6-5 波乱の弓道部、部長宣言

 コツコツ、という足音が聞こえて、私の体は誰よりも早く弓道部の出入り口に向かっていた。ガラスの引き戸に映る人影を確認もせずに、私は引き戸を開けていた。そうして神代先輩、と言いかけた口を、思いっきり閉じた。


「あれ、蜜枝さん。今日もお出迎え?ありがとう、いつもいつも」


「……あ。とがみ、さん。……あはは、いいんだよ」


 そこには、はにかんだ笑顔で笑う戸神さんが立っていた。私は瞬時に気持ちを切り替えて、戸神さんの言葉に答えた。貼り付けた笑顔は、バレてはいないだろうか、なんて考えながら道を開ける。戸神さんは中に入ってきて、静かに靴を脱いだ。長い髪が背中を滑り落ちていた。私はその背の先にある、引き戸の先を見た。渡り廊下には、誰もいない。人影も気配も何も。勿論神代先輩の面影もない。昔は足音でわかったのになあ、なんて考えて、私は引き戸を静かに閉めた。猛暑にしては似合わない、涼しい風が吹いていた。


 今日は部活動引退の日だ。白草女学院三年生の先輩はみんな、今日をもって部活動を引退される。それは弓道部もそうだった。今日をもって、弓道部の先輩達が引退される。それは、勿論、神代先輩もそうで、引退する訳だ。そうして、事実上は最後の部活の日なのだ。みんな、どこかお別れムードが漂っている。なのに、そんな大事な日なのに、神代先輩はまだ来ていないのだ。確かにいつも部活には顔を出さない人だが、今日は流石に違うじゃないか。今日で最後なのに、部長なのに、どうしてまだ来ないんだろう。私はその不安で胸がいっぱいだった。


 戸神さんも来たところで、副部長が困ったように眉を下げながら、みんなに声をかけた。


「皆さん、部長はまだいらっしゃっていないけれど、時間ですし、始めましょうか!そのうちきっと、いらっしゃいますから!では……」


 そう言って、神代先輩を待たず弓道部のお別れ会が始まった。


「まずは、後輩の皆さんから一人ずつお言葉をどうぞ」


 と、話は進み、一年生から先輩に向けて感謝の言葉を言っていく。私はそれをぼんやりとした気持ちで聞いていた。


「ありがとう」「お世話になりました」「先輩の射る矢が好きでした」


なんて、ありきたりの言葉が並ぶ。が、実際そんなことしか言えないのが現実だろう。だって、それ以外に何を言えるんだろうか。ただの部活の先輩と後輩なのに。ただ、それだけなのに。なのに、私の頭には、溢れんばかりの言葉が浮かんでいた。秘密の部屋、いつもの珈琲、窓から見えた青空、たわいもない話、先輩の射る矢、その美しい姿。その全部が、私に思い出として、重くのしかかる。だって、こんなにも、神代先輩のことばかり。神代先輩と過ごしたこの二年間が、今になって私の頭を埋め尽くす。あの憎まれ口が、笑い声が、鋭い目が、私を見て笑っていた優しい笑顔が。脳裏から、ずっと離れないのに。


 そんな事を考えているうちに、すぐ私の番が回ってきた。私は立ち上がって、ありきたりな言葉を並べる。


「先輩がいたから、弓道が大好きになって」


「引退は寂しいけれど、」


「どうかこの二年間を、忘れないで」


 それは、宛先を間違った手紙みたいだ。私が、一番それを伝えたかった人は、ここにはいない。どこに、いるのかもわからない。ただ、もうその人には届かないことだけが、私の胸を締めつけるから。


「先輩方、引退、おめでとうございます」


 私は、颯爽に全てを言い切ると、すぐに座り込んだ。胸につっかえた言葉が、喉から出てきそうで困った。いや、違う。これは嗚咽だ。泣きたい気持ちが、叫びたい感情が、声になりそうで、私は思わず胸を押さえた。


「蜜枝さん?大丈夫?」


「あ、うん……。なんでもないよ」


 同級生の子に心配されてしまって、私は反省して顔を上げる。そこに神代先輩がいなくても。先輩は神代先輩だけじゃない。みんなを、他の先輩もちゃんと見送らなきゃ。そう思って私は前を向く。話を聞く。今度は先輩達方の言葉だった。また、繰り返されるお礼の言葉に、耳障りが悪い。何回も同じ事を言ったからって、何が変わるわけでもないのに、なんて歪んだ事思ってみたりして。


「この部活に入って本当によかった」


 なんて先輩は言う言葉に体が跳ねる。そんな事、神代先輩は思ってくれていただろうか、なんて……。先輩達が当たり前みたいに話す言葉が全て心に刺さっていく。全てを神代先輩と比べてしまう。だって、一番近くにいたんだ。一番近くで話していたのに、どうして最後くらい来てくれなくて、最後も会えなくて。私には、神代先輩の教室に用もなく行けるぐらいの勇気はない。部活で会えなかったら、ここで会えなかったら、もう私たちは、どこでも会えないのに。


「最後くらい、来てよ。先輩」


 誰にも聞こえないように、小さくそう呟く。名前を呼んで現れるような、そんな人ではないことは、わかっているけれど。それでも呼ばずには、いられなかった。感情が。許さなかった。


 ふと、周りを見上げると、お別れの言葉はみんな言い終わってしまって、神代先輩がいない事で困っている様子だった。一人の女の子が

手を上げて尋ねる。


「先輩、部長の発表はしないんですか?」


「ああ、それは……」


 先輩が言いにくそうに顔を俯かせる。


「実は、今回誰が部長になるか、誰も神代先輩から聞いてなくて……だから、神代先輩が来てくれないと……」


 私は目から鱗だった。神代先輩はそんな大事なことも放棄しているのか。本当にあの人は、最後の最後まで何をしているんだか……。せめて、せめてみんなには迷惑をかけないでほしい。そんな事を思って、みんなと一緒になって困り顔になっていた時だった。


 ガラガラガラッ!


弓道部の引き戸が大きな音を立てて、開いた。

蒸し暑い夏の風が、射場を包み込む。揺れた制服の先に立っていたのは、みんながまちわびた、神代先輩だった。神代先輩は私達を見据えてから、扉を雑に閉めて、射場に上がった。みんな、突然の登場に何も言えずにいる。それは私も同じだった。神代先輩はドタドタと歩いてくると、進行役の子に


「お別れの言葉とか、もう終わった?」


と、颯爽と尋ねた。進行役の子はこくり、と頷く。神代先輩はそれを確認すると、


「じゃあ、部長発表だけ?」


と、また進行役の子に尋ねた。


「あ、はい!そうです」


と、進行役の子が答えると、神代先輩は私達の前に立って、口を開いた。みんなが息を飲んで見守る。


「俺の意見は、部長はみんなからの推薦で決めていい。俺は構わないから。ただ、推薦はしとく。部長推薦は、蜜枝だ。部長を蜜枝にするかどうかは、勝手にしてくれ」


神代先輩は、本当にそれだけを言うと、そのまま射場から立ち去った。引き戸をまた、ガラガラガラと開けて、制服を揺らして去っていく。台風のような表れ方をするな、と思った。


「え?」


ん?何かおかしい。今、神代先輩、なんて……。


「えーっと、部長推薦は蜜枝さんってことで……」


なんて進行役の子が、おずおずと言う。


「え?ええ?」


私は混乱した頭を抑えて、言葉を漏らす。


(わ、私が、部長?????)


なんで、と聞き返そうとしても、神代先輩はもう居ない。私はここ最近で1番大きな悲鳴をあげた。


「ええーーーーーーーー!!!!????」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る