5−12 こんな気持ちになるとは思ってなかったよね
「いや、どうしちゃったのかと思ったよ。そんなに感動したなんて……」
「すみません。驚かせてしまって……」
私はそう言いながら、ハンカチで目元を拭った。涙はもう出ていなかったけれど、私の心はなんだか枯れた花のようにシュンとしていた。
あの後、映画が終わって、戸神さんが面白かったね!と言って私を見たら、私は泣いていて、戸神さんを驚かせてしまった。戸神さんはまさか恋愛映画でそんなに泣くとは、と思ったらしく、私を気遣ってくれたままだった。そんな会話をしていれば、私達はいつの間にか映画館を出ていた。
「それにしてもいい映画だったね。彩葉と見に来れてよかった」
「はい、とてもいい映画でした。文句のつけどころなんて有りません」
そう返しながらも、私は映画館での自分の事を振り返っていた。急に思い出された出会って一ヶ月の戸神さんの事。その生活、その思い出。そうしていつか戸神さんがここを出て行く日。漠然としたまま考えた戸神さんとの将来が、私は急に不安でたまらなかった。ふと、映画の中で喧嘩していた二人を思い出す。いつか、私達にも喧嘩をしてしまう日が来るのだろうか。それは何が理由だろうか。学院の事?家の事?ほんの些細な事ならいい。それがもし、私と戸神さんの生活を揺るがすような大きな事だったら?そんな事で、私と戸神さんの意見が分かれた時、私は一体どうしたらいいのだろうか。あの映画は、とてもいい映画だったのに、何故か私と戸神さんの関係を揺らがす。そんな事は誰に理由を聞いても、きっとわからないだろう。
「でも、菜々子ちゃんは勇気あるよね」
戸神さんは歩きながら、そんな事を言った。
「……勇気ですか?」
「うん、だってさ」
その時、見上げた戸神さんの横顔は妙に大人びて見えた。
「芸能界にいるって事はさ、自分よりも綺麗な人、沢山いるわけじゃん?その中で、自分を見てって言える勇気。そんな勇気、」
きっと僕には、ないな。
その言葉が、私にとってどれほど残酷かを、戸神さんが知る由もなかった。そりゃあそうだ。それは、私の隠したい過去で、みんなに知られたくない過去で、本当は戸神さんに会った時から、実はバレているんじゃないかと、ずっと怖かった。だから、今の今まで誰にも話してこなかった。ずっと秘密にしてきたのだ。
「戸神さんなら。……戸神さんぐらいの人なら、きっと相手がアイドルだろうと女優だろうと、きっと振り向かせられますよ。絶対」
それは、そうであって欲しい願望だ。戸神さんなら、そうして欲しい。どんな場所にいても、奪い去ってほしい。そんな人であってほしい。でも、そんな願望は瞬く間に消え去ってえしまう。
「そんな、僕には無理だよ。 」
そう謙遜する戸神さんに私は、意固地になっていた。
「いや、絶対、絶対振り向かせられます。戸神さんなら」
そう、断言する私はきっと頑固だったと思う。戸神さんはそんな私に言葉を濁していた。
「んー、そっか。彩葉がそう言うなら、そう思ってもいいけど。でもさ、僕が振り向いて欲しいのは、」
そう言って戸神さんは立ち止まり、私の手を引っ張って止めた。
「彩葉だけだよ」
その声はどこまでもはっきりと、私の耳に届いた。私はこの一ヶ月で、何回こんな告白を聞いただろうか。いや、戸神さんは何回私にそう告げてくれているんだろうか。戸神さんはこんな告白をする度に、本当はドキドキしているのかもしれない。こんな平気な顔をして、本当は全然平気なんかじゃないのかもしれない。私は、私の事を好きてくれている戸神さんにどほど辛い思いをさせれば良いんだろうか。せめて、せめて私は戸神さんに自分の隠していることや過去や秘密を、言うべきなのかもしれない。幼い時のままで全ての時間が止まっている戸神さんに、私は今の私の話をしなければならない気がした。私は戸神さんが引いた手を握り返した。握り返して、歩き出した。今度は私が戸神さんの手を引いて歩き出した。
「戸神さん、今から寄りたい所ありませんか?」
「え、いや、僕はもう大丈夫だよ」
「じゃあ、このまま帰っても、良いですか?」
「うん、大丈夫」
「……じゃあ、戸神さん」
私は戸神さんの手を強く引いたまま、戸神さんの方を見て振り返った。
「少し私の話、聞いてくれませんか?」
私は伺うように、戸神さんを見た。戸神さんは何かを察したように、私を見た。そうして優しい笑顔で、こくりと頷いた。私は戸神さんの手を強く引いた。
「戸神さん、私は戸神さんに話さなきゃいけない事、沢山あるんです」
アミューズメント内の中の騒がしさで、戸神さんにその声が届いているのかわからなかった。が、私は構わず話を続けた。
「戸神さんの気持ちに、報いたいんです。今は、どうしようもないけれど、私の事を少しでも、わかって欲しいんです。少しで良いから」
どんどん、私の声が小さくなっていたような気がした。戸神さんの声が届いているか、ますますわからなかった。
「うん、聞きたいな。その話」
戸神さんの声がはっきりと聞こえた。そうだ、戸神さんはこういう人だ。私がどうせ聞こえてないだろうと、見えていないだろうと落とした物を、一個一個拾ってくれて、全部抱えてくれて、私に返してくれる。戸神さんはこういう、優しい人なんだ。
私はその言葉に「うん」と返して、そのままスタスタと歩いた。私達はエスカレーターのを使って下の階に降りて、そのままアミューズメント内を出て、広い道を出て、信号を渡って、住宅街を目指して歩いた。その間、私は話さなかった。戸神さんも何も言わなかった。ただただ、真っ直ぐな帰り道をずっと歩いて行った。
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すっかり繁華街を抜けて、私達は住宅街へと入った。蝉の声がミンミンと鳴いていた。暑くじめじめとした空気が、肌によくまとわりついた。私はここで丁度いいと思い、ゆっくりと立ち止まった。
夏の生優しい風が、私達の頬をさらっていった。
いまさら、何をはぐらかしても仕方なかった。
「戸神さん。私、昔、本当に昔、芸能界にいました」
その声は、戸神さんにはっきり届いていただろうか。私はなるべく大きな声で言ったつもりだった。
「戸神さん、言いましたよね。芸能界にいる人に、私を見てなんて言えないって、そんな勇気ないって」
私は気づけば戸神さんの手を強く握っていた。戸神さんに言うのに勇気がいるのに、私は戸神さんの手に勇気をもらっているという、不思議な状況だった。
「映画を見て、戸神さんがそんな事を言って、私はどうしようって思ってしましました。昔、ですけど、それでも、芸能界にいた事は変わりませんから。それを戸神さんに、隠しておきたくないって思ったんです」
戸神さんは真っ直ぐな視線で私を見ていた。
「戸神さんは、私がそんなのでも、まだ、好きでいてくれますか?」
私はようやく、戸神さんを真正面から見ることができた。
「戸神さん、私、不安です。戸神さんとこれからも暮らして、喧嘩して、過去も知って、怒って、泣いて、笑い合って、最後には好きになって……そんな風になれると思いますか?」
言葉が溢れてくる。
「私達は、家族になれるんでしょうか?」
手が、ぐいっと後ろに引っ張られる。次の瞬間には、誰かの胸の中にいた。いや、戸神さんの胸の中にいた。戸神さんが私の耳に顔を寄せる。
「僕の落ち度だ、不安にさせてごめん。でも、僕は彩葉がどんな過去を持っていても、ずっと好きだから。それは変わらないから」
戸神さんから、うちの柔軟剤の匂いがした。なんか、不思議だ。
「喧嘩もしよう、怒って泣いて、笑い合って、僕達は家族になれるよ、きっと。……いや、もう、本当は……」
戸神さんが大きく息を吸った。
「僕達は、どれだけ足掻いても家族だ。血が繋がってる。それは消せない。でも、心の奥からの家族に、僕はなりたい。そう思ってる。彩葉は、どう?」
戸神さんと初めて出会った日を思い出す。
「私は、」
そう、あの言葉を。
「戸神さんは言ってくれた言葉を、ずっと待っていたんです。だから、戸神さんが望むような、暖かい家庭を作りたい。その願いは、変わりません。だから……」
私は、涙の意味を、この罪悪感の正体を知った。いや、本当はもうわかっていたのだ。
「まだ、戸神さんの好きに、答えられません。それでも、いいですか?」
囁いた小さな声は、届いただろうか。ただ、ほんの一瞬の時の中で、戸神さんは
「……うん」
と、頷いたような、そんな気がしていた。
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