……とりあえず帰ってから考えよう。




 エレベーターが目的の階につく。重くなった足を引きずって部屋へと向かう。



 そして、扉を開けると――凄くいい匂いがした。



 扉の音が聞こえたからか、とんとんという足音が響いてくる。


 廊下の奥から歩いてきたのは――



「おかえり、凪」

「……た、ただいまです。蒼太君?」



 エプロンを身につけた蒼太君だった。



 ◆◇◆


 目をまんまるにして、状況が全然把握出来ていない凪を見ていると……つい笑みが漏れてしまった。


「凪、夕ご飯はまだだよな?」

「まだ、ですけど……その、これは?」

「凪が今日は頑張ってくる日だから。たまには俺がねぎらいたいと思ってな」


 どうやらサプライズは成功したようだ。良かった。



「ご飯、すぐ食べられそうか? ちょっとしてからにするか?」

「……ちなみに何を作ったんですか?」

「コーンスープとポークソテー。付け合せ少々だな。……簡単なものだけど、栄養バランスはちょっと頑張った」


 凪のレシピ帳を少し借りて、カロリー計算とかもしてみた。


 多少誤差はあるだろうけど須坂さんにもレシピを見て貰ったし、不健康まっしぐらな料理にはなっていないはずだ。



「……蒼太君、火の元は?」

「大丈夫。ちゃんと止めてきた」

「良かったです。では、少しついてきてください」



 凪に言われて着いていく。洗面所だ。


 丁寧に手を洗い、うがいをする凪。

 なんとなくやりたいことを察しながらも、その様子を見守った。



 凪は清潔なタオルで手と口を拭って――



 とんと凪は一足で距離を縮め、唇を重ねてきた。



 少し冷たく、ぷるぷるとした感触。それと同時に感じる強く甘い匂いは脳を麻痺させる。



 そこから凪にぎゅっと抱きしめられた。厚い布越しに彼女の体温を感じて、こちらも背中へと手を伸ばして抱きしめ返す。



 やがて、水で冷えた唇が熱くなるくらい……長い時間、キスをして。やっと離される。


 今度はぎゅうっと強くハグをされた。耳に口が寄せられる。



「どこまで私を好きにさせたら気が済むんですか。……大好きです」



 小さく、吐息が多く混じった声。

 それが耳から脳へ繋がる神経をゾクゾクと責め立て、身震いをしそうになってしまう。



「今日はちょっとだけ大変だったので、その気遣いがすっごく嬉しいです。……大好きです」


 厚い布越しでもその体温が、彼女の暖かさが伝わってくる。



「俺も凪を支えたくて、色々考えたんだ。……ちょっとだけ不安だったが」



 本当に喜んでくれるのかどうか……凪は料理が好きだから、お節介になるんじゃないかとか。


 だけど、その心配は杞憂のようだった。




「嬉しいですし、楽しみです。今日は本当に……久しぶりに疲れましたので」

「良かった……って言っていいのかは分からないけど」


 その言葉は嬉しくも、凪が疲れているという事が良い事かと聞かれると、ちょっと頷きたくない。


「ありがとうございます、蒼太君。本当に嬉しいです」

「……どういたしまして」


 そう返せば凪はふにゃりと、目を細めて嬉しそうに笑うのだった。


 ◆◆◆


 夕ご飯は凪にとても好評だった。何度も何度も『美味しい』と言われるのがくすぐったくて……別に凝ったものでもないというのに嬉しかった。


 ご飯を食べて凪はお風呂に入った。その間に洗い物とか料理の後片付けを済ませる。



 今日みたいに凪が疲れてる日は俺が作るのも良いと思う。


 凪の性格的に大体は断られそうだけど、今日みたいに本当に疲れた日はきっと頼ってくれるはずだ。



 凝ったものでなくてもいいから、何かしらは覚えておこう。母さんに聞いておこうかな。須坂さんにも聞いてみよう。



 洗い物を終え、リビングでぼんやりとそんなことを考える。



 そこで一旦思考を切り替え――今日のことを考える。



 ……凪、疲れてるみたいだしな。明日も学校だし、あまり疲れも残したくない……と思う。



 お風呂も入っていることだし、もし眠そうだったらそのままベッドの上に連行しよう。俺ももう風呂に入ってるし。

 眠そうじゃなかったら……その時考えよう。



 そんなことを考えていると――足音が聞こえてきて、凪が戻ってきたようだ。


「上がりました、蒼太君」

「ああ、な……ぎ?」



 そちらを見ながら首を傾げてしまった。


 凪はバスローブを着ていた。あの日と同じように。


「珍しいな。バスローブ着てるの」

「……ふふ。ちょっと思うところがありまして」


 凪が隣に座ると、ふわりとシャンプーの甘い香りが漂ってくる。


 今日は髪をもう乾かしたようで、サラサラとした髪は背中に流れていた。


 それにしても――バスローブを着ている凪、よく見てしまうと目の毒かもしれない。



 その一枚しか身に纏っていないからか、体のラインがよく見えてしまっている。


 服の隙間から真っ白な肌が見えてしまい、目を奪われていた。


 ……目を奪われる、というのは凪のどこを見てもそうなんだが。



 髪は初雪のように白く、甘い香りが漂ってくる。

 その蒼い瞳は……前から言っているが、とても好きだ。

 海のように神秘的で、どこまでも吸い込まれてしまいそうな美しさ。



 目は口ほどに物を言う、という言葉がある。……そこまでとは言わないが、凪の瞳を見ていると感情が分かりやすい。


 楽しい時は陽が差したように明るくなり、反対に悲しい時は陰を落とす。

 陰を落としている時よりも陽が差している時の方がもちろん好きだが……とにかく、その瞳も大好きだ。



 目を惹く薄い桃色をした唇に、顔よりもっと白い首筋――これ以上は少し、見るのを躊躇ってしまう。



「ふふ。やっぱりです」

「な、なんだ?」

「蒼太君、バスローブ姿の私好きですよね」

「……」


 思わず凪から目を逸らしてしまった。すると、凪が更に近づいてきて――手を取られた。


 暖かく柔らかなものが手のひらに当たり……一瞬だけ見ると、手が凪の太腿の上に拉致されていた。



「いいんですよ。恥ずかしがらなくても」


 体をこちらに倒してきて――左半身が柔らかなものに包み込まれる。


 ドクン、ドクン、と。心臓の音が伝わってくる。



「私も蒼太君の好きなこと、いっぱい知りたいんですから」

「……」



 少しだけ間を空ける。熱くなった頬を少しでも冷ますための……ささやかな抵抗だ。



 それでも顔に集まる熱は全然散ってくれない。……めちゃくちゃ恥ずかしい、けど。



「……バスローブ姿の凪も好きだ」

「ふふ、知ってます。いっぱい見ていいんですよ」



 楽しそうに微笑む凪。その蒼い瞳は――爛々と輝いていた。


「……凪。一つ聞きたいんだが」

「なんでしょうか?」

「その、疲れてないのか?」

「……疲れてるか疲れてないかで言えば疲れてるとは思いますが」



 凪が顔を寄せ、首に顔を埋めてくる。サラリとした髪が肩を撫でてきた。



 柔らかなものが――その唇が首をみ、くすぐったいような、ゾクリとしたら快楽がよじ登ってくる。


「昨日からそのつもりだったので、止まる気はありません。――今日は蒼太君が欲しいんです」


 小さく囁く声が心を揺さぶってくる。心の奥に潜めていたものを起こそうとしてくる。



 ……それを押さえつけることなく、小さく頷いた。


「分かった。昨日約束したもんな」



 凪を強く抱きしめた。自分がされたように、その首筋へ一度口付けをする。



「お疲れ様、凪」



 少しだけ力を緩め、労わるようにぽんぽんと背中を叩いた。



「今日は凪が好きなようにやっていいから」

「……良いんですか?」

「ああ」



 小さく返せば、凪は少しだけ悩んだ素振りを見せる。

 ドクンドクンと、重なっていた心臓の音が大きく、早くなっていく。



「……じ、じゃあ」


 凪の力が緩められ、同じように緩めると。凪は顔を肩から外し、見つめ合うような体勢になった。


「今日はいっぱい……いっぱい甘やかして欲しいです」

「分かった」



 凪の前髪が額をくすぐってくる。そこに手を持っていくと、凪は目を瞑った。



 やっぱり回数は多くないからか、緊張している。それは俺もそうなんだけども。



 だけど、今日は凪が甘えたいって言ってくれたから……頑張らないとな。



 それに、多分この家でするのは最後になるんだから。




 片手で凪の頭を撫で……もう片方の手を近づける。



「凪、良いか?」

「……蒼太君ならどこでも触っていいですよ」



 少しだけ潤んだ瞳がこちらを見てくる。……顔が上気しているのは、お風呂上がりだからか、それとも別の理由か。


 緊張のせいで手が震えてしまったが――どうにかその大きく柔らかなものに置いたのだった。




 結局その日も幸せがいっぱいになってしまって、お互い最後はよく分からないことになっていたが――時間はまだまだあるから、少しずつ慣れていきたい。

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