6−6 だって君の笑顔は僕の幸せ
私は思わず頭を抱えてしまった。
やっと待ち侘びて、神代先輩は来たと言うのに、来たのに、とんでもない事を言い放って帰っていった。この三年間、部長までしたくせに、それなのに最後に言う言葉が、それだけか。と、言うかなんで私なんだ。どうして副部長の子じゃないんだ。なんでだって、よりにもよってこんな不甲斐ない私を、弓道部という大事な部活の部長なんかに指名しやがるんだ。
と、頭の中でいろんな事が駆け巡る。頭を抱えた私を見かねたのか、一人の先輩が私に近づいてきた。
「蜜枝さん。部長の話、神代さんから聞いていたの?」
なんて、尋ねられる。そんな訳ない。あの人が突拍子もなく言っているのだ。
「私達も、神代先輩に尋ねないと、詳しい事はわからなくて……」
そう言って困った顔をした先輩の顔を見て思った。そうだ、尋ねればいいのだ。あの説明不足な適当人間に、直接聞かなきゃ、私の腹の虫が治らない。そうと決まれば早かった。
「……っ!!」
私は、その場から勢いよく立ち上がった。先輩が驚いて私を見上げる。私は大きく息を吸った。
「あ、あの、!私、神代先輩に、聞いてきます!」
「え、?あ、ちょっ……」
私はそう宣言すると、先輩の静止を振り切って、引き戸の方へ走った。急いで靴を履いて、引き戸を思いっきり開ける。
「あ、蜜枝さん!」
なんて声を無視して、転びそうになりながら、私の足は勢いよく走り出していた。
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まだ、遠くまでは行っていないはずだ。私は神代先輩の姿を目がけて、渡り廊下をずっと走っていった。先生に見つかったら、白草女学生たるものがはしたないと、きっと怒られるだろう。でも、それでも私はどうでもよかった。今はそれよりも、神代先輩だ。
胸の中が疼いてたまらない。聞かないと、尋ねないと気が済まない。どうして最後の日にまで来てくれないのか、どうして私を部長に推薦したのか、みんなに言いたいことはないのか、弓道部はそんなに楽しくなかったのか、思い出はないのか、後輩は心配じゃないのか、私と過ごした時間はなんだったのか、せめて、私ぐらいには何か、言ってよ、先輩。ただでさえ、私と先輩の間には、大きな壁があるのに。
「ねえ……」
なんて、誰にも届かない小さな声で呟く。息は荒く、走るスピードが遅くなる。それでも、走る。足を進める。だって、そうしなきゃ。
「先輩、先輩」
そう何度も呼びかける。
「神代先輩……!」
吐き捨てるように口から出した言葉が、痛くて重い。こんなに重い感情は、抱えきれない。体が重くて、気持ちが重すぎて、もう走れないよ。なんて、悔しくて、泣き出しそうになる。こんなに後輩が呼んでるんだから、姿を表してよ。私ってそれぐらいの存在なの?神代先輩にとって、それぐらいちっぽけで、なんともなくて、どうでもいいの?神代先輩、神代先輩、神代……
「佳月先輩っ!!!!」
立ち止まって、荒れた息のままで叫ぶ。名前を声に出して呼んだのは、これが初めてだった。いつも夜、暗い部屋で呼んでいた名前。もし、私が神代先輩の同級生だったら、呼べていた名前。友達だったら、仲が良かったら、私が後輩じゃなかったら、呼べていた名前。何度も何度も呼んでみたかった、大切な名前。私の……
「何?蜜枝」
しん、と空気が静まり返ったような気がした。だって、あり得ない声がする。いないはずの、届かないはずの声がする。どうして、と、私は恐る恐る顔を上げた。白草の制服、細い体、白い手、肩まで切り揃えられた黒髪、赤い唇、キリッとした切れ目、そこそこ高い身長。それは、紛れもなく、疑いようもなく、間違いなく、神代 佳月先輩だった。目の前に、いる。私の名前を呼んでいる。私は目を見開いたまま、何も言えなかった。神代先輩はいつものように呆れた顔をして、私に話しかける。
「お前な、人の名前を大きな声で叫ぶなよな。しかも下の名前。先輩を下の名前呼びなんて、いい度胸だ」
いつもの憎まれ口。何にも変わらない。何も変わっていない神代先輩が、そこにはいた。
「神代、せんぱ……」
先輩、と言ったはずの声が消えてしまう。汗が額を伝う。ポタポタと落ちて、地面に跳ね返る。どうして、そんな今ここでばったりあったみたいな、涼しい顔できるんだ、なんて、憎たらしくなる。神代先輩は、暑そうに髪をかき上げた。
「で、何?お前、部活は?」
部活?部活はだって?頭に来て、私は大きく息を吸った。
「部活は?ですって?!神代先輩、今日、なんの日かわかってますか?引退日ですよ?!今日で引退なんですよ!何か、一言ぐらいみんなに言うことないんですか!部長として、最後ぐらい見届けようとか、引退しようとか、後輩にねぎらいの言葉とか、何にもないんですか!?」
私は感情のままに怒鳴った。今日はみんな部活引退の日なので、校庭や校舎には誰もいない。それが今はありがたかった。もし誰かいたら、きっと、喧嘩してるって思われたから。それなのに、神代先輩は、私の言葉に顔色すら変えなかった。ただ、黙って私を見ている。何も言うことすらしない。私はそれにすら怒りが湧いて、
「言いたいことあるなら、言ってください!」
なんて、また怒鳴ってしまった。神代先輩は私を見たまま、しれっとした顔をしている。
「……うん、でもさ」
神代先輩が口を開く。
「俺、部長らしいこと何もしてないし。はっきり言って俺から後輩に何か言うこともない。だから、行く必要はないんだよ。俺がいると、せっかくのさよならムードも台無しだろうし。だから、これでいいんだよ」
そう言って顔を背ける神代先輩は、なんだか寂しい顔をしていた。なんだって今、そんな顔をしてるんだ。なんだ、部長らしいことって、後輩に言うことないって、俺がいると台無しだって、そんな理由がある訳ない。これでいい訳ない。そんな理由、私が許せない。
「あ、でも……」
愕然としている私に、神代先輩はなんと笑って見せたのだ。
「蜜枝には、感謝してるよ。ありがとな、お前のおかげで部活、楽しかったよ。お前の淹れた珈琲は美味かったし」
心がブレーキをかける。
「お前は筋も通っていたし、笑っちゃうぐらい真面目だったし」
待って、それ以上は……
「俺によくなついてくれた」
言わないで……
「ありがとな」
「……っ!?」
頭に、ぽん、と感触が残る。神代先輩の冷たい手が、私の頭を撫でていた。優しく、ゆっくりと、でも、ちゃんとしっかり。
笑っている。ありがとうって言って、笑っている。こんな笑顔、見たことない。いつも意地悪そうに笑うくせに、こんな時だけ、そんな純粋に笑わないでよ。そんな風に笑わないでよ。
「……わ、たし……っ!」
目尻が熱いのを感じていた。目を開けているのに、視界が悪い。喉から漏れそうな嗚咽が、辛い。私は自分の顔に手を当てた。……泣いている。涙が、溢れている。でも、仕方ない。だって、神代先輩に会えて、急にありがとうなんて言われて、泣かない人がどこにいるの。好きな人に、ありがとうって言われて、頭撫でられて、嬉しくない人が、どこにいるの。神代先輩は私の大切な先輩で、尊敬できる人で、大切な人で、私の好きな人。そんな人が、私の目の前で笑っていて、そんなの、幸せすぎて、泣けちゃうよ。なんて思って、私は初めて嗚咽を漏らした。
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