第88話 悪い子

「おかえりなさい、蒼太君」

「ただいま、凪。待っててくれたのか?」


 扉を開けると、玄関に凪が居て驚いてしまった。

 凪の頬がほんの少し赤く染まり、はにかむように彼女は笑う。


「もうそろそろ蒼太君が帰ってくると思ったら、ついここに居ちゃいまして。それより蒼太君」

「……あ、ああ。先に手洗いとうがいだけさせてくれ」

「む。わかりました」


 凪から求められるものを察して。しかし、風邪を持ちこんでしまったら大変である。


 手洗い場まで向かうと、後ろから凪がひょこひょこと着いてきた。


 どうしたのだろうと思いつつ、手を洗い。うがいをする。


 掛けられた白いタオルと青いタオルのうち、青いタオルを使って口元と手を拭う。白いタオルは凪の物である。



 そして、振り向いた瞬間の事である。


 凪が俺の首に手を回し、体を引き寄せてきて――キスをされた。


「まだちょっとだけお口、冷たいですね」

「ッ……」


 なんとなく、予想はしていた。していたんだが。


 不意打ちであろうとなかろうと、破壊力が高すぎる。


 ぎゅっと音がしそうなくらいに強く抱きしめられて。すぐ目の前に凪の顔があった。


「おかえりなさい、蒼太君」

「……ああ。ただいま、凪」


 改めてそう返し、俺は肩の力を抜いたのだった。


 ◆◆◆


「今日はどうでした?」

「あんまり時間もなかったから、顔合わせとどんな業務内容か確認したくらいだったな。……今日も美味しいな」


 夕ご飯を食べながら、早速凪と今日あった事を話していた。


 夕ご飯は肉じゃがである。とても美味しく、思わず言葉が漏れ出てしまった。


「ふふ、良かったです。お仕事を教えてくれた人も居たんですか?」

「ああ。瑛二と西沢を足して二で割ったような人だった」

「そ、それはまたキャラの濃い人ですね?」

「そうだな、濃かった。でも良い人そうだったよ」


 もちろん俺は、簡単に人の事を心の底から信用出来るようなタイプの人間ではない。

 それでも、第一印象は大事だなと心の底から思ってしまうくらいだった。


「それなら良かったです。でも、もし何かあれば私かパパ達に言うんですよ。こう言うのもなんですが、蒼太君の事を快く思わない人が居ないとは言いきれませんから」


 凪の言葉に大きく頷いた。


 そこは理解しているつもりだ。今の事態になっているのも、俺が大きく関係している。


 それに、俺は凪の婚約者という立ち位置。普通に見れば、逆玉の輿と思われても不思議ではない。

 不快に思われてもおかしくない立場なのだ。……悲しい事ではあるが。


 もちろん、俺としても覚悟はしている。しかし、何かあればすぐに相談して欲しいとお義父さんからも強く言われていた。

 度を越した時だけ言って休み、心を落ち着けるつもりである。


「誰かを頼る事は悪い事ではないですよ。もし頼ろうとしなくても、絶対に私が気づきますけど」

「……ああ。分かってるよ」



 あれから調子は戻っている。想像していたよりずっと早いが、それは凪のお陰である。


 これから少しずつ、精神は鍛えていけば良いのだ。急いだら疲れてしまうから、な。


「ありがとな、凪」

「どういたしまして、です!」


 ニコリと微笑む彼女をみていると、心が暖かくなる。


 同時にご飯も食べていると、内からどんどん満たされていく。


 急いで食べないよう、ゆっくり味わっていたつもりだった。

 しかし、楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。


「ご馳走様でした」

「はい、お粗末様でした」

「凄く美味しかった。ホッとするというか、凄く落ち着ける味だ」


 家に帰ってきたのだが、まだどこか緊張していたらしい。

 食べる事でそれが解れてきた。肩を回すとゴキッと音が鳴った。


「お疲れみたいですね」

「ああ、いや。全然大丈夫だぞ」

「……じー」


 反射的に大丈夫だと告げるも、凪の蒼い瞳にじっと見つめられた。


「あー。やっぱりちょっとだけ疲れてるかもしれない。ちょっとだけ」

「はい、よく出来ました」


 凪がニコリと笑って。手を伸ばし、頭を撫でてくれる。


 少しだけむず痒くなってしまうも、その手の感触は暖かい。気持ちよくて、目を瞑ってしまう。


 すると――額に柔らかいものがつん、と当てられた。

 目を開けると、すぐ目の前に凪の顔がある。


「お疲れ様です、蒼太君。後は私に任せて下さい」

「ん? いや、俺も片付けくらい――」

「ダメです。今日はゆっくり休んでてください」


 彼女の声は優しくも、絶対に譲らないという強い意志が込められていた。


「そんなに手間じゃないですし、今日だけですから」

「あー。手間じゃないなら別に手伝っても……って言ったらどうなる?」


 一応。一応言ってみると、凪がくすりと笑った。


 その顔が更に近づいて――耳元で。



「お片付けをサボって、このまま蒼太君をベッドまで連行する……になっちゃいます」



 一瞬、心臓が止まったかと思ってしまった。



「分かりましたか? 蒼太君」


 少し顔を離して、彼女はイタズラっぽく笑う。


「それとも、になった私の方が好みですか?」

「――ッ、お、大人しく、待ちます」

「ふふ、よろしいです」


 からかいが半分、といった表情である。

 ……つまり、半分は本気に見えた。いや、多分凪ならやる。前は有無を言わさずやられた分、今回は大目に見てくれているのだろう。


「では、お片付けをしてきますね。どうしますか? お風呂に入っておきますか?」

「そ、そうだな。じゃあ頂こう。凪はもう入ったんだよな?」

「ええ、入りました。ではゆっくり浸かってくださいね。眠ったらダメですよ」


 心配の言葉に苦笑いが漏れてしまう。


「大丈夫だよ。ありがとう、凪」

「いえいえ。どういたしまして、です!」


 ニコリと微笑む凪はエプロンを取って、台所へと向かったのだった。


 ◆◆◆


「ふぅ……」


 湯船に浸かると、思わず声が出てしまった。とても気持ちいい。


 じんわりと全身が温められていき、疲れが取れていく。入浴剤のフローラルな香りもとても癒される。


 湯船はかなり広い、二人で入ってもまだ余裕があるくらいだ。


 脚をしっかりと伸ばし、全身に温かみを感じる。



 ――ああ、本当に気持ちいいな。



 想像していた以上に体に疲れは溜まっていたらしい。緊張により強ばっていた体が解れ、心までもがゆっくりとマッサージをされたように解されていく。


「……ふわぁ」


 思わず欠伸が出てしまった。まずい、気持ちよすぎる。


 眠りはしない。しない、が。あまりにも気持ちよすぎる。


 少し起き上がって伸びをすると、肩からゴキゴキと音がした。最近PCか教材とにらめっこばかりをしていたからな。


「はぁ……」


 もう一度息を吐いた。


 凪と話した事だが、一人の時間は大切だ。ずっと凪と二人で居たいという思いもあるが、一人は一人でかけがえのない時間となる。


 お風呂の時間もそうだ。俺達は基本……というかそれが当たり前の事ではあるが、風呂くらいは別々だ。例外こそあるものの。



「……っと、危ない」


 ――そう。



「蒼太君」



 例外はあるのだ。


「凪?」


 名前を呼ばれて。聞き間違えかと思いながらも名前を呼び返し、首を動かして扉の方を見る。


 曇りガラス越しに、彼女のシルエットが見えた。


「どうかしたのか?」

「リラックスしてる所ごめんなさい。……蒼太君、本当にお疲れのようでしたので。少しだけ不安で」

「ああ」


 俺が寝てないか気になったのだろう。


「助かる。ちょっと眠かったんだ。五分くらい話し相手になってくれるか?」

「はい、もちろんです」


 その気遣いは遠慮抜きにありがたかった。このままだと睡魔に負けてしまいそうだったから。


「じゃあ、そうだな。この前凪に勧めて貰った本。読んだから感想会でもしないか?」

「……! 読んでくれたんですね!」

「ああ、少し時間が掛かったけどな」


 最近忙しかったものの、隙間時間で読む事が出来た。


「では! 蒼太君はどなたが一番好きでしたか!? 私は主人公の妹が好きで……!」

「ああ、最後の所凄く良かったよな。その子も好きだったな。あと、先生も好きになった」

「……! 分かります!」


 扉越しに聞こえてきた興奮するような声に頬が緩んでしまう。


 そのまま俺達は話し続けて。少しだけ逆上のぼせてしまいそうになったのだった。


 ◆◆◆


「……えーっと。凪?」

「はい、なんでしょう」


 風呂上がり。俺は今、ベッドの上で追い詰められていた。


「その。さすがにそれは恥ずかしいというか」


 頬を掻いて目を逸らそうとすると、柔らかな手に手を握られた。


 ……凪はとてもずるいと思う。


「蒼太君は強引にされる方がお好きなんですか?」


 そう言われては――


「……違う」


 断る事も出来ないのだから。



「さあ、来てください。蒼太君」


 凪は腕を広げ、俺を迎え入れようとする。柔和な笑みと共に。



「頑張った蒼太君をこれからいっぱい甘やかしてあげます」



 凪には勝てないな。



 大人しく、俺は凪の胸に耳を当てた。



 優しく頭の中を木霊する鼓動の音。それを聴きながら、俺は目を瞑る。



 今は勝てないが。彼女が頑張った時は俺も同じ事をしようと心に誓ったのだった。

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