2-8 軽快なステップ
結局私は一日、なんやかんやで戸神さんに守られていた。トイレでなんとか落ち着きを取り戻し、教室でホームルームを受けた。その後普通の授業もあれば移動教室もあったが、その度に戸神さんは私の横についていてくれた。その距離は手が何度も触れてしまうほど近かったけど、戸神さんがそれ以上私から離れることはなかった。歩幅も合わせて、時には背中を支えてくれる事もあった。何度も名前を呼んでくれて、何度も心配してくれた。その優しさのおかげで、放課後には私は平穏を取り戻していた。
「じゃあいろりん、お大事にね」
そう言って部活に行った光を私は見送った。教室は珍しく私と戸神さんしか残っていない。戸神さんも帰る準備を済ませたようで、
「彩葉、帰れそう?それとももう少しいる?」
と、尋ねてきた。私は笑顔で、
「いえ、もう帰りましょう」
と答えた。戸神さんは笑って頷いて
「わかった、昨日は帰るの遅くなっちゃったしね」
と心なしか嬉しそうだった。私もその姿を微笑ましく感じながら、鞄を持って教室を出た。
校舎からは吹奏楽部であろう楽器の音が聞こえた。中庭では演劇部が発声練習をしている。私達はそれを見ながら、ゆっくりと廊下を歩いた。
「そういえば今日は部活、よかったの?」
戸神さんが不思議そうに私に尋ねた。
「ああ、本当はあったんですけど、部長が芹沢先生から話を聞いたみたいで、今日は休んでいいって芹沢先生が言ってました」
そう答えると、戸神さんはまた首を傾げた。
「そういえば、桜宮さんって何部だったっけ?」
そういえば、戸神さんには言っていなかった。
「生物部です。生き物とか、飼育してるとこです」
そう言うと、戸神さんは何かに思い当たるように頷いた。
「ああ!文化部のひとつだよね、誰かから聞いたよ。例えば何を飼育してるの?」
「そうですね……、生き物は魚ぐらいですかね。今は植物メインなんです。あ、ほら庭園のお世話とか!」
「なるほど、あれって生物部が育ててるんだ」
「はい、あんまり知られてないんですけどね」
戸神さんは部活の話を楽しそうに聞いてくれた。私もその反応が嬉しくて、気分が少し良くなった。そんな雑談をしながら階段を降りて、私達は一階を歩いていた。戸神さんはなんの部活に入るのか、という話で盛り上がって靴箱に向かっていた時だった。
「あら、戸神さんに桜宮さんではないですか!」
後ろから弾んだ可愛らしい声がした。思わず二人して振り向くと、そこには綾小路さんが立っていた。
「今日はもうお帰りなの?」
私が答える前に、戸神さんはすかさず口を開いた。
「ええ、今日は予定がないのでね。」
すると綾小路さんはじろりと私を見た。
「そう。あ、そういえば桜宮さん、昨日の薔薇は飾ってくれているかしら?」
私はなんて説明しようか迷った。戸神さんが
風に流してしまったなんて言えやしない。困っていると、戸神さんが答えてくれた。
「ああ、昨日の薔薇か。彩葉から見せてもらったよ。でもすぐにしおれてしまってね、失礼なのは承知で処分したんだ。折角いただいたのに、申し訳ない」
それを聞きながら、綾小路さんは肩まで伸びている髪をかき上げた。
「あら、そうだったの。まあ、でも仕方ないわ。本来は摘み取ってしまうといけないものだったし」
「……ええ、でも⦅戒め⦆と思って忘れませんよ」
「……あら、存じていたの?桜宮さんから聞いたのかしら」
「ええ、本当にいい花言葉ですね。黄色の薔薇のピースは」
綾小路さんは含み笑いをして私を見た。
「そう、ちゃんと受け取ってくださったみたいね。ありがとう、桜宮さん。ちゃんとお使いしてくれたようね」
「あ、いえ……あの薔薇はやっぱり私宛じゃ……」
「そう、本当は戸神さん宛だったのだけれど、勘がいいのね。気づかないと思ってたわ」
そう言って綾小路さんは静かに笑った。私が戸神さんに目をやると、戸神さんの目つきは穏やかではなくなっていた。
「直接言ってくれたら良かったのになあ、綾小路さんは奥手なんですね。」
そう言って戸神さんは私の肩を掴んで、抱き寄せた。
「失礼、今日は彼女が調子が悪いんだ。お話はまた今度。」
戸神さんがそのまま綾小路さんに背を向けて、立ち去ろうとした時だった。
「戸神さん、ちょっと」
その言葉に戸神さんが反射的に振り返った。いつの間にか背後には可愛く笑う戸神さんが、距離を詰めて立っていた。一体いつの間にここまで来たのか、なんて私は考えた。が、それより早く綾小路さんは戸神さんに手を伸ばした。
「髪の毛に汚れがついていますわ、綺麗な髪なのだから、大切にしないと……」
そう言って綾小路さんは髪の毛に触れると思いきや、そのまま流れるようにして、戸神さんの顔に指先で触れた。戸神さんの肩が跳ねる。
「……っっ!!!」
「きれいな顔ね、手に入らないからこそ美しいと言うけれど、貴女は箱に入れても美しいわ」
そのまま綾小路さんは戸神さんの顔に、手を添えた。
「ねぇ、今度私と遊んでくださらない?きっと楽しませてあげますわ」
戸神さん、と思い私が上を見上げると、戸神さんはその場に立ち尽くしていた。いや、体が動かない。と言った方が正しいか。戸神さんの体は小刻みに震えていて、私はそれがただ事ではないと感じた。
「遊ぶぐらい、少しぐらいしても良くてはなくて?」
綾小路さんの手が深く、戸神さんの肌に触れる。その体は震えだし、異常なほどの汗をかいている。
これはいけない、と思った。
私は綾小路さんの手首を掴んで、そのまま戸神さんから離した。綾小路さんが驚いた顔で私を見ている。こんなことをしている自分に、私も驚いているんだから仕方ない。私は何とか声を振り絞って、綾小路さんに言い放った。
「戸神さんは、遊べません!彼女は適当な事がいちばん嫌いなんですっ!」
綾小路さんはつかまれた腕を見た後に、
「…………離してくださる?」
と低い声で言った。私が「あ、ごめんなさい」と言って離すと、綾小路さんは数歩後退りをしてから
「……失礼したわ、私の落ち度ね」
と言って、そのまま去っていった。私は遠くなっていく背中をただ見つめていた……って、そうじゃない!私は隣の戸神さんに声をかけた。
「大丈夫ですか?戸神さん」
戸神さんは呼吸を荒くしていて、まだ体は震えていた。触れてはいけないような気がして、どうしようと考えていると、戸神さんはそのままゆっくりと歩き出した。そのまま歩いていって入ったのは1階のトイレだった。戸神さんは中に入るなり、座り込んでうずくまってしまった。
「はあっ、はあっ……っ、」
荒い呼吸が聞こえる。戸神さんは自分を落ち着かせるように、でも苦しそうに胸を掴んでいた。私はその姿に何も出来ず、ただ隣に座って見ているだけしか出来なかった。
しばらく戸神さんは苦しそうに呼吸をした後、そのままゆっくりと落ち着いた。私は背中に触るのも躊躇われ、やっぱりただ見ているだけだった。途端、戸神さんは洗面台に顔を突っ伏して、蛇口をひねって水を出し、顔を思いっきり洗った。蛇口の水が床に溢れるほど、水が出ている。途端に戸神さんの下一面は水まみれになった。しゃがんでいた私にも水滴が落ちてくる。私は急いでカバンからハンカチを出し、戸神さんの横に立った。蛇口を止めた戸神さんは、水が滴っていて長い髪の毛も濡れていた。
「あの、良かったらどうぞ……」
そう言って差し出したハンカチを戸神さんは、
「ごめん、ありがとう」
と言って受け取った。戸神さんはハンカチを顔に押し付けて、擦るようにして顔を拭いた。そんな拭き方したら肌が荒れます、と言いたかったけれどその一心不乱な姿に私は何も言えなかった。しばらくそうしていると、戸神さんは髪をかきあげて私を見た。
「ごめん、彩葉。情けない所、見せたね」
そう言って笑った戸神さんの顔は、王子様みたいだった。こんな時までそんな顔しなくても、と思いながら私はそれに答えるように笑い返して、
「いいんです、お互い支え合いです。今日の朝、私を助けてくれたお礼です」
と言った。戸神さんは髪を手ぐしで整えていた。長い髪がバラバラに散乱している。背中に散らばった髪を、まとめようとして後れ毛が出ている。私がその髪に触れようとした時と、戸神さんが声を出したのは同時だった。
「駄目なんだ、人に触られるの」
私はその言葉に手が止まった。指先で髪が揺れている。私はその言葉にゆっくりと聞き返した。
「そう、なんですか……?」
「うん」
戸神さんは髪の毛を前にまとめるて、手ぐしで髪を梳かしていた。私は触れようとした手を、そのまま下ろした。
「小さい頃に色々あってね、潔癖症?なのかな。多分それ、わかんないけど」
私はそれで思い当たるところがあった。戸神さんの手を見る。やっぱり、そうだ。
「じゃあいつも手袋をしていたのって……」
「うん、触れないんだ。自分の体しか、ね」
戸神さんは私の家に来た日から、今日までずっと、黒い革の手袋をしていた。いつも少しだけ不思議だった。もしかしてオシャレなのかな、と思っていたけれど……。
戸神さんは髪の手入れが終わったのか、髪を後ろにばらした。サラサラの長い髪が、背中にパラパラと落ちた。その髪の動き一つでさえ、人を魅了してしまう様だった。戸神さんは顔だけ後ろを向いて、私を見た。その顔は王子様のままだった。
「本当はもっと早く言うべきだったよね、ごめん」
そう言って戸神さんは手袋に手をかけた。
「一番ダメなのは肌に直接触られる事。手袋さえしていればある程度は触れるけど、やっぱり苦手かな」
そう言いながら戸神さんは右手の手袋を外した。中から、白くて指の長い綺麗な手が現れる。私は戸神さんの一連の動作に心を奪われていた。戸神さんは私の方を向いて、白い手をこちらに伸ばした。
「手を、出してもらってもいい?」
「え?……あ!はい」
私は言われるがまま、戸神さんの方に手を差し伸ばした。戸神さんはその白い手で、私の手のひらに触れた。
「戸神さん……!?大丈夫、なんですか!?」
戸神さんは私の手のひらに手を置いたまま、私に微笑んで見せた。
「不思議なんだ。彩葉にだけは触れられる」
「え……」
戸神さんは少し柔らかい表情をした。
「自分から人に触るなんて絶対に出来なかった。だけど彩葉になら触れられる気がして、そうしたら大丈夫だったんだ」
白い手は次第に震え出した。戸神さんは痛みを我慢しているような顔をしていて、私から手を離した。
「ごめん、手袋してたら触れたから素手でも触れるかと思ったけどダメだった」
戸神さんはハンカチで手を拭いた。
「彩葉が汚いとかじゃないからね、ただ試してみたかったんだ。彩葉には唯一触れられたから」
少し残念そうにして、戸神さんはまた右手に手袋をつけた。黒の手袋が、白の手に映える。
「……綾小路さんのおかげでバレちゃったからね、それに家族だから、話したけど。迷惑、だったかな……」
手袋をはめて笑う戸神さんは、困ったように笑っていた。私はすぐにそれを否定した。
「そんなこと、ありません。辛い事なのに、それを話してくれて、私は嬉しいです。」
そう言うと、戸神さんは嬉しそうに笑った。
「うん、ありがとう」
___________________
「さて、彩葉が信号に飛び出さない様に見張っとかないとね」
学院の校門をくぐり大通りに出たところで、戸神さんはそんなことを言いながらあの王子様スマイルで笑った。
「もう、あんな事しませんから!」
そう反論しても、戸神さんは笑うだけだった。
「ははは、信用できないなあ」
そう言って、戸神さんは私の手を救いあげた。おのずと手を繋ぐ形になる。
「ちょっ、……大丈夫なんですか。人に触れないんでしょう?」
「彩葉なら大丈夫だって言ったじゃない」
戸神さんはケロッとして、私の手を強く掴んだ。革の手袋越しでは体温は伝わってこないけれど、私はなんとなく別の暖かさを感じていた。
信号の前に立って、青になるのを待つ。相変わらず車が多く、私たちの前を走っていった。私は胸に引っかかってることを、口にした。
「あの、戸神さん。気になったことがあるんですけど……」
戸神さんは私の方を見て、頷いた。
「うん、何?」
私は大きく息を吸って。声を出した。
「私、戸神さんに触ってしまう事、ありましたよね……。その時、もしかして体調悪くなってたりしたのかなって……」
そう言うと、戸神さんは考えるようにして上を見上げた。
「……うーん、まあ、正直に言うとドキドキはしてた。けど彩葉がそうして触れてくれたから、僕も彩葉に触れられるようになったのかもしれない。だから、今は感謝してるよ」
「感謝、ですか?」
戸神さんは嬉しそうに笑って見せた。
「うん、少しだけ人に触れたいって思えたから」
車が信号で止まり、青になった。
「行こう、彩葉」
そう言って戸神さんは大きく一歩を踏み出した。私の体はその手に引かれた。
「大丈夫だよ、もう置いていったりしないから」
そう言って私の前を行く戸神さんは、どこまでも素敵で、目を疑うほどに王子様だった。まるで舞踏会の真ん中で、ダンスを誘われて手を引かれているような、そんな気持ち。戸神さんはダンスを踊るような軽快さで、歩いて行く。でも、決して私の手を離さない。私は、その軽々しさに惚れ惚れした。
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