9−9 光より見えない夜の雨

 そうして静かな雨の中、僕は彩葉の前に立って、笑った。


「彩葉、見つけた」


 彩葉は未だ、僕がここにいるのが信じられない、といった瞳で僕を見ていた。僕はそのまま彩葉が座っているブランコの前にしゃがんで、彩葉を下から見上げた。


「彩葉、どうした?」


 なるべく優しい声で、そう尋ねる。彩葉はしばらく黙っていた。何も言わずにただ僕を眺めていた。僕はそれさえも受け入れるように、ただ黙って彩葉の言葉を待った。彩葉が何を言ってもいい。僕はちゃんとそれを受け入れられるから。そんな気持ちを込めて。彩葉はそんな僕の気持ちを感じたのか、ようやく口を開いた。


「もう、よくわからないんです。お父さんが家に来たことも、お母さんの不倫現場を見たことも、何もかも、もうよくわからないんです。……どうでもいいのかもしれません。特にお母さんのことは、今更、向き合ったってあの人はもう、変わらない」


 それは、初めての彩葉の心の変化だった。今までずっと宝物だったあの暖かい家庭が、いつか帰ってくると願うことを、彩葉は今ここで、もうやめたのだ。あのお母さんの姿を見て、お父さんの言葉を聞いて、もう帰ってくることはないことを、知ったのだ。


 僕にどうにかするだけの力があれば、僕だって今ここで何とでも言えた。でも、それを軽々しく言えないのは、僕がだからだ。僕は彩葉の新しい家族になることは出来るけれど、彩葉の元の家族を元通りにするだけの力はない。お母さんの不倫をやめさせて、祐介さんをここに引き戻して、いつか彩葉の過ごした宝物を、間違いなく再現させてあげることは出来ないのだ。僕に出来ることは、彩葉の傍にいることだけ。彩葉についてあげることだけだ。だから僕は……、


「彩葉、僕はここにいるよ」


 その瞬間、彩葉の肩が跳ねた。僕は真っ直ぐに彩葉を見て、そう告げた。


「ごめんね、彩葉。僕は彩葉の望む家庭を元通りにすることは出来ない。出来ることならそうしたいけれど、お母さんの心を取り戻すことも祐介さんをここに引き戻すことも、僕の力では出来ないんだ。ごめん」


 そう言った僕の言葉に、彩葉は首を振った。


「ううん、でもそう。大好きな彩葉の大切なもの一つも、僕は守れなかった。悔しい、かな。彩葉にしてあげられること、今でも何があるのか、ずっと探してる」


 彩葉は僕の言葉を、黙って聞いていた。


「だからさ、今から僕が彩葉にすること。出来ること。あげられるもの。……彩葉の、家族になることしか出来ないんだ」


 彩葉は、その言葉に目を見開いた。


「初めてこの家に来た時も言ったけどさ、僕は彩葉の家族になるよ。お母さんやお父さんの代わりにはなれないけれど、でもその代わり、彩葉の思い出を、一緒に作る」


 僕はそこで、ようやく彩葉の手を握れた。


「一緒にご飯を食べるし、一緒に花を植える。色んな所に行って、色んな話をして、また、彩葉がこの家を、好きになれるように、僕、頑張るから……」


 雨にしては熱すぎる雫が、ぽたぽたと落ちてきた。いや、わかっていた。これは、涙だ。雨のせいにしようとしたけれど、ごまかせやしない。これは、れっきとした涙だ。僕は今、泣いているのだ。


 彩葉が動揺して、僕の頬に触れた。


「な、んで、戸神さんが、泣くんですか……?」


「さあ、なんでかな。……僕は彩葉の昔も全部ひっくるめて好きだ。だから、それを捨てたりなんかしない。彩葉の思いも、全部ちゃんと持って、彩葉に新しい生活を、僕との新しい家族を……」


 その時、言葉を遮るようにして彩葉が僕をぎゅう、と抱きしめた。


「……もう、いいです。もういいんです、戸神さん」


 回した腕の強さを、彩葉が強める。


「戸神さんの気持ち、ちゃんとわかりましたから。私、ちゃんとわかっていますから。だから、もう……」


 そう言うと、彩葉はそのまま僕を抱きしめて、泣いた。雨の音に紛れて、かすかに泣き声が僕の耳に届いていた。でも、僕だって弱かった。彩葉が泣いているのを見て、抱きしめられないほどには弱かった。


 僕らは、雨の降りしきる公園の中でただひたすらに泣いた。この世にまるで、僕と彩葉しかいないような、そんな気持ちになってしまうぐらい、光のない暗い夜だった。

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