第37話 氷姫の一週間

 月曜日の夜。


 私は、お父様に呼び出されていた。珍しく、話がしたいと言われたから。


 夕ご飯は一緒に食べた。何の話だろうと思いながら、私はお父様の部屋をノックする。


「凪です」

「入ってくれ」

「失礼します」

 少ない会話の後に、私は部屋に入った。


 お父様の部屋は簡素だ。いや、唯一豪華な所はある。それは仕事机だ。


 自分のお部屋でも仕事が出来るように、との事で設置したらしい。お父様はその机の前の椅子に腰掛けていた。


「適当に座ってくれ」

「はい」


 私は近くにあった椅子に座る。一体何を話されるのだろう。


 少し、心臓がザワついていた。


 すると、お父様が一つ咳払いをした。


「……凪。最近、高校生活を謳歌していると聞く。本当か?」

「はい。楽しく過ごせています」


 特に誤魔化す必要はないのでそう答えた。以前から変わりないか、という事だろう。蒼太君……ではなく。お友達の事は話したのだから。


 それはいきなりの事だった。


「そうか。……その、好きな人とか。出来たりしているか?」


 お父様はそう、聞いてきた。


 心臓がバクンと嫌な音を立てた。


「……質問の意図が理解出来かねますが」


 違う。


 違うでしょう。


 今のは『居ます』と答えるべき場面だったはずだ。


 拳を握りながら、お父様の言葉を待つ。


 待ってしまう。


「いや、何だ。凪に縁談の話が来ていてな。……まだ高校一年生で早いと伝えていたんだが」


 心臓が止まってしまうかのような衝撃。……それと同時に。


 ついに来てしまったかと。不思議と私の心は。すぐに落ち着いた。


「御相手は。誰なんでしょうか」


 私は、そう聞いてしまった。


 違う。聞くべきじゃない。


 でも、まだ相手が。……お父様のお仕事と何の関係もない相手なら。


 そんな私の一縷の望みも――


「ああ。南川陽斗みなみかわようとさんだ」


 潰えた。


「……南川、とはあの?」

「ああ。私も驚いたよ」


 南川。それは、お父様とライバル関係にある会社の社長の苗字だ。


 これ以上、聞くべきではない。早く、断らなければ。


 そして、蒼太君の事を話すんだ。


 好きな人が居るって。


「……どうしてまた、あの家と?」

「凪がこの前出ていた公演会。そこであちらの息子さんが一目惚れしたそうだ。調べたが、向こうの息子さんは誠実でとても良い人だ。写真も貰っている」


 そう言って、お父様が一枚の写真を取り出した。

 しかし。相手の性格や容姿なんて、どうでもいい。


 蒼太君に比べれば、誰であろうと霞んでしまうから。

 だから、蒼太君の事を。言わないと。


「しかし、お父様。……ライバル関係にある会社とは。色々と厳しいのでは?」


 どうして、この口は思い通りに動かないんだ。


「ん? ああ。……実は向こうが条件を出して来たんだ。もし受けてくれるのなら今週末、日曜日に縁談の機会を設けて欲しい。それだけでもかなり私の会社に旨味のある事を伝えられたのだが……もし婚約まで出来たなら。事業の手伝い……言い方を変えると、こちらの子会社になっても良いと」


 破格の条件だ。

 まだ、会社に関してそこまで詳しい事は分かっていないけど。それでも理解出来る。


 こちらに取って良すぎる条件。……少し、怖くなってしまう程に。


「……怪しいです」

「ああ、私もそう思って色々と調べた。……結果として、本当に彼らに野心はもうないようだった。息子のためならば仕事を。……会社などどうなっても良いと言っていた。『絶対にお前には負けない』、そう言っていた彼の姿はもうそこにはなかった」


 それだけ自分の息子の事を想っていた。いや、親としてのエゴでもある。


 息子の為なら、と言っているけれど。これで不利益を被る人は一人や二人では済まないはずだ。


「……お父様は。裏は無いと考えていらっしゃるんですよね」

「ああ。そうだ。もしあったとしてもどうにでも出来る」


 それなら……



 いや、違う。


 違うでしょう。


 断らないと、いけない。


 本当に?

 断るの?


 こんな機会、一生に一度しかないかもしれない。

 これを逃せば。もう、これ以上の恩を返す事が出来ないかもしれない。


 逃して、良いの?


 お父様の事業がこれで拡大するのなら。他のライバル会社からも頭一つ……いや、二つも三つ抜けるだろう。そうなれば、お父様は夢にまた一歩近づく。


 目の前にチャンスがあるのに。……逃がして良いのか。


「まだ高校生活は一年目だ。凪の事を考えれば早いとは思う。ただ、凪は昔から……男の子と接するのが苦手だったから。良い機会だとも思っている。相手は節度のある大人でもあるし、怖い思いはしないだろう」


 その言葉を聞いて、目を瞑り。


 ……私は。



 私は。


 違う。言わないと、いけない。……いけないのに。


 蒼太君を、紹介。しないと。

 でも、これを逃せば。お父様の幸せが遠のいて――


 頭の中が、真っ白になって。……私は。



 蒼太君か。お父様の幸せか。



 私は――



 私は。



「分かり、ました」


 頷いた。頷いて、しまった。


「今週末、ですよね。日曜日なら。大丈夫です」


 そう言うと、お父様は少し不安そうな顔になった。


「……本当に良いのか? 考える時間を設けても」

「いえ。……昔から、決めていた事ですから」


 幼い頃。お父様に聞いた事があった。


『私、大きくなったらお父様の役に立ちたいです。どうすればいいですか?』


 お父様の役に立ちたい。でも、どうすれば良いのか分からず。そう聞いていた。


『いっぱい勉強をするんだ。……そして、出来る事なら私の事業を、夢を継いで欲しい。ああ、そうだ。もしかしたら。かっこいいお婿さんが来るかもしれない。その時は仲良くするんだぞ』

『はい! 必ず。約束します!』


 そう、言われたから。

 約束、したから。

 その通りに私は……やってきた。


 これが、お父様の幸せになるなら。


 この人生は。拾ってくれた二人の為に使うんだ。


 そう思ってお父様を見ると……今まで。数える程しか見た事がない表情へと変わっていた。


「そうか。……遂にこの時が来てしまったか。先方にも話しておこう。だが、もし顔合わせをして無理だと判断すれば言うんだぞ」

「……ありがとうございます」


 お父様のそんな顔を見るのは……何年ぶりだっただろう。


 その表情が見られたのなら。良かった。



 ……良かった、と思わないといけない。


 ◆◆◆


 それから。地獄のような日々が続いた。


 夜、眠れない。自己嫌悪に苛まれてずっと、蒼太君の事を考えてしまう。

 蒼太君に早く話さないといけない。そんな事は分かっていたのに、


 全て、自業自得。……いや、それ以上に悪い。蒼太君を騙しているのだから。


 まだ巻き込むのかと。吐き気がして、吐いて。腹痛がして、トイレに篭って。


 須坂さんは目敏いからバレそうになったけれど。胃腸のお薬を貰う事でカモフラージュした。須坂さんには前日になるまで話さないでおこう。お父様にも話さないよう言った。


 お母様とお父様にはバレなかった。……私は昔から、隠すのが得意だったから。


「……」


 溜息を吐く事すら許されない。……許したくない。


 こんな自分、苦しめば良い。人を弄んだ代償としては軽すぎるくらいだ。



 また、電話の時間が近づいてくる。今日こそ、話そう。話さないと……


 いけなかったのに。


「それでは、また明日。おやすみなさい、蒼太君」

『ああ、また明日。おやすみ、凪』


 また私は言えなかった。


 結局そのまま――蒼太君と遊園地に行く日が来てしまった。


 ◆◆◆


 私はやっと腹を括った。今日、蒼太君に話す。それは確実だ。


 でも、いきなり話すと……蒼太君が楽しみにしてくれていたのに、台無しにしてしまう。


 ……そして。これが最後になるなら、蒼太君との思い出が欲しかった。


 最低だと、分かってる。……でも。止められなかった。


 つい、いつもより距離を近くして。楽しんでしまった。


 何かあったという事がバレたのは想定外だったけど。……追求しないでいてくれた。


 そして、楽しんで。……いっぱい、いっぱい楽しんで。



「私、今日限りで蒼太君と会えなくなるんです」


 そう、言った。


 彼の信頼を。全てを裏切った。


 ――初めて、人を裏切った瞬間だった。



 自分を呪って、恨んだ。そしてつい、蒼太君もそう思っていて欲しいと考えてしまった。蒼太君は絶対、そんな事は考えないはずなのに。


 覚悟は決まっていた。例え蒼太君が何を言ったとしても……ないとは思うけど。強硬手段に出たとしたら、抵抗するつもりであった。


 ……ううん。強硬手段に出たのは私の方だ。つい。


 卑しい事に、欲が出てしまった。


 蒼太君に別れを告げて、私は走る。……絶対に振り返らなかった。



 ずっと、大好きだった。愛していた。


 ……もう、会えないけれど。こんな私が祈るべきじゃないと分かっているけれど。


 それでも、祈らせて欲しい。




 ――貴方がこれからの人生で幸せになるように。


 ――大切な人を見つけられるように。


 ◆◆◆


 帰ってからも一悶着あった。須坂さんだ。


 須坂さんは私の話を聞いて、顔を真っ青にした。そして、すぐにお父様に伝えに行こうとした。



『まだ間に合います、間に合いますから』

 と。


 どうにか、私は止めた。今から伝えられると……本当に困ったから。


 お父様のお仕事に影響が出る。その損失は計り知れないものだ。何度も何度も、疲れるくらい説明して。


 ……もう。蒼太君に合わせる顔もなかったから。


 そう言ってやっと、納得して貰った。


 泣いた跡は化粧で隠して。夕ご飯も、お腹がムカムカしたけど。どうにか食べ切った。



 お母様が訝しんでいたけれど。……大丈夫のはずだ、多分。


 別に追求される事はなく。私はご飯を食べて、逃げるように自分の部屋に帰った。


 ◆◆◆


 眠れなかった。でも、不思議と目は冴えていた。


 もう、目も問題ない。少しだけ赤い気はするけど、化粧でどうにかなる範囲だ。


 鏡を見て、私は驚いてしまった。



 ――数ヶ月前の。あの時の私と全く同じ表情をしていたから。


【氷姫】と。最初に誰が言ったのか分からない。……自分で言うのもなんだけど、そんな二つ名が良く似合う顔だった。


 その表情に感情はない。……いや、私に感情はあるのだけれど。表には出さない。


 あ、そっか。……もう、出す事はないか。蒼太君とは会えないんだから。


 首を振り、しっかりしてと頬を叩いた。


 今日はお母様が直々に化粧と着付けをしてくれるのだから。


 時間になると、部屋にお母様が入ってきて――私の顔をじっと見た。


「……凪。少し変わりましたか?」


 その言葉に。驚いてしまった。


「どうして。そう思われたんですか?」

「……昨日から。少し表情が変わったように見えました。何か良くない事でもありましたか?」


 お母様の言葉に、私は口を閉ざしてしまった。


 少し、焦ってしまい。鼓動が早くなる。


「それとも。……今日の縁談は本当は嫌だったんじゃ。お父さんに言いにくいのなら私が――」

「いえ。嫌では、ありません」


 私はぶんぶんと首を振り、そう言った。お母様は何か言いたそうにしていたけれど……それ以上は言わなかった。


 私は目を瞑り。お母様に化粧をして貰い、着付けまでしてもらった。


 化粧も、着付けも。私はお母様から習った。だから、お母様の手際は私より断然良い。



「……はい。とっても綺麗になりましたよ。お母さんも思わず見蕩れてしまいました」

「ありがとう、ございま――」


 姿見を見て。私は驚いた。ああ、私の化粧ってまだまだだったんだなとか。それを思うより早く。



 ――蒼太君に見せたいと。思ってしまったから。




 目を瞑ると。あの時の感触を思い出してしまう。……柔らかな、唇の感触を。


 嫌だ。彼以外の誰かにこの姿を見られるなんて。


「――凪?」

「なんでも、ありません」


 だめだ、ここで……泣いたら。


 だめだと分かってる。


 それでも。溢れ出しそうになった。


 会いたい。彼に。見せたい。この姿を。


 ……彼の暖かな手で、撫でられたい。抱きしめられて、その暖かさを感じたい。


 もう無理だと、分かっているのに。


「な、凪……? どうされましたか?」


 目を瞑って、堪えようとしても。ぽろぽろと溢れ出てしまう。


 だめだ。早く、切り替えないと。折角して貰った化粧まで台無しに――


「えっと、えっと……凪。少し、失礼しますね」


 ふわりと。甘い香りに身を包まれた。


「お、かあ……さま?」


「……ごめんなさい。私、凪がどうして泣いているのか分からなくて。話して楽になるのなら。話してください」


 その温かさは。優しさは……いつぶりだっただろうか。


 でも、甘えてはいけない。甘える資格なんて私にはない。


 誰かに甘えるなんて、私は――



 ピンポン



 チャイムが、鳴った。まだ朝早い時間だから……これから会う人。南川さんではないはずだ。


 インターホンはこの家のあちこちにある。……その一つは、私の部屋の前にあった。


 足音が聞こえた。……多分、須坂さん。ガチャリと。玄関に繋がるインターホンを取る音が聞こえて。


「はい、東雲家使用人の須坂と申します。どちらさまで……え?」


 外から。小さな、須坂さんの声が聞こえた。



「え?」


 その声は非常に困惑していた。私はまだポロポロと零れる涙を指で押さえながら。自然と耳が外に傾いていた。









「――海以様?」







 その言葉に。私は固まってしまったのだった。

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