第62話 氷姫の思い出
「ご、ごめんなさい。ほんと。ごめんなさい」
「構わない……とは言えないが。まあ、母さんなら大丈夫だぞ」
凪が凄くしょんぼりとして、先程から謝り続けていた。
理由は――先程キスをしている所を母さんに見られてしまったから。
「で、ですが。……ですが」
確かに、凪に悪い所がないとも言えない。足音やノックは普通に聞こえてきたし。
だけど。
「俺も止めなかった訳だしな」
下手に触れると傷つけてしまいそうで……という言い訳は置いて。
単純に、凪が可愛かったから。……もっとその姿を見たいと思ってしまったからだ。
求められるのが嬉しくて、もっと可愛らしい姿を見ていたくて。止める事が出来なかった。
「う、うぅ……」
しかし、凪は顔を真っ赤にするのみである。これは話を変えるしかないかと頭の中で話題を探る。
一つ、ある事を思い出した。
「そういえば凪」
「は、はい。なんでしょうか」
名前を呼ぶと、凪はピシッと正座をして背筋を伸ばした。
その姿を見て苦笑しつつも、俺は手を伸ばし。凪の頭の上に手を置いた。
「……俺。凪に一目惚れしてたんだ」
凪の目が一瞬見開いて――ぼっ、と。真っ白な肌が真っ赤になった。
「え、えと……?」
「最初に凪に気がついたのは入学式の日だ。……気持ち悪い話だが、次の日から俺は凪の事を目で追うようになっていた」
凪が困惑したように顔を真っ赤にしている。
その表情の中に困惑や恥ずかしさ以外のものが見えて安心し……話を続けた。
「俺にとっての第一印象は……とても綺麗な人だと。そう思った。今まで見た誰よりも。……テレビで見るようなアイドルや女優なんかよりも、ずっと綺麗だと思った」
「う、ぁ……そ、その。ありがとう、ございます」
顔を真っ赤にする凪も……非常に可愛らしい。
綺麗だ、とか。可愛いとか言われ慣れてる……訳でもないのか。高嶺の花、みたいな感じだったらしいし。
「……えへへ」
自分の頬へ手を置いて、ニコニコと笑い始める凪。もう先程の事は頭から消えているようで、何よりである。
「元々、人を好きになる気持ちがよく分かっていなかったが。……思えば、あれが一目惚れなんだと思う」
何度も何度も瑛二には言われていたが。本当にその通りであった。
「わ、私も。……蒼太君の事は気づいてましたよ?」
「……? そうだったのか?」
「は、はい」
まさか凪に認知されているとは。……いや。そうか。
「気がつけば俺達以外の高校生、居なくなってたもんな」
「そうですね…………あの人達は下心が透けて見えていたので」
その言葉に、疑問に思っていた事を思い出した。
「そういえば男女問わず振ってたよな。話しかけて来た人達」
「はい。ちょっと中学の時にある事がありまして。人の悪意というか、見え見えの下心には敏感になってたんです。……あと、単純に不快な視線もあったので。そういう方は遠慮させていただきましたね」
最後の言葉に頬が引き攣った。
しかし、凪がわたわたと手を振り、首もぶんぶんと振った。ずっと頭に手を置いてるので、髪が触れてこそばゆかった。
「い、いえ。蒼太君は別ですよ? その、顔を見られる分には全然構わないのですが……顔より下の方に視線が行く人が多くて」
「ああ……なるほど」
凪はスタイルが良い。国籍や育ちが違えど、凪の……血の繋がりを持っている親は外国人だからなのだろうか。
もちろんスタイルの良さも凪の魅力の一つだとは思うが。あくまで一つに過ぎない。
「その事もあって。一度、蒼太君とは話してみたいとは思ってたんですよ? ……あの時まで勇気が出せませんでしたが」
「……そ、そうだったのか」
顔が熱くなってきた。暖房が効きすぎたのだろうか。
そんな事を考えながらも、誤魔化すように何度も凪の頭を撫でていると。凪の手に手を取られた。
「……そ、それと」
凪が俺の手をきゅっと。……指を絡めるようにして握った。
凪の蒼い瞳がじっと俺を見てきて――
「そ、蒼太君になら……どれだけ見られても嫌じゃないですから。……い、良いんですよ? 顔以外の場所でも。蒼太君が見たいのなら」
ぐっ、と。喉から変な音が鳴りそうになった。
「な、なんなら……さ、触っても」
「な、凪。……それ以上は色々と、危ないから」
その手が引き寄せられ。凪の……その、鼓動を一番強く感じられる部分に押し付けられそうになり。思わず口を挟んだ。
これ以上は本当に、我慢が出来なくなってしまうから。
理性の糸はギリギリと悲鳴をあげていた。ちょっとした事でプツリと切れてしまうだろう。
「……そ、そうでした。先程の事もありましたもんね」
「あ、ああ……そうだな」
母さんは来ないだろうが……父さんが来たらと想像すると恐ろしい。夕飯に赤飯が出されかねない。
「えっと……も、もう一つ聞きたい事があったんです」
「なんだ?」
また先程の事を思い出す前に、凪が話題を変える。
「蒼太君って……どうして私を助けてくれたんでしょうか。その、下心などが感じられなかったので」
「どうして、か」
一瞬だけ。言葉を躊躇った。幻滅されるのではないかと。
しかし。こうした事も言っておいた方が良いかと思い直し。俺は凪の手を握り、凪の瞳を見る。
「お礼、だな」
「……? お礼ですか?」
「ああ。毎日元気を貰ってたから。……そのお礼だ。裏を返せば――もし、本当に関わりがなければ俺は助けてなかったと思う」
ただでさえ、助けるか迷っていたのだ。その後押しがなければ、俺は――
「ふふ」
俯きかけていた顔が。凪の小さな笑い声を聞いて、上がってしまう。
「だからなんですね。ホッとしました」
凪が柔らかく微笑み……倒れ込んできた。
胸の中に凪が居る。その体温が全身で伝わってきて……凪が上目遣いで俺を見てきた。その手は決して離さないまま、小さく口を開いた。
「私、『無償の善意』というものがあまり信じられなかったんです。いえ、正確には少し違いますね。先程も言った通り、下心を持って近づいてくる人が多かったのですが……善意という皮を被った人が多かったんです。だから、蒼太君はどうだったのか気になってたんですよ。完全に聞く機会を逃してましたが」
凪がそう言い。ぎゅっと、俺を抱きしめた。
「納得しました。……それと、すっごく嬉しいです」
小さく凪が笑った。
「大好きな人の好みの姿に生まれる事が出来て。私も……蒼太君は好印象でしたよ? そうでないと、話しかけるのにもっと勇気が必要だったはずです」
「……そうか」
「今の蒼太君はあの時よりもっと大好きですけどね。姿も、心も」
柔らかく笑い、じっと瞳を合わせる凪。少し気恥ずしくもありながら……だけど、嬉しくて。
「俺だって。あの頃より……凪の事をたくさん知って。もっと大好きになってるぞ」
「ふふ。一緒ですね」
俺の中で凪は高嶺の花……決して手の届かない存在だった。でも、それは想像の中でだけだ。
実際の凪は人との関わりが苦手で、しかし甘えんぼうで……家族の事が大好きな女の子だったのだ。
凪の事を知れば知るほど、好きになってしまう。
その蒼い瞳と視線が混じり……凪がニコリと笑う。
「でも、それはそれとして。今の蒼太君なら、例え誰かが困っていても助けると思います」
「……どうしてだ?」
「蒼太君、自分にすっごく厳しい人なので」
もう片方の手がそっと、胸に置かれた。
「私に見合うような人になりたい、って思ってますよね。私が言うのもなんですけど」
凪の手がそっと胸から離れて……お腹に触れてきた。少しくすぐったい。
「……体、前よりもたくましくなってます」
「き、気づいてたのか」
――凪と関わるようになってから、少しずつ体作りを始めていたのだ。
凪の隣に立っても恥ずかしくない人間になれるように。
「ふふ。私も蒼太君の事が大好きで、よく見てるので。前はもっと細かったですからね」
「そ、そうか……」
その真っ直ぐな言葉に思わず視線を逸らした。でも、視線を逸らすだけだと凪の追撃は避けられない。
「……気づいてますよ。蒼太君の変化は全部。こうして心臓が早くなってきたのも分かっちゃいます」
ドクドクと心臓が早鐘を打つ。これが聞かれているのだと、どんどん頬が火照っていくのを感じた。
……凪に隠し事は出来ないな。するつもりもないが。
「だから、分かるんです。今の蒼太君ならきっと、助けを欲する誰かを無視する事はしないって。危ない事に巻き込まれて欲しくはないですが」
確かに。今もし……助けを求めてくる人が居れば、助けるのかもしれない。
いや、助けるだろう。そうしないと、凪に合わせる顔がなくなってしまう。
それに――助けを求めていた凪の姿と重ねてしまうだろうから。
「……そうだな」
「はい! ですから、気にしなくて良いんですよ」
にこやかに笑う凪を見ていると……どんどん頬が緩んでいく。
本当に――
「凪と出会えてよかった。心の底から思うよ」
凪と出会えたお陰で、俺は大きく変わる事が出来た。
精神面はもちろん、学力も。そして、何よりも。
「毎日が楽しくなった」
「私もです」
凪がそっと、抱きしめる力を緩め。上を向いて、俺に顔を近づけてきた。
とても綺麗な顔立ち。その瞳は蒼く、肌は真っ白でスベスベとしている。
そのサラサラの髪が揺れる度に、思わず手で触れたくなってしまう。
どこか幻想的で、だけど可愛らしい笑みを浮かべる凪。
「蒼太君と出会えた事が――この世に生まれてきて、一番良かった事です。断言できます」
そっと、唇が触れる。
先程とはまた違った多幸感が脳を痺れさせた。
「大好きですよ、蒼太君」
「……俺も。大好きだよ」
今度は俺の方からキスをし……二人でゆったりとした時間を過ごしたのだった。
今までしてこなかった、お互いの話をして。また一つ、仲良くなれたと感じた。
◆◆◆
「ちょっとコンビニに行ってくるが。凪も行くか?」
「はい! ……あ、やっぱりやめときます」
なんとなく炭酸飲料が飲みたくなったのだが、家には無いらしく。コンビニに行こうと思って凪を誘ったのだが、断られてしまった。
「いえ、本当は行きたいのですが。……その。少し、やりたい事がありまして」
「……ああ。分かった」
その言葉で凪が何をしたいのか悟った。確かに俺が居るとやりにくい……話しにくいだろう。
「よし。じゃあゆっくり行ってこよう」
「はい。ありがとうございます」
着替えてはいないので、そのまま外に出られる。
下に降り、母さん達に一言告げて。
着いてこようとした父さんを追っ払い、玄関へ向かう。後ろをとことこと凪が着いてきた。
「それじゃあ行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
靴を履いて凪へそう言うと。……ちょいちょい、と袖を指で摘まれた。
どうしたんだろうかと近づいた瞬間――ふわりと甘い香りが漂い、唇に甘く柔らかいものが触れた。
「えへへ。少し違いますが、行ってらっしゃいのキスです」
頬を赤く染め、照れたように微笑む凪に……思わず抱きしめそうになってしまい、奥から覗く二組の瞳を見て思いとどまる。
そこを睨むと、二人はさっとリビングに引っ込んだ。
「気をつけて行ってきてくださいね」
「ああ。凪も頑張ってな」
「はい!」
ここだけ切り抜くと、本当の夫婦みたいに思えてしまう。
そんな事を考えながら、俺は家から出たのだった。
外は寒いと言うのに、心はポカポカとしていて暖かかった。
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