前日譚 君だけの王子様 後編 〔完〕

 次の日に幸野先生は精神科医の先生を連れてきた。その先生とカウンセリングなどの話をして、下された診断はこうだった。


「潔癖症の疑いがありますね。」


僕はその言葉に不覚にも驚いてしまった。


「……潔癖、症……ですか?」


その精神科医の先生はこくりと頷いた。


「そもそも潔癖症は強迫性障害という病気の一部です。もちろん今回の事件もきっかけだとは思いますが、それ以前から強い不安やこだわりを感じていませんでしたか?」


 急に出てきた病名に少し理解が遅れたが、その後の質問には心当たりがあった。僕は《王子様》である事に強いこだわりがある。絶対に完璧にこなさなければならないという、こだわり。そうして、それが出来なくなるんじゃないかという、不安。


「……確かに、強いこだわりは、あったかもしれません」


そう答えると精神科医の先生はこくりと頷いた。


「きっとそのストレスも相まって、潔癖症を引き起こしたんでしょう。それはこの先カウンセリングを続けていきましょう。これは提案なのですが、触るものが汚いと思うなら、手袋をしてみてはどうですか?」


先生はそう言って黒い革の手袋を取りだした。


「あの、これは……」


「侑李さんのお父様が、オーダーメイドで作らせた手袋です。機能性は素晴らしいですよ。お父様が少しの気休めになればと……」


そう言って差し出された手袋を、僕は受け取った。


「……また来ます。もう少し検査をして、治療法を探していきましょう」


精神科医の先生はそう言い残して、部屋を去った。僕は《潔癖症》という言葉が、すんなりと胸に落ちたのを感じた。そうか、潔癖症。だから、お父様に触られた時、汚いと、感じたのか……。


 事件からは既に二週間が経っていた。幸野先生も「体に異常はない」と診断し、体は順調に回復していった。もちろん早急な処置のおかげで、妊娠の可能性もなかった。心のケアはしばらく続けていくそうで、何回かカウンセラーも受けた。事態は順調に収まっていった。

 僕自身は事件の夢を頻繁に見るようになって、うなされる日が増えた。感触や音はなかなか忘れられず、気持ち悪くて吐く日も少なくなかった。そして、物は徹底的に触れなくなった。お手伝いさんが用意した食事、整えたベット、髪のセット。全て汚いと感じるようになっていた。食事は手作りでは無いものを選んで食べ、ベットや服はもちろん髪も全て自分で整えるようになった。部屋はアルコール消毒をして、机や触るところは全て拭き、部屋には絶対に誰もいれなかった。少しでも汚いと思えば、僕は本一冊さえ素手では触れなかった。そんな時、救ってくれたのがあの手袋だった。あの黒の革の手袋は、手にとてもよく馴染んだ。薄くて、丈夫な革で使い勝手も良くなるように工夫してあった。僕はそれのおかげで、生活を続けることが出来た。物は全てアルコール消毒をしてあったが、その上に手袋をして触れば心は安心だった。そんな感じで僕は生活を、何とか生きていくことが出来た。


 そんなある日だった。


「お嬢様、ご学友の方がお見舞いにいらっしゃっていますが……」


 時計は夕方の四時を指していた。もう学校は終わった頃か。そういえばもうしばらく学校には行ってなかったからな。心配して来てくれたのかもしれない。そう考えて、僕はその子たちを客間に呼ぶように言った。


 久しぶりに外部の人と会うので、身だしなみに気合を入れた。色々言われるのは面倒くさいので制服を着て、髪の毛はしっかりとくしで整えた。鏡の前に立っていたのは、学校に行く時の変わらない僕だった。なんだか、懐かしい気持ちになる。


「よし」


僕は少し気合を入れて、部屋の扉を開けた。


 客間に行くと、既に三人の女の子達にお手伝いさんがお茶を出しているところだった。僕の姿を見るなり、女の子たちは黄色い声を上げた。


「まあ!戸神さん!」


「ああ、お嬢様。今、お茶を出していたところでした。お嬢様は何に致しますか?」


僕は客間のソファーに腰を下ろして、お手伝いさんに「ダージリンがあったら」と声をかけた。お手伝いさんは「かしこまりました」と言って、客間から出ていった。正面を見ると、女の子達は落ち着かない様子で僕を見ていた。


「あ、あの、戸神さん!私たち、戸神さんが体調崩されたって聞いて、心配でっ……」


「その、体調は大丈夫なのですか……?」


「私たち心配過ぎて、いてもたってもいられなくて……」


僕は三人の声をほぼ同時に聞いて、ゆっくりと口を開いた。


「心配かけたようで、ごめんね。今はだいぶ落ち着いているよ。家まで来てくれるなんて、嬉しいな」


 もちろん王子様仕様の台詞だ。本当は落ち着いてなんかいないし、別に家に来てくれて嬉しいとは思っていなかったけれど、仕方ない。僕は《王子様》という舞台からは、たとえ何があっても降りられないのだから。僕は口から簡単に出てくる、歯の浮くような台詞が心底嫌になって口をつぐんだ。


「いえ、そんな!心配するのは当たり前ですわ!学校の皆さんも、心配されてますのよ」


「そう!学校の王子様が消えたって!」


「戸神さんがいなくては、学校も寂しいですわ」


 その言葉に、心臓が締め付けられた。僕は所詮学校の王子様なのであって、誰も戸神 侑李を心配してくれる人はいないんだという事実に、胸が詰まった。この期に及んでもまだ、心配するのは《王子様》の事ばかり。それって、とても……。


「ねぇ、戸神さん!私たち、クッキー作ってきましたの!良かったら食べてください!」


 顔を上げると、無邪気な笑顔で女の子たちはクッキーの袋を差し出した。可愛くラッピングされており、中には様々な種類のクッキーが入っていた。明らかに、手作りである。


「……あ、ありがとう。嬉しいな、こんなものまで頂いて……」


少し声が上擦ったのがわかった。いけない、笑わないと――。


「戸神さん、また美しい姿を見せてくださいね」


「……ああ、近いうちには必ず」


 そう言って僕はソファーを立った。女の子達は不思議そうに僕を眺めている。


「失礼だけれど、もうすぐ医者が来るんだ。ここでお暇させていただくね。クッキー、ありがたくいただくよ。せっかく来てくれたのだから、せめてお茶を飲んでいってくれ」


 そう言って僕は客間を後にした。その廊下で、お茶を運んでくれていたお手伝いさんとすれ違った。


「ああお嬢様、今お茶ができまし……」


「すみません。少し気分が優れないので、先に部屋に戻ります。彼女達にはお茶を振る舞ってから、帰っていただいてください」


「そうなの、ですか?お嬢様、体調が優れないのならお医者様を……」


「いや、大丈夫です。……あとこれ、処分してもらってもいいですか?」


 僕はそう言ってお手伝いさんに、手作りクッキーを渡した。


「……良いのですか?お嬢様」


「うん、どうせ食べれないですし。少し彼女達のお話に付き合ってあげてください。病気のことは黙秘で」


「……かしこまりました、お嬢様」


 そう言ってお手伝いさんは、僕の横を通り過ぎていった。僕はそれを見送りながら、部屋に帰った。



「はあ……」


 僕は扉を閉めて、重いため息をついた。僕が学校を休もうが、しつこく⦅王子様⦆⦅王子様⦆って本当にうるさいんだな、と思った。僕は学校外でも⦅王子様⦆と呼ばれなきゃいけないのかと、嫌気がさす。お見舞いに来たとか言っているけれど、その本質は⦅王子様⦆がいない事の不安じゃないか。僕はそのままベットに横たわった。


「王子様なんて、誰かが代わりにやってくれたら、いいのにな……」


 そんな不満は、行く当てもなく消えていくだけだった。こんなこと言ってもしょうがないのは、自分でもわかっている。あの日、⦅王子様⦆になりゆく自分を自覚してしまった頃から、僕はその舞台から降りる事は許されないのだ。もしかしたら、シンデレラの王子様もそんな事を思っていたのかもしれない。この⦅立場⦆をやめて、シンデレラと恋に落ちたい、と。でも王子様だったからジンデレラと出会えたわけだし、それはそれでwin-winじゃないか。


「運命の、王子様……か」


自分で呟いた⦅運命⦆という言葉に、僕はある事を思い出した。


『だってあなたは、うんめいのひとだからっ!』


僕は記憶をたどり、あるアルバムを本棚から引っ張り出した。確か、ここに入れていたはず……。微かな記憶を頼りに、ページをめくっているとその写真が姿を現した。


「あ、これだ……」


その写真は、五歳の僕ととある女の子が写された写真だった。僕に『うんめいのひと』と言ったのは、この女の子だった。写真自体は古く、褪せているけれどその女の子の輝きは全く褪せていなかった。僕の初恋の人。僕はこの子の運命の人になろうと、決意したんだ。僕はその時、自分がしている事に疑問を持った。僕は今まで、何の為に色んな事を完璧にこなしてきたんだろう。みんなの王子様になりたいから?モテたいから?いや、違う。お父様の顔に泥を塗るから?お手伝いさんが責められるから?違う、そんな理由じゃなくて……そうもっと。


「ただ、側にいたかったんだ。僕は、この子の、運命の人にふさわしく、なりたかったんだ」


そう言った言葉は、僕の心にストンと落ちた。そうだ、僕はこの子の笑顔に惚れたんだ。キラキラして、明るくて、一番星みたいな、僕の心に光をくれた、この笑顔に。だから、この子の『うんめいのひと』になりたかったんだ。それにふさわしくなるように、全てを完璧にしたかった。そう、それが、僕が⦅王子様⦆になった由来だったんだ。どうして僕は、こんな簡単なことに今まで気づけなかったんだろう。僕の今までの努力は全て、この子の為にあったと。僕はキラキラ輝く一等星を目指して、走っていたんだ。見失っていたけれど、やっと見つけた!

僕が⦅王子様⦆である、理由!

____________________


「見て、今日もお綺麗ね。戸神さん。昨日もお一人ふられたそうよ」


「当たり前よ、戸神さんはみんなの⦅王子様なんだから⦆」


そんな声を無視して、僕は学校の門をくぐる。


 綺麗に整えた髪、アイロンで伸ばした制服、よく磨かれた靴、全て完璧である。一人の女の子が、僕の元に駆け寄ってきた。


「あ、あの、おはようございます戸神さん!その、よかったらチョコレート受け取ってもらえませんか?!」


 そう言って女の子は勢いよく箱を差し出してきた。僕は少しためらったあと、その箱を受け取った。


「ありがとう、これ手作り?こんな心のこもったプレゼント、嬉しいな」


 爽やかに笑いかけて、その子の顔を真っ直ぐ見ると、そのこは顔を赤らめた。僕はその女の子に近づいて、耳元で囁いた。


「君からの気持ちは、大事に受け取るね」


 そう言うと女の子は耳元を抑えてどこかに走っていった。周囲からは歓声に似た声が聞こえる。僕はそれをくぐり抜けて、僕は学校へと向かった。

 

 何も変わらない一日。ここに⦅戸神 侑李⦆と言う存在はひとつもないけれど、それでもいい。僕はやっと自分の一番星を見つけたから。僕は、僕を見つけてもらう為に⦅王子様⦆という舞台に立つ。そうしていつか、あの一番星が僕を見つけてくれた時に、僕があの子にとって輝いて見えるように。そのための、今。そのための、全て。いつか再会できる、その日を僕は願って。

そう、彼女だけの⦅王子様⦆になるんだ。

____________________


 コンコン、と控えめにドアがノックされた。僕はアルバムを開いたまま、思い出に耽っていた事に気がついた。扉が、恐る恐る開いた。


「あの、戸神さん。お昼ご飯、できました……」


彩葉は片付けの邪魔をしていないようか、心配そうに扉から顔だけを覗かせた。僕はアルバム

を床に置いて、立ち上がった。


「ちょうどひと段落ついた所だったんだ、お腹も空いてたし、頂こうかな」


そう言うと彩葉は、花が咲くようにふんわりと笑った。


「よかった、今日はお母さん外に食べにいっちゃったから……」


そう言って安堵する彩葉に、僕は言った。


「お母さんがいなくてもご飯は一緒に食べようって、約束したじゃない。だから、彩葉が一人でご飯を食べることはないよ」


そう言うと彩葉は少し驚いた顔をした後、「……はいっ!」と言って笑った。その笑顔は出会った頃の笑顔と変わっていない。キラキラした、一番星みたいな笑顔。僕は今、この笑顔の側にいる。星に輝きを貰っている。僕もその輝きを返せるように、頑張るんだ。まずは、家族になる所から始めよう。

 

 君を癒し、君を照らし、君を守り、君を見つめる、君だけの⦅王子様⦆になれるように。





前日譚 君だけの王子様 後編 〔完〕

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