1-4 転校生
私は顔の怪我の視線を感じながら、急足で教室に向かった。2年B組の引き戸を開けて入室すると、冷たいクーラーの風が吹き抜けてきた。す、涼しい…。今日も外は暑かったから、クーラーの涼しさは極楽に感じる。本当に夏はクーラーとアイスに限る。私は文明の進化に感謝しながら、自分の席に向かった。私の席は教室の端っこ、窓側の一番後ろだ。私はカバンを下ろして、席に座った。そして、前の席に座っている少女に声をかけた。
「おはよう、光。」
そう言って肩を叩くと、その少女は振り返って私を見た。
「おはよう、いろりん!」
彼女は私の友人、成瀬 光だ。学院内で出会った友達で私の親友だ。この子も中々のお嬢様で、勿論寮生である。明るく元気な子で、スポーツが得意。私が唯一色々相談できる人で、なんでも話すことができる。光は私の方をじっくりと見ながら、なぜかワクワクとしていた。
「何?なんでそんな楽しそうなの?」
「だっていろりん、みんな見てたよ〜!誰、あの美少女は!」
「あ、光も見てたの?」
「朝からあれだけ目立ってたらね〜!!」
光は身を乗り出して、私の言うことを待っているようだった。私はため息をついて、光に話をした。
「その話をするには、話すことが多すぎるんだよ…。」
「へえ、なになに?」
「まあちょっと言えないこともあるんだけど、あの人とはまあ、親戚みたいな関係なの。実は昨日親が離婚してることがわかってさあ…。」
「はえ〜!!!ついにそこまでいったか…。でもそれとあの美少女がなんの関係があるの?」
「それが昨日お母さんがその子を連れてきてさ…、まあ家に転がり込んできたって感じ?」
「修羅場じゃん、どうしたのそれ?」
「お母さんはそのまま再婚相手の所に行っちゃって、仕方ないからご飯一緒に食べた。」
「それはお疲れ様いろりん…。昨日はお母さんと一緒のご飯食べれるってあんなに喜んでたのに…。」
「まあ仕方ないよ、ご飯は無駄にならなかったし結果オーライってところじゃない?。」
「そっかあ、じゃあその顔の怪我も?」
私は頬に手を当てた。まだ少しだけ晴れていて、少しだけ痛む。
「いや、これは朝、ね。機嫌損ねちゃったの。それは私が悪いんだけど、その、彼女、戸神さんの前で叩かれちゃって…流石にまいったよ。」
「それは……いろりん、また芹沢先生に呼ばれるよ?」
「もう呼ばれたよ、また言い訳しなきゃ……。」
そう言って呆れたように笑うと、光は私の頭に手を置いて、優しく撫でてきた。
「よく頑張りました、いろりん。」
そう言って光はニコニコと笑った。私はその感覚がとても心地よかった。この感覚が好きなのだ。例えばお母さんを怒らせてしまった時、一人でご飯を食べた時、泣いた時、いつもこうやって光は私の頭を撫でてくれる。私が唯一安心できる手だ。私を叩かない、手。そんなこんなで光と話していると、時間はあっという間に過ぎた。いつの間にか時計は8時30分を指していて、担任の芹沢先生が教室に入ってきた。
「はい、みなさん。席について下さい。」
皆が席に座り、光も前を向き直った。私もカバンを机にかけて前を向く。
「では、皆さん。朝礼を始めます。」
芹沢先生はそう言って教卓に立った。
「皆さん、おはようございます。今日は暑いですね、皆さん体調は大丈夫でしょうか?」
そう言うと皆はそれぞれ頷いた。それを確認し芹沢先生は今日の連絡をした。暑くても格好を乱さないこととか、四時間目の体育は水分補給を忘れないこととか、そんな大したことではなかった。いつも通りだ。芹沢先生は連絡事項を言い終わると、
「では最後。今日、転入生が入ってきます。」
と言ってドアの外に「戸神さん、入室してください」と声をかけた。引き戸が開けられた瞬間、教室から歓声にも似た声が上がった。
「はい、皆さん。静かにして。戸神さん自己紹介を。」
教卓の横に立った戸神さんは、綺麗に笑った。
「今日から転入しました。戸神侑李です。白草女学院で学院生活が送れることを嬉しく思います。よろしくお願いします。」
そう言って戸神さんは軽く一礼した。教室は興奮にも似た空気が漂っている。
「皆さん、仲良くしてくださいね。では戸神さん、桜宮さんの隣に座ってください。」
戸神さんはバッチリ私を見て、笑っていた。みんなの注目がまたしても私に降りかかる。…家も一緒で、通学路も一緒でどうして席まで隣なんだ…。私は芹沢先生に抗議したくなる気持ちを喉元でぐっと抑えて、黙り込んだ。戸神さんが私の隣に座る。みんなの視線が痛い…。反面、戸神さんの表情は心なしか嬉しそうだった。何をそんなに笑っているんですかと聞く方が恐ろしい。私は自分でも自覚するぐらい頬を引き攣らせて、笑った。白草女学生たるもの、笑顔ぐらい作れなくてどうする。
「では、朝礼を終わります。一時間目は移動教室ですから、遅れないように。」
芹沢先生が学級日誌をパタンと閉じ、朝礼は終わった。みんながザワザワとしている中、私は立ち上がって光に声をかけた。
「行ってくるね、遅れそうだったら先行ってて。」
「いろりん本当に呼び出されてるの!?ついて行かなくていい??」
「大丈夫、大丈夫。」
そう言って私は教室を出た。戸神さんの席は、早速女の子達に囲まれて賑やかだった。
ヒソヒソと噂されている声を聞かないふりをして廊下を足速に歩いて、私は4階の生徒指導室に向かった。人気のないフロアなので、生徒はほとんど見当たらない。勿論だが廊下はクーラーがないので、じんわりと汗をかいてしまう。私は制服が体に張り付く心地悪さを感じながら、生徒指導室の前に立った。一息ついてから、ドアをノックした。
「はい、どうぞ。」
私は引き戸を開けた。静まり返った部屋の真ん中に、芹沢先生は座っていた。
「失礼します。2年B組の桜宮です。」
私は一礼してから入室した。生徒指導室には芹沢先生しかいない、というか今まで見てきて芹沢先生以外がいたのを私は見た事がない。芹沢先生の前に立つと、芹沢先生は困ったように私を見た。
「桜宮さん、もうわかってますね?それは今日されたの?それとも昨日?」
「今日の朝です…でも大した怪我じゃないんです。だから大丈夫です。」
「…そう言われても、ね?」
「勿論生徒の皆さんを驚かせてしまっている事は重々承知しています。でも今日だけです。」
「……。」
芹沢先生はやはり困った様に私を見ていた。そして重々しく口を開いた。
「桜宮さん、今からでもいいのよ。寮に入らない?桜宮さんの成績なら減額もできるし、お母さんの事も気にしなくていいのよ?少なくとも叩かれることなんてないわ。」
私は考える事もなく、即答した。
「いいえ、ありがたいお話ではありますが、受けられません。母は私がいないと大変ですし、私も母の元から離れたくはありませんから…。」
私はもう数回目になるこの誘いを、今回もはっきりと断った。前々から減額するから寮に入らないかと言う話を貰っている。そうしたら怪我もしなくていいし、もっと勉学にも集中できるからと。でも私は断り続けている。どう考えても、私はお母さんの元を離れるなど考えられない。私がいなくなったら誰がお母さんの面倒を見るんだ、いや、今はきっと再婚相手さんに払ってもらって家政婦でも雇うかもしれない、でも私が嫌なのだ。お父さんと、お母さんの優しい思い出が残るあの家を失いたくなはい。もし私があの家を出たら、私は永遠に帰る場所を失う。それだけは避けたい。だってなんだかんだまだお母さんは私を必要としてくれている。だから、私がいなくなる訳には行かない。お母さんが必要としてくれるまでは。………そんな事芹沢先生に言える訳がない。私は喉元まで出た言葉を飲み込んで、もう一度はっきりと断った。
「そのお話は受けれません。」
芹沢先生は私の意志の強さに参ったのか、肩をすくめた。
「桜宮さん、気持ちが変わったらいつでも言ったちょうだい。」
そう言って芹沢先生は笑った。
「授業に行く前に、保健室で頬を冷やしてもらいなさい。先生には私から連絡するから。」
「お気遣い、ありがとうございます。」
そう言って私は生徒指導室を出た。ふと窓の外を見ると、移動教室に向かっている戸神さんとそれを囲んでいる数人の女の子達が見えた。流石戸神さんと言うべきか、流石は美しいものに目がない女の子達と言ったところか。あんな人と同居しているなんて、今だに信じられない。おまけに好きだとか言われていることなんて。なんだか悪夢のような良い夢なのかよくわからない、不思議な気分だ。こんなの上手くやっていける自信がない。いや、上手くやる以外に選択肢なんてないのだけれど。お母さんの機嫌を損ねず、戸神さんが快適と感じてくれる様な家を作る。それには私の努力と我慢が必要なのだ。成績を落して白草を退学なんてあってはいけない。勉強を頑張り過ぎて、家事をしないのもいけない。どちらも上手くこなしてきた、戸神さんが来たからってちょっと量が増えるだけだ。大丈夫、私ならやれる。ついつい考え込んでいた頭は、チャイムの音でハッとさせられた。いけない、早く保健室に行って授業に参加しなければ。私は早足で来た道を戻った。
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一旦教室に戻って教科書を取り、そのまま保健室に向かった。保健室は一階の奥の部屋にある。途中すれ違った先生に「桜宮さん、早く教室に向かいなさい。」と注意されたりしたが、曖昧に返事をした。保健室の扉を叩き、扉を開けると先生が待ち構えていた。
「桜宮さん。待っていましたよ。」
待っていたのは白草女学院で養護教諭を務める、立花先生だった。60代の女性の先生で、多分白草女学院で一番長く勤めている先生だ。赤いメガネが特徴的で、マダムな印象がある。
「芹沢先生から聞いてますよ。そこに座って。」
私は言われるがまま、椅子に腰掛けた。立花先生がガーゼや氷を持って私の正面に座った。
「桜宮さん、今月で何回目かわかっていますか?」
そう尋ねられ、私は渋々
「二回目です…。」
と答えた。立花先生は続けて、
「よろしい。ではその時なんと言ったか覚えていますか?」
と尋ねた。私は暑い以外の理由で汗をかいていた。冷や汗というやつだ。
「き、今日だけと、言いました。」
立花先生は頷いて、私をまっすぐに見た。
「桜宮さん、お母様とのお話し合いをお勧めしますよ。ガーゼを剥がしてください。」
私は言われるがまガーゼを剥がした。立花先生は私の顔をじっと観察した。
「腫れていますね、ここで10分ほど頬を冷やしてから授業に参加しなさい。」
そう言って、立花先生は私に氷を渡すとそのまま仕事に戻った。私は、
「ありがとうございます。」
とお礼を言って、氷を頬に当てた。痛いぐらい冷たい感触が頬に行き渡る。私は何度か場所を当てながら、頬を冷やした。その間今日の授業のことを考えた。特に体育。頬の怪我だけで見学する訳にもいかない。だけど今日はバスケだ。顔にボールが当たったら、治るものが治らない。私は今から心配で堪らなかった。
私は勉強はできるが、元々鈍臭いので運動は全然できない。走れば転ぶし、球技はボールにうちのめされるしでいい思い出がない。バスケもチームの役に立つ所か足手まといだ。私なりには頑張っているつもりなのだが…。現実はそう上手く行かない。私は思わずため息をこぼした。ああ、光のように運動ができたらな…。いや、せめて少しでいいから走ったら転ぶぐらいは改善したい…。光は私とは真逆でよく運動ができる。いろんな部活からオファーをもらうほどだから相当だ。よく放課後は校庭を走り回っているし。私が体育で失敗ばっかりやらかしても、フォローしてくれるし。本当に光がいるおかげで私の体育の成績はあると言っても、過言じゃない。今日もきっと光にお世話になるんだろうな…なんて思いながらため息をついた。
「桜宮さん、何か心配事でも?」
「え?」
立花先生は書類から目を離さず、仕事をしていた。
「ため息が多いですよ。」
「あ、すみません……。」
聞こえてしまっていたか、私は立花先生が不快に思ったかと思い、謝った。
「それで?何を悩んでいるのですか?」
立花先生は赤いメガネをクイッとあげて、私をじーっと見た。
「あ、いや、体育が、バスケットボールなんですけど、嫌だなぁって……。」
「運動は苦手ですか?」
「……はい、何をするにもどんくさいものですから、転んだり、ボールにぶち当たったりしちゃうんです。注意不足ですよね……。あはは、……。」
そう自傷的に笑うと立花先生は立ち上がって、私の正面に立った。
「桜宮さん、どんくさいのは体の使い方が下手なだけです。勉強と一緒です。体の動かし方を覚えれば、運動も出来るようになります。」
「は、はい……。」
「10分経ちましたから、授業に参加しなさい。これは新しい氷です。せめて午前中は冷やしておきなさい。体育は無理をしないこと。バスケットボールが顔面に直撃したら、また来なさい。」
そう言って私に新しい氷を渡した。私はそれを受け取り、古い氷を渡した。それを確認すると、立花先生は氷の処理をしてから氷袋を捨て、また仕事を始めた。
「あと30分で終わりますよ。」
「あ、はい!すみません。」
私は教科書を持って立ち上がり、一礼して出口に向かった。
「立花先生、ありがとうございました。」
そう言っても返事はなく、立花先生は書類を見ていただけだった。
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