3章 氷砂糖姫

第42話 氷姫、氷がなくなる

「えへへ……蒼太君」


 ベッドの中。

 誰もが目を奪われるような美少女が、だらしない顔をして笑っている。しかも俺の腕の中で。


「なんだ?」

「大好きです」


 そう言ってぎゅーっと背中に回した手で強く抱きしめてくる。それだけで、俺は心臓が痛いくらいに跳ね上がる。


 ――東雲凪しののめなぎ。処女雪のように真っ白な髪に真っ白な肌。その瞳は深い海のように蒼く、表情が乏しかった……のは昔の話。


 紆余曲折を経て俺の恋人になってくれた彼女は、こうして可愛らしい表情を浮かべてくれる。


 それは嬉しいのだが。


 ……先程から一時間近くこんな形なのだ。


 正直に言おう。持たない。心臓が持たなすぎる。


「な、凪。そろそろ……」

「……やです」


 俺の言葉にそう短く言って。更にぎゅっと体を抱きしめられる。


「まだ蒼太君を体で。全身で感じていたいんです」


 そのまま胸に顔を埋めてくる凪。にへらと笑うその笑顔には【氷姫】の要素など無い。氷が溶けきっている。


「……蒼太君の優しさが直に伝わってきますから。好きなんです。蒼太君の声が。心が。体が。全てが」


 その一言一言が脳を、そして心を揺さぶってくる。しかし――


 これ、言っても良いのだろうか。

 千恵さんと須坂さんが見ている事。


 扉を少し開き、二人が見ているのだ。すっごいニコニコと。

 俺と視線が合い、千恵さんがしー、と唇の前に人差し指を立てた。


 ……まあ良いか。良いのか? 人の家で同じベッドに入るなど。


「えへへ……もう我慢しませんからね」


 そんなふうに笑う凪を見ていたら。そんな事、どうでも良くなって。


 頭を撫でると、凪は幼子のように笑う。抱きしめるとその暖かさが伝わってくる。


 甘い香りが鼻腔をくすぐり。……柔らかい物が当たる。

 正直、色々と心臓に悪いのは確かだ。


 だが、それ以上に――愛おしい。


 この腕の中に収まる彼女を、幸せにしたい。


「なあ、凪」

 名前を呼ぶと。ほんの少しだけ顔を動かし、ちらりと上目遣いで俺を見てきた。


 ……なんだ。この可愛い生き物は。


 そんな言葉を飲み込み。俺は向こうに聞こえないよう、小さく囁く。


「大好きだぞ」


 その言葉を言う事にまだ羞恥心があったが。凪はぱあっと顔を輝かせて。


「私も大好きです!」


 ――そう言って、体を動かして俺に抱きついた。


 頬に、凪の柔らかなほっぺたが当てられる。

 全身に凪の温かさとか優しさ、柔らかさが伝わってくる。


 ……しかし、これだと小声で言った意味がないじゃないか。


 二つの暖かい視線が突き刺さりながらも、俺は凪の背中をぽんぽんと叩くのだった。


 ◆◆◆


「そ、それでは。お世話になりました」

「はい。また是非遊びに来てください。宗一郎さんもきっと喜びますから」


 それから二時間後、俺は帰る事になった。凪を連れて。


「ああ、そうでした。海以君……いえ、これからは蒼太君と呼ばせていただきましょう」

「は、はい」


 千恵さんがじっと。俺を見た。


「蒼太君。ここで確認しておきたいのですが。……貴方を娘。凪の婚約者としてよろしいでしょうか」


 その言葉に俺は目を見開いた。


「婚約者が居る、となれば凪に近づく人も居なくなるでしょう。蒼太君としても安心でしょうし。婿入りするかどうかはまた今度考えるとして。どうでしょう?」


 俺はその言葉を聞いて――隣に居る凪を見た。


 凪は少し緊張した様子で……しかし、期待したように俺を見ていた。


 ……まあ。最初から返事は決まっているが。


「はい、よろしくお願いします」


 俺がそう言うと、千恵さんが嬉しそうに頷いたのだった。


「あ、そうでした。凪、少し耳を貸してください」

「……? はい、分かりました」


 千恵さんが凪に何か耳打ちし。凪の顔がどんどん真っ赤になっていった。


「お、お母様。それは」

「ふふ。ママって呼んでくれないんですか?」


 千恵さんの言葉に更に凪の顔が赤くなる。リンゴのようだ。


「ふふ、ごめんなさいね。凪ってば可愛くって。……準備はしておきましたから、荷物。取って行きなさい」

「……分かりました。蒼太君、少しだけ待っててくださいね」


 その言葉の意味が良く分からなかったが。とりあえず俺は頷いた。


「……? ああ、分かった」



 何かを取りに自室に戻る凪。程なくして戻ってきたと思えば……


 大きなカバンを持ってきていた。確か、普段学校に持って行っているものだ。


「凪? その荷物は?」

「……気にしないでください。さて、行きましょうか」


 まあ、確かにそんなに気にする事でもないか。ましてや中身を見せろなんて気持ち悪いだろうし。


 千恵さんや須坂さんに挨拶をして、外に出た。



「ああ、そうだ。瑛二達にも連絡をしないと。言っておいたんだ。終わったら連絡をすると」

「そうだったんですね。……でも、その必要はなさそうですよ」


 凪がくすりと笑い。「見てください」と、ある方向を見る。


 すると、そこには――


「おお、やっと来たか。おせえぞ」

「よーっす。成功っぽいね。その感じだと」

「あ、来た。ちゃんとデコピンしてきてくれた?」


 瑛二と、西沢。そして、羽山が居た。


「……デコピン?」

「あ、その反応はしてないね。まあ出来ないか」


 羽山の言葉に笑いながら。瑛二達に近寄る。


「待っててくれたのか? もう真冬だぞ?」

「そろそろかなって思って来ただけだ」

「嘘つき。『俺は蒼太がどうなったのか真っ先に確認しないといけない。成功しようが失敗しようが』って言ったのはどこの誰よ。私がそのコート持ってきてあげたんだからね」

「あ、お前。言うなよ。かっこ悪いじゃねえか」

「ちなみに私はさっき来た感じね。二人とも居るって聞いたから」


 そんな瑛二達の言葉に笑いながら。ココアを飲んでいる瑛二の肩を叩く。


「ありがとな」

「頑張ったのはお前だろうが」

「頑張らせてくれたのはお前だ。だから、ありがとう」

「……どういたしまして」


 照れくさそうに言う瑛二を見て。……次に、凪を見た。


「えっと、その。……ご心配おかけしました。申し訳ありません」

「別に謝んなくていーよ。……というか、私も火付け人の一人みたいなもんだし。でもさ、東雲ちゃん。……ううん、凪。目瞑って」


 凪が羽山の言葉を聞いて頭に?を浮かべながら。目を瞑った。


 羽山がよし、と指を引き絞り。




 ばぢん!



 ……と。かなり良い音が辺りに響いた。



「あうっ」


 凪が可愛い呻き声を漏らし。額を手で押さえた。


「馬鹿な事考えてた罰。海以君にやってって頼んでたんだけど。まあ無理だろうなって思ってたから」


 羽山がそう言って。ニコリと笑った。


「次からは相談してよね。友達なんだからさ」

「……はい! すみませんでした。……そして、ありがとうございます」


 凪が礼儀正しく頭を下げ。羽山が「ん、」と小さく頷く。


「私はどうしよっかな。じゃあみのりんとお揃いで。なぎりんって呼んでもいい?」

「は、はい! もちろんです!」


 そんなやり取りを微笑ましく見ながら。俺達は帰りを歩く。


「そういえば昼はどうする? 繰り上げて昼にピザ頼むか?」

「や、別にしようぜ。どっかで食べるか?」


 凪には瑛二達とピザパーティーをする事は伝えていた。そんな凪があっと声を漏らす。



「じゃあまた私が作りましょうか? ……そうですね。今度は以前蒼太君のお母様から習った唐揚げとかどうでしょう?」

「……良いのか?」


 俺が聞き返すと。凪は笑顔で頷いた。


「はい! 皆様へご迷惑をかけたお詫びでもありますし。それに、多めに作っておけば明日の私と蒼太君のお弁当にも入れられるので!」

「……なら頼みたいな。三人はどうだ?」

「もち! 唐揚げ好き!」

「おー! 俺も!」

「私もー!」


 三人が了承したので、俺達は帰りながらスーパーに行く事にした。



 その途中。そっと、凪の指が俺に触れた。凪を見ると、ニコリと微笑まれる。


 そのまま小指を絡めてきた。そして、嬉しそうな顔を耳に近づけてきて。



「大好きですよ、蒼太君」


 そう、囁いてきた。



 俺の頬がだらしなく緩みそうになり。片手で覆い隠した。


 凪はそんな俺をニコニコと嬉しそうに見ている。


「さあ、行きましょう。蒼太君」

「……ああ」


 こんなのがこれから毎日続くと言うのか。



 俺。耐えられるのか……? いや、もう耐える必要も……違う、ダメだろう。何事も順序というものがあるんだ。


 小指をきゅっと絡めながら楽しそうに歩く凪について歩きながら。


「なんだあのイチャイチャ純情カップルは」

「私達でもあんなあからさまにやったりしないよね?」

「……まあ。いんじゃない? 楽しそうだし」


 後ろから聞こえてくる声から。俺は耳を逸らすのだった。

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