1-5 午前の授業

1時間目は化学だ。私は頬に氷を当てながら、化学室のドアをノックして入室した。


「2年B組の桜宮です。すみません、遅れました」


そう化学担当の先生に告げると、


「聞いています、早く席につきなさい」


とだけ言われた。生徒たちが、


「見てください、頬が腫れてますわ」

「授業に遅れるなんて、桜宮さんらしくない」


なんてコソコソ喋っているのを無視して、私は席に着いた。


「授業を再開します、ここの化学式は〜」


先生が授業を再開しみんなの視線は、黒板に戻った。私は安堵の息を漏らして、教科書とノートを開いた。遅れた分を取り返さないと、とすぐにノートを取り始めた。半分は先生の話を聞きながら、急いで遅れた分のノートを書いていく。何人かが当てられたが、私の席まで回ってこなかったので安心した。授業はあと20分で終わろうとしていた。


「では、皆さん。問題を解いて隣の人と答えを合わせてください。」


と、先生が指示をした。みんな一斉に近くの人と喋り出した。が、私は黙々と与えられた問題を解いた。こんな頬が腫れた状態で気軽に人に話しかけられない。そう思って断固黙って一人で問題を解いていると、光が後ろを向いて話しかけてきた。


「いろりん〜、悪化したね」


光は私の顔を見て、眉を下げている。私はそんな心配されている、という視線が嫌だった。


「そう?冷やしてるだけだけど」


そのせいで、冷たく返事してしまった。


「ガーゼがないと腫れてるのがよくわかるよ?」


それでも話しかけてくる光に、話題をずらすように私はさっきの問題の答えを聞いた。


「…光。答え何になった?」


「へ?」


光はノートを見返して、


「27だよ?」


と不安げに答えた。私はペンを動かしながら、


「私は31になったよ」


と言った。そうすると光は前を向いて計算し直している様だった。私は間違っていたのか、とため息をついた。


「では、桜宮さん。答えは?」


体が一瞬跳ね上がった。まさかここで当たるとは思ってなかった。私はお淑やかなのを取り繕って、立ち上がり答えを言った。


「31です」


「正解。引っかけ問題でしたがよく解けましたね」


そう言って先生は解説を始めた。私はノートに赤ペンで丸をつける。良かった、昨日ちゃんと予習していて。そう思いながら、先生の解説を聞いていたら、チャイムが鳴った。


「今日はここまでですね、では挨拶」


「「「ありがとうございました。」」」


そう言ってみんな頭を下げる。なんだかあっという間に感じた授業だった。まあ、30分も遅れてきたのだからしょうがないのだけれど。


「いろりん、帰ろ!」


「うん!」


光に声をかけられて、私は早々に化学室を後にした。光は私の顔色を伺うように聞いてきた。


「いろりん」


「ん?」


「立花先生に何か言われた?」


「バスケットボールが顔面直撃したら、保健室に来なさいって言われた」


「あちゃ〜、今日は当たらない事を祈ろっか……」


「うん……、それにしても」


私は後ろから聞こえてくる嬉声に苦笑いした。振り向いてわざわざ見なくてもわかる。戸神さんが女の子たちに取り巻かれてるんだろう。


「戸神さん……すごい人気だね。」


「ああ、戸神さん?だね〜!こりゃ、新たな学校の王子様が現れたね〜!今日の放課後辺り、靴箱にラブレターがどっさりなんじゃない?」


私は頷いて答えた。


「それは間違いないよ……はぁ……。」


「しかし戸神さんと一緒に暮らすとなると、色々ありそうだね〜。いろりんのお母さんはあんなだし、いろりん、本当に大丈夫なの?」


「まあ、大丈夫だよ。戸神さんだってやんちゃな人じゃないし、もしかしたらお母さんだって戸神さんの前だからって、ちゃんとするかもしれないし!」


「なるほどな〜!その可能性は確かにある!」


「そう、だから大丈夫だよ!」


そんなこんな言いながら歩いていたら、教室にあっという間についた。次の授業は教室だから、移動しなくていい。私は次の教科書を机の上に出して準備してから、光と話をしようとした。――が後ろから肩に置かれた手が、私の体を後ろに引いた。


「えっ?」


振り返ると、そこには戸神さんが立っていた。あの取り巻きの女の子達はいない。


「と、戸神さん??!!」


「さっきぶりだね、桜宮さん。」


その顔はニコニコしているけれど何故か怖い…。光も戸神さんを見て、驚いている。


「あ、どうしました?もしかして分からない場所がありました?ごめんなさい、ろくに案内もしないで……。」


「いや、それはいいんだ。そうじゃなくて、その頬、どうしたの?」


「え、あ、これは……その……。」


戸神さんは私をギラギラとした目で睨みつけているようにも感じた。


「保健室の、先生が、午前中は冷やしておきなさいって言われて、その、この有様です……。」


戸神さんは私の持っていた氷を手に取って、私の頬に優しくあてた。


「!冷たっ。」


「ちゃんと冷やしとけばよかったね、ごめん。」


あ、またあの目だ。捨てられた子犬みたいな、悲しそうな目。私に何かあった時にするその目。一体この人はどうして、どうして、


「どうして、私の事なのに、戸神さんが気にするんですか……」


戸神さんの顔が呆気に取られたように変わって、わたしは自分の考えが口から漏れてた事に気づいた。いけない、私、心配してくれてる人になんてこと言ってるの。


「ごめんなさい!いまのは、独り言です!心配…してくれてるんですよね!ありがとうございます。」


私は慌てて自分の失言を撤回した。戸神さんは氷を私の頬から離すと、ポケットから白いハンカチを出して当ててくれた。近づいた拍子に、戸神さんは私の耳に顔を寄せて囁くように話した。


「僕は、君の家族で、君の姉妹で、君の同級生で、そして君が好きだ。だから、君の事を自分の事のように心配する。それは彩葉にとっておかしい事なのかな?」


「……お、おかしい事……?」


「……彩葉の事を心配に思う人が少なからずいるって事だよ。そこの子だってそうでしょ?」


そう言うと戸神さんは私から離れて、氷をハンカチで包んだ。


「直で氷当てるの、痛くない?」


そう笑って私に氷を渡した。


「午前中は安静にね。じゃあまた後で。」


そう言って戸神さんは、後ろを振り返った。そこにはいつの間にか女の子たちが、戸神さんの席に集まっていた。戸神さんは席について女の子たちと優雅に会話を始めた。


「桜宮さんと親しいのですね。」


「うん、転入する前から少し縁があってね。」


「そうなんですの?まぁ、戸神さんとお知り合いなんて、羨ましい限りですわ。」


なんて話し声が隣からはしていた。さっきまで私と話していた筈なのに、今はもうどこか遠い人に感じる。私と話していた時はあんなにも表情が変わるのに、女の子たちの前では綺麗な顔のままだ。私がしばらく魂がぬけたような顔をしていると、光が心配して声をかけてきてくれた。


「ちょっと!?いろりん〜??大丈夫??」


「え???あ、うん!!大丈夫…。」


「戸神さんと仲良しなんだね〜!あんなに近い距離で話してるから、なんか二人だけの世界って感じ?がしたよ〜。……いろりん?大丈夫?」


「……うん、大、丈夫…。」


「全然大丈夫じゃないよ〜!!いろりんってば〜!!」


私は結局ずっと放心状態で過ごすことになった。次の授業が始まっても、私は心ここにあらずに状態だった。黒板の文字も、先生の話も、授業の内容も全然頭に入ってこない。思い出すのは戸神さんの言葉だけ。


『僕は、君の家族で、君の姉妹で、君の同級生で、そして君が好きだ。だから、君の事を自分の事のように心配する。それは彩葉にとっておかしい事なのかな?』


おかしい…事ではないと思う。私だってお母さんに何かあったら、学校も家も投げ出してでもお母さんに会いに行くし、もし光が泣いてたら自分の事にように悲しい。そう言う感情のことじゃないのだろうか。もし戸神さんに何かあったら、まあ、血を分けた姉妹なのだしそれなりには心配する…と思う。それはみんなあるはずの感情だから、おかしいなんてことはないと思う。じゃあ、戸神さんが私の事を戸神さん自身のように心配するのも、おかしいことではないはずだ。戸神さんの言葉を借りるなら、私の家族で、姉妹で、同級生なのだから。そして私の事が好きだから…。それをまだ信じることができない。戸神さんに昨日も、さっきも告白されてまだわたしはそれを信じる事ができない。不信感…かもしれない。戸神さんが私を、私なんかを好きになるわけがない。そんな考えが念頭にある。人を信じる事自体が私には出来ていないのかもしれない。お母さんだけでいい。そう思って生きてきたから。今更、恋人なんて作っても……。


「桜宮さん、体調が悪いなら保健室で休んでもいいのよ?」


「へ?」


上から声を掛けられて、意識が戻った。先生が教科書を持って、呆れた顔で私を見ている。


「熱はないみたいだけど…。本当に大丈夫?」


大丈夫です、と言う言葉が喉元まで出たのに、声にならなかった。


「ちょっと、桜宮さん?……保健委員いる?桜宮さんを保健室に…」


「あ〜!!先生!私が連れて行きます」


光がそんな事を言って、私の席に来た。


「いろりん立てる?保健室いこ?」


私は光に言われるがまま、支えてもらって立ち上がり教室を出た。



「いろりん、どうしちゃったの…?」


体がなぜか熱っていて、上手く返事が出来ない。そのうち足が重くなって、歩くのがしんどくなってくる。光に支えてもらってるのに、体は斜めなような気がする。私は壁に手を置いて、なんとか歩を進めるけれど、廊下はどこまでも長く感じた。


「いろりん?大丈夫?無理して歩かなくていいよ?」


「う…ん。だい…じょっ…」


「いろりん?いろりんっ???!!!」


視界がぐるぐるしてる。あれ、天井が見える。私、なんで………。



_______________________


「......」


「熱はありませんね。成瀬さん、桜宮さんは無理をしてそうでしたか?」


「......いえ、大丈夫って言って、特におかしい様子もなくて...」


「では何かストレスがかかることは?」


「....家庭の事で少し..昨日色々あったみたいで...」


「じゃあ原因はそれでしょう」


立花先生はそう言って、いろりんの頭に濡れたタオルを置いた。


授業中いろりんの様子がおかしくて、保健室に連れて行った。けれどその途中でいろりんは、糸が切れた様に倒れてしまった。私はすぐにいろりんを抱き抱えて、保健室に駆け込んだ。今日ほど運動していてよかったと思った日はない。抱き上げたいろりんの体は、随分と軽かったように感じた。


いろりんは今、深く眠っていて起きる気配はない。立花先生は貧血だろうと言ったけれど、私にはどうしてもそれだけじゃないように思えた。やっぱり昨日のお家のことが、いろりんに負担をかけていたんだと思う。私はいろりんの白い手にそっと触れた。


「ごめんね、いろりん…」


私は自分の情けなさに涙が出そうだった。

その時、保健室の扉が勢いよく開いた。


「立花先生、桜宮さんは…」


そう言って入ってきたのは芹沢先生だった。


「貧血ですよ、原因はストレスのようですが」


そう立花先生に言われ、芹沢先生はため息をついていろりんを見た。


「成瀬さん、倒れたのはいつぐらい?」


「あ、大体20分前ぐらいかと…」


「そう…」


三人の中で、しばらく沈黙が流れた。


「桜宮さんは今日は早退させます。午前中は保健室で休ませましょう」


「芹沢先生…」


「流石に今すぐ家に帰らせる訳には行かないでしょう。立花先生、桜宮さんをお願いできますか?」


「……わかりました。承りましょう」


立花先生はそう言って、いろりんの頭のタオルを変えた。


「あの、いろりんは……」


私がそう尋ねると、芹沢先生は安心させてくれるように微笑んだ。


「大丈夫よ、立花先生がちゃんと見守ってくれてるから。さ、成瀬さんは授業に戻りなさい。桜宮さんはちゃんとこっちで面倒見るから」


私はその言葉に安心して、


「……わかりました。いろりんのこと、よろしく願いします」


と、深く頭を下げて、保健室を後にした。


_______________________



 かちゃかちゃとなっているパソコンの音で、目が覚めた。白い天井だ。私、確か授業中に光に保健室に連れられて、それで、どうなったんだっけ。ベットの上にいるってことはここは保健室か。私、倒れでもしたのだろうか。それならどうやって保健室まで…。そう言って考えていると、ベットのカーテンが開けられた。立花先生が私をじっと見ている。


「気分はどうですか?」


「あ、はい。大分いいです…。あの、どうして私ここに…?」


「廊下で倒れたのです。成瀬さんが貴女をここへ運んできました」


そう言って立花先生は私に体温計を渡した。


「測ってください」


「あ、はい」


私は起き上がって、体温計を差し込んだ。頭には濡れたタオルが置かれていた。


「あ、測れました。37.5度です」


「…微熱ですね。桜宮さん。午前中はベットで休んでいなさい。そして気分が優れたら、自宅に帰りなさい。芹沢先生のご判断です」


「え…、あの授業は…」


「体調不良で欠席にしています。貴方は安心して休みなさい」


「あの、親には……」


「連絡しません。くれぐれも家に帰って家事なんなしないように。喉が渇いたら言いなさい」


そう言って立花先生はカーテンを閉めた。


「は、い……」


私は濡れたタオルを持ったまま、唖然としてカーテンが閉まるのを見ていた。倒れた、のか。私はもう一度ベットに横になった。光には迷惑をかけてしまった。芹沢先生や、立花先生にも。授業にも出れないし、午後は早退なんて、私何やってるんだか。


私はタオルを頭に乗せて、もう一度目を閉じた。

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