6−7 先輩は最後に手を振って
「蜜枝?」
ここですぐに「うん」って言えたら良かったのに。「なんですか?」って笑えたら良かったのに。泣き虫な私は、神代先輩の言葉で泣いている。こんな弱い自分は見せたくないとか、可愛くて良い後輩でいたいとか、そんなプライドはもうどこかへ飛んでいってしまっていた。今の私に出来る事は、ただ声を押し殺して泣く事
だけだ。一生懸命口に手を当てて、私は嗚咽が漏れないように、我慢する。せめて、情けない顔だけは、見せたくない。そう思えば思うほど顔を上げられなくて、神代先輩の顔が見れなかった。……でも、ここままじゃいけないんだ。ちゃんと、私は、私の義務を果たさなきゃ。
私は口から手を離した。そうして、大きく息を吸った。何回も、何回も。呼吸を整える。
「……っ、神代、先輩っ!」
私は泣き声になっているのも無視して、はっきりと声に出した。また呼吸を整える。ちゃんと伝わるように。この際、笑われたっていいんだ。それよりも、大事な事があるから。
「どうしてっ、……どうして部長は、私なんですか?」
私は神代先輩に尋ねる。弓道部のみんなが思っている事だから、私が聞かなきゃ。どうせコミュニケーションが下手な先輩だから、私が先輩の話を聞いて、みんなの誤解を解いてあげなきゃ。だから、教えて。神代先輩。どうして私を部長に選んだの?どうして、私だったの?
神代先輩は、私の頭を撫でていた手を止めて、ゆっくりと私の頭から手を離した。冷たかった手の感触が離れていく。それが、少しだけ寂しい。でも、止めたら駄目だ。だって「そのまま撫で続けて」って言えるほど、私に勇気はないから。先輩におねだりできるほど、わがままじゃないから。私は、ぐっと目を瞑った。神代先輩は、はあ、と息を吐いた。
「蜜枝は、俺が一番手塩にかけて指導した後輩だ。俺が弓道で持てることは、全部、蜜枝に教えたつもりだ」
心の中で、何それ、と笑う。ほんのちょっととしか指導してくれなかったくせに、そんな事思っていたの?
「……それだけじゃない。蜜枝は、ろくに部活にも顔を出さない部長と部員を繋いでくれた。それは、誰にでも好かれる蜜枝だから、出来たことだ。誇っていい。真面目で、努力家で、分け隔てなく人に接せる。そして誰よりも弓道が好きだ。……そんな人に、俺は部長を任せたい」
その言葉に私は思わず顔を上げてしまった。正面にいる神代先輩を見る。神代先輩は、恥ずかしそうにそっぽを向いていた。
「こんなこと、言うつもりなかったのに」
そう言って悪態をつく神代先輩は、変わらない神代先輩のままだった。私は拍子抜けしてしまっていた。どうせ、神代先輩のことだから、適当に決めたんだと思っていた。神代先輩のことだから、面倒臭いって言って「部長なんてそっちで勝手に決めればいいだろ」なんて言って匙を投げ出すんだと思っていた。なのに、そんな風にちゃんと考えてくれていたんだ。ちゃんと、部活のこと、考えていてくれていたんだ。そう思うと、私は嬉しさから、笑いが込み上がってきた。
「ふふっ、あはは……」
笑いからか、悲しみからかわからない涙が、目から溢れてくる。
「神代先輩って……、本当に、不器用ですね……ははっ……」
「お前っ……。ほんとこいつ、せっかく褒めてやったのに……」
私の言葉に神代先輩は苦言を呈して呆れている。でも、私は構わずに笑った。不器用なところも、素直な言葉が言えないところも、みんなのこと本当は心配していることも、全部わかっている。わかっているから。それが神代先輩らしすぎて、泣けて、笑えてしまう。私は溢れる涙を拭って、神代先輩の方を向いた。
「神代先輩、最後ですよ?みんなに会わなくていいんですか?何も言わなくていいんですか?……みんな、神代先輩のこと、待ってますよ」
そんなこと言って、神代先輩がホイホイついてくるとも思ってはいない。でもこれだけは、みんなの気持ちを代弁して、言っておきたかった。神代先輩は重苦しそうに、はあ、とため息をつく。そうして、私の方を真っ直ぐと見た。
「お前が、蜜枝が、分かってくれていたら、もう俺は十分だよ。大体俺は、弓道部に何もしてないしな。今更、言うことなんてない」
真剣に話す神代先輩の髪を、夏の涼しい風が揺らした。神代先輩は、いつも涼しげだ。冬に見たら、寒くなるぐらい。人にも冷たくて、みんなには避けられがちだけれど、それでも本当は心はあったかい人。私の、大好きな人。特別な人。
私はどうにか引き止めたい一心で、神代先輩に向き合った。
「神代先輩は後輩に指導してくれたじゃないですか。いつもお手本見せてくれたじゃないですか。みんなの憧れでいてくれたじゃないですか。本当に、みんなに言いたいこと、ないんですか?」
これはみんなの気持ち、そう思いながら私は捲し立てる。
「みんな、神代先輩に言いたいこと、たくさんあるんですよ?直接、引退おめでとうって言いたいんですよ?」
あ、まただ。私は涙を拭う。一生懸命手で目を擦って、涙を振り払う。
「みんな、神代先輩の事、大好きなんですよ?矢を射る所も、あの笑った顔も、意地悪いところも、不器用なところも、口悪いくせに外見だけは綺麗なところも……、全部、全部」
神代先輩は、私の話を静かに聞いている。
「……あ、もしかして意地、張っているんですか?今更って、思ってるんですか?……みんな、待っているから大丈夫ですよ。むしろ、今、帰ってこなかったら、もう私、先輩に、珈琲入れてあげませんよ?もう私、先輩の話なんか、」
「うん、でも、引退だから」
私の言葉を遮った神代先輩の声が、はっきりと耳に届く。
「……え?」
私が聞き返すと、神代先輩は笑って答えた。
「だから、今日で引退だ。だからもう、今日で終わりなんだ。待ってるとか、そんなのはない。みんなに言いたいこととかもない。別にそこに感情はないし。それにもう、お前の珈琲を飲む事はないよ。もう、お前と、あそこで話すこともない」
神代先輩が優しく微笑む。
「蜜枝」
私の名前を呼ぶ。太陽の日が差してきて、暗かった渡り廊下を照らす。神代先輩を太陽の日が照らす。ああ、眩しいな。
「今まで、ありがとうな。弓道部の事よろしく。お前と過ごす時間は、楽しかった」
そう言って神代先輩が手を上げる。上げた手をひらひらとさせて、私に背を向ける。
「いい加減泣き止めよ」
なんて言って、バイバイ、と手を振る。
「じゃあな、蜜枝」
それは、まるで明日も会うみたいで、今日が最後の別れじゃないみたいで。遠ざかっていく背中は、また明日も会えそうで、何気ない部活の別れ際みたいで。なのに、もう、今日が最後なんだ。神代先輩の背はどんどん遠ざかっていく。どんどん、私達の距離は空いていく。でも、私はその背を追いかけることはしなかった。だって、神代先輩は、もう何を言っても部室には来ないから。きっともう、帰ってこないから。あの人は、そういうところで頑固だし。その代わり私は最後の力を振り絞って、声を出した。
「先輩っ!」
その声に、神代先輩が振り向く。私を、じっと見ている。私は大きな声で、最後ぐらいちゃんと笑って、叫んだ。
「引退、おめでとうございます……二年間、ありがとうございました!!」
もう、顔も見えないぐらい遠い場所で、神代先輩は笑ったような気がした。あの、意地悪な笑顔で。人懐っこい笑顔で。
ギラギラと太陽が照りつける渡り廊下の先くを、神代先輩は行ってしまった。私はまだ抑えられない涙を、流したままだった。
「あはは、……神代先輩の、ばあか……」
そんな文句も、今からはもう、届かない。
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