2-7 生温い泥、軽く跳ねる彼女

生温い泥の中から、目が覚めた様な気持ちだ。体中がだるくて上手く体が起き上がらない。目だけ開けて周りを見渡すと、窓から微かな朝日が漏れていた。もう日は昇っているらしい。私はゆっくりと体を起こして、ベットに座った。掛け布団が床に落ちてしまった。拾わないといけないのだが、やる気が出ない。私はベットサイドの時計を見た。


7:00


いつもより、1時間も寝坊。なのに罪悪感のひとつも沸きやしない。私って軽薄なのかな、と思いながら冷たい床に足を下ろした。


落ちた掛け布団を拾って布団を綺麗に整え、身支度をする。いつもと変わり映えない制服を身につけて、いつもと変わらず髪を三つ編みに結ぶ。鏡の前にはいつもと変わらない私がいた。見た目は変わらないなら、心なんてもっとわかるはずがないよね、なんて。私は鏡に映る平然とした顔の自分に嫌気がさした。

 

 私は呆然と昨日のことを思い返していた。


『彩葉は、僕の運命の人なんだ……。それだけ、ただ、それだけなんだ……』


私に縋り付いて、苦しむように言い出されたその言葉は、私の胸をこれでもかという程に締め付けた。

わたしを好きな理由。

運命の人だから。

そんな根拠の無い話に、私は心を揺さぶられていた。そして戸神さんの気持ちに答えられない自分が心底嫌になった。この人生の中で、人を好きになることはあれど人に好きになられたのは初めてだった。こんな自分を好きになる人なんて、いないと、そう確信していた。好きな人も、恋人もいらない。お母さんと、お父さんとあの家で過ごせればそれで良かった。それなのに、戸神さんは唐突に私の前に現れて、運命の出会いを語った。憧れていた少女漫画の王子様が、本当に現れてしまった気分だ。


 私は踏み出せずにいる。

 戸神さんとは、家族がいい。

 なら、どうして胸が痛むのか。どうして泣きたくなるのか。昨日、戸神さんの言葉に何も返せなかった私に、戸神さんを好きだとか言う資格なんてきっと――。


「どんな顔して、戸神さんに会えばいいの……」


どうしようもない悩みの声が、溢れてしまった。


 結局部屋を出る頃には、時計は7:30を指していた。朝ごはんを食べる時間もあるか分からない。庭の手入れなんて、もう諦めてる。私はまだ気だるい体を引きずって階段を下り、1階に向かった。


「あ、おはよう彩葉」


降りてきて早々、真正面から声をかけられる。この家で私に挨拶する人なんて、お母さん以外には戸神さんしか居ない。私は眩しい戸神さんの顔に、げんなりしながら、でもそれを見せないように無理に笑った。


「……おはよう、ございます。戸神さん」


「うん、おはよう彩葉」


そう言って戸神さんはテーブルの上にパンやサラダを置いた。時間はもう7:30だ。まさか、いまから朝食を食べるつもりなのか……?


「ほら、彩葉。ご飯にしよう」


私はよくわからず言われるがまま席について、手を合わせた。


「「いただきます」」


 テーブルには焼かれたパンと、ジャム二種類、夏野菜が盛り込まれたサラダが用意されていた。コップには麦茶が注がれている。私は戸神さんと顔を合わせたくないがために、サラダを口にした。きゅうりは冷えてえいて、美味しい。控えめなドレッシングがまた味を引き立たせている。こんな時でもご飯が美味しいと感じるなんて、皮肉だ。私は泣きたくなる気持ちを一生懸命隠して、パンを口にした。本当に泣きたいのは、今、どうしていいかわからないのは、きっと戸神さんの方なのに、私はこの場に及んで自分の事ばかり。私は少しだけ顔を上げて、戸神さんの顔を見た。戸神さんはなんてことない、普通の顔をしている。昨日の泣きそうな、弱々しい姿が嘘の様である。その視線に気づいたのか、戸神さんが私を見た。


「昨日は眠れた?」


戸神さんはパンを口にしながら尋ねてきた。


「……はい」


そのまま会話が終わる。戸神さんはあの甘いコーヒを飲んでいる様だった。微かにコーヒーの苦い匂いが鼻をくすぐる。


「彩葉」


「……はい」


戸神さんは優しく笑っていた。


「今日はゆっくり学校に行こう。8時半につけば良いんだからさ」


戸神さんの声は、耳障りがいい。私はそのまま目を閉じてしまいそうな感覚に襲われながら、こくりと頷いた。そうして贖罪の意識が、急に私を襲う。私は、私のためにここまでしてくれる戸神さんに、とても謝りたくなった。意識とは別に、口が開く。


「戸神さん、私、ごめんなさ……「彩葉」


優しくなだめられる様な声で、静止された。


「今は、言わないで。後で聞くから。お願い、ね」


そう言って笑う戸神さんに私は、何も言うことが出来なかった。また、静かにこくりと頷く。


 優しい泥沼に、足が浸かって身動きが取れない。

 優しい言葉に甘やかされて、私は体ごと落ちて立てなくなりそうだ。

____________________

 戸神さんはドアの鍵を閉めて、階段を降りた。手入れしていないせいか、庭の花たちはしおれている様な気がする。心の中でごめんね、と謝った。帰ってきてからちゃんとお世話するからね、と。戸神さんは私のところに来て、


「さ、行こう」


と言って道を歩き始めた。私は返事もしないで、その後を追った。


 いつもはもっと早く出ているからなのか、静かな住宅街も少しだけ騒がしく思えた。ゴミを出す主婦の人や犬の散歩に出ているすれ違った。みんな気さくな人で、私達に「あら、白草の学生さん。頑張ってね」と声をかけてくれた人もいた。私達はそんな住宅街を歩き続けた。戸神さんは相変わらず私の数歩先を歩いている。私はその後ろを一生懸命追いかけた。


「それで、?」


戸神さんが振り返らずに話しかけてきた。ただ淡々と歩き続けている。私は聞き間違いかと思い、すぐに反応できなかった。


「それで、彩葉の話したかったことって、何?」


どうやら聞き間違いではなかったらしい。戸神さんは私を待たずにそのまま歩いて行った。私はずっと追いかけながら、その質問に答えた。


「あ、えっと、その……」


「いいよ、なんでも言って」


戸神さんの歩くスピードが速くなっていく。私の足も早足になっていく。住宅街を抜けて大通りに出ても、戸神さんは真っ直ぐに歩いて行った。私は戸神さんに届くように声を張り上げて、告げた。


「やっぱり、今は、戸神さんの気持ちには、答えられません……その、運命の人だって言う、戸神さんの気持ちも分かりますけど……」


戸神さんは信号の前で足を止めた。信号は赤だ。いつもより交通量が多いように感じる。私はその数歩後ろで止まり、返事を待った。戸神さんは、やっぱり私を見なかった。前だけを見ている。それは、私と話すのを拒んでいる様にも感じた。私は怯んでしまって、戸神さんの隣に立てずにいた。戸神さん、と呼びかけることも躊躇われた。すると、戸神さんはゆっくりと後ろを振り返った。長い髪が、体の動きに合わせて揺れる。私はその姿に、美しさを感じた。どんなところにいても、何をしていても、戸神さんは美しい。私の前に姿を現した日と同じ、美しいままの彼女。戸神さんは私をじっと見て、刹那げに笑った。


「……いいよ、今はそれで」


微かな声は、信号の音にかき消された。信号が青になる。戸神さんは言い終わると、すぐに振り返って信号を渡り始めた、その足は軽々しい。白いラインだけを飛んで渡る様にして、戸神さんはどんどん信号を渡っていった。私はそれをただ呆然と見ていた。周りの人は信号を渡らない私を不審に見ている。信号を渡り終わった戸神さんはまた私を振り返って、驚いた顔をした。口がぱくぱくと動いている。多分、私の名前を呼んでいるような気がした。信号が赤になって、また車が通り始める。私は戸神さんの言葉が、ずっとこだまして頭の中に響いていた。


「今はそれで、いいなんて……」


信号の先にいる戸神さんは、私に構わず前を向いて歩き出していった。どんどん距離ができて、戸神さんが離れていく。私はその姿に思わず手を伸ばしていた。私を置いていかないで……、そんな感情が心に浮かぶ。私は遠くなる背中に、立ち止まって欲しい一心で叫んだ。


「……っ!!戸神さんっっ!!!!!」


私の足は、戸神さんを追いかけて動き出した。

____________________

「ねえ、桜宮さん。どうして、あんなことしたの?」


 芹沢先生が俯く私を心配そうに見ている。私は声が出なくて、ただ震えていた。背中にそっと、手を置かれる。


「昨日から少し体調が悪そうで……、家事を頑張りすぎたのかもしれません。今日は僕が責任を持って様子を見ていますから、もう良いですか?」


戸神さんが芹沢先生にそう告げた。芹沢先生は困ったように私を見た後、ため息を吐いて


「そうね、戸神さん。お願いして良いかしら?」


と、戸神さんにお願いした。


「はい、責任持って見ていますから」


そう言って戸神さんは答えた。芹沢先生はまた、私を見て声をかけた。


「桜宮さん、いい?あんな事、もうしてはいけませんよ?」


私はゆっくりと頷いた。芹沢先生はまたため息を吐いて、「ホームルームが始まるから、教室に戻りなさいね」と言った。戸神さんは私の背中を押して、


「芹沢先生、失礼しました」


そのまま生徒指導室を出た。私は戸神さんに押されるがまま、廊下に出る。足がもつれそうになるのを気をつけながら、私は数歩歩いた。戸神さんはドアを閉めると、私の腕を引っ張って何処かに向かった。


「あの、戸神さ……」


聞こえるか聞こえないかの声で呼びかけても、戸神さんはどんどん進んで行くだけだ。私は諦めて、項垂れるしか出来なかった。戸神さんは女子トイレの扉を開いて、私を奥に引き込んだ。私は鏡に背を向けて立つ。戸神さんはゆっくりと扉を閉めた。4階の生徒指導室があるここは、生徒は基本誰も来ない。あの小鳥のような話し声もここには届かない。静寂が空気を包んでいた。戸神さんとの間で沈黙が流れる。戸神さんはゆっくりと私に近づいて、口を開いた。


「どうして、あんなことしたの?」


私は口をつぐみ、ただ顔を俯けただけだった。


「彩葉、答えて」


戸神さんの強い声がトイレに響く。私はまただ、と思った。足元に生温い泥が浸かっている。私が何かしようとすると、体に張り付いて動きを止めてしまう。今日の朝と、同じ感触。見えない泥が私に張り付く。ああ、とても、嫌な気持ちだ……。


「ねえ、彩葉っ。どうして、どうして赤の信号なんかに飛び出したんだ!」


戸神さんが声を荒げて、私に問うた。その声で意識が引き戻された。そういえば、と私は何故自分がここにいるのかを思い返した。


 朝、戸神さんと登校して何か色々話をしていた様な気がする。それで、戸神さんが何か言って、信号を先に渡った戸神さんを追いかけて、そう、赤の信号に飛び出したんだっけ。それで周りの人に抑えられて、事なきを得た……。それを白草の警備員さんが見ていて、芹沢先生に連絡されて、確か生徒指導室に連れて来られたんだ。だから、こんなに責められてるのか。私はゆっくりと顔を上げた。戸神さんは怒っているんだか、よくわからない顔をしていた。


「どうして、飛び出した……」


戸神さんの言った言葉を復唱して、自分の頭で考えた、何故、飛び出したのか。それは、そう。あの時、戸神さんは軽い足取りで信号を渡ったから。それがあまりにも軽すぎて、そのまま私を置いて過ぎ去ってしまいそうだったから。そうして渡り切った後も、私を置いて行ってしまったから。泥に足をとられた私を置いて。私はなんとか声を絞り出した。


「だって戸神さんが、どこか遠くに行っちゃうって、私を置いて歩いていくから、怖くなって……」


私はそのまま言葉を遮るようにして、顔を手で覆った。言ってはいけない、こんな困らせるような事を言ってはいけないのに、口から溢れてしまう。

遮った手の隙間から言葉が、溢れ落ちた。


「……置いていかないで、戸神さん」


その声はトイレに響くこともなく、下に落ちた。それが戸神さんに届いたのかさえわからない。私はこれ以上言葉が溢れないように、そのまま座り込んでうずくまった。


「違う……、私、こんな事言いたかったんじゃ……」


それでも言葉は溢れて、伝わることもなく落ちていく。私は自分の震える体を抱きしめた。こんな所にいるせいか、クーラーに当たったせいか体が冷たく冷えてしまったように感じる。怖い。何もかもが恐ろしい。例えば戸神さんが、今私をどう見ているのかとか。戸神さんがここからいなくなってしまうとか。息が詰まって、そのまま止まりそうだ。


そっと、温かい手が私の体を包んだ。

そのままゆっくり抱き寄せられる。

耳元で優しい声が聞こえた。


「置いて行ってごめんね、先に行ってごめんね。もう、どこにもいかないよ。彩葉の側にいるから」


その言葉はどこまでも深く、私の心に落ちていった。

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