7-12 美味しいパンケーキは何を呼ぶ?

 「僕も食べよ」


 戸神さんは私から目線を離すと、自分のパンケーキに手を伸ばした。今度は私が戸神さんを見る番だった。戸神さんはナイフとフォークを綺麗に使いこなして、パンケーキを取り分けると、そこにフォークで生クリームを掬って乗せて、追加でついてきたオレンジソースをふんだんにかけた。そうして大きく口を開けて、パンケーキを頬張った。その所作一つ一つがあまりにも綺麗で、私は完全に戸神さんに見惚れていた。戸神さんはしばらくもぐもぐとパンケーキを咀嚼すると、さっきとはまた違う笑顔で「美味しいね」と言って笑った。それは本当に、何の疑いもなく、ただ目の前のパンケーキが美味しいという無垢な笑顔と表情だった。


「美味しい、ですか?オレンジ、でしたっけ」


 私がぽつり、と言葉を投げかけると、戸神さんは私を見ておかしそうに笑った。


「彩葉が選んだんじゃん、美味しいよ?オレンジ。あ、交換する?彩葉、オレンジ食べたかったんでしょう?」


 戸神さんはそう言うと、また綺麗な所作でパンケーキを取り分けて小皿に乗せて私に渡してくれた。私は言葉を発する隙もなく、ただ小皿を受け取った。オレンジソースがかかったパンケーキは、ストロベリーよりずっと爽やかで柑橘系のさらりとした香りがした。甘ったるかったあの味も、塗り替えてしまいそうだった。私はそこで、はっとして自分のパンケーキを切って小皿に乗せて、戸神さんに渡した。


「戸神さんも、どうぞ!美味しいですよ、イチゴ」


「ありがとう。イチゴって女の子っぽくてかわいいよね。なんか憧れちゃう」


 戸神さんはそう言って受け取ると、楽しそうにイチゴのパンケーキにフォークを突き刺した。私もそれに倣って、オレンジのパンケーキを口に入れた。


オレンジの爽やかな味が、口に広がる。さっきまで甘ったるかったイチゴの味が、一掃されて柑橘系の味へと変わる。暑い夏にはぴったりの味わいだった。しつこくないこの味が、また良い。私は何度も咀嚼して、オレンジのパンケーキを味わった。正面を見ると、戸神さんもイチゴのパンケーキをもぐもぐと食べている最中だった。私は口の中にあったものを飲み込んで、戸神さんに尋ねた。


「どうですか?光チョイスのベリーストロベリーは」


 戸神さんはしばらく咀嚼した後、それをごくりと飲み込んで


「うん、美味しい」


 と、笑って見せた。


「こっちは甘ったるいね、それがいいけれど。でも夏には少し重いね。オレンジの方が好きかな。うん、いや、どちらも好きなんだけれどね」


 そう言って戸神さんはレモンティーを飲んだ。戸神さんに紅茶のカップなんて持たせると、なおさらさまになるというか、お嬢様感が増す。なんか、やっぱり白草女学院生だなぁ、と、感心してしまうところだ。戸神さんは転入生だけれど。


 戸神さんはレモンティーを置くと、私の名を呼んだ。


「彩葉」


 私はいつものように答える。


「はい、なんでしょうか?」


 そう言うと、戸神さんはまたふわりと笑った。


「好きだな、彩葉が僕の呼びかけに答えてくれるの。ちゃんと彩葉の中に、僕がいるんだぁって思える。そろそろ、彩葉も僕を呼び捨てで呼んでもいいんだよ?」


 その言葉に、私は首をぶんぶんと振った。


「いや、まだ、あの、もう少し、待っていてもらえますか?」


「いいよ、いくらでも待つ。でも、試しに聞いてみたいかもな」


 そう言って戸神さんはにこりと笑って見せた。


「ねぇ、僕の名前、呼んでほしいな。呼んでよ、彩葉」


 今度こそ、完璧な王子様スマイルだった。これは内心、戸神さんは楽しんでいるに違いない。戸神さんの王子様スマイルはかっこよくてドキリとして、胡散臭いのが付きまとうのだ。私は逃れられないなぁ、とため息をついた。


 戸神さんの名前を知らないわけではなかった。一応同級生だし、家族だし、色んな意味で名前を憶えていないのはまずいと思う。ただ、私はその名前を口にしたことがなかった。思えば私より先に色んな人が、戸神さんの名前を口にしているのを聞いたことはあるが、私は一度も呼ばなかったんだなぁ、と少し反省した。これからは、本当にたまには、特別な時には、そう、気が向いたら、呼んであげよう。その名を、


「侑李、さん」


 その名は、私が呼ぶにはあまりにも美しすぎる響きだった。本当は漢字だってちゃんと覚えているのだ。私はその名を、本当は胸の中で何度も呼んでいたのだから。

戸神さんは私の言葉を聞いて、満足そうに笑ってみせた。今度は王子様スマイルじゃない。ちゃんと年相応の笑顔だ。心のうちから湧き出てくる笑みだ。何回も見てきたはずのその笑顔は、今日はやけにキラキラして見えた。


「やっと、呼んでくれた。僕の名前が輝くのは、彩葉が呼んだ時だけだよ。ありがとう」


 戸神さんは時々、訳の分からないこと言う。でも、その言葉は戸神さんの本心で、真実で、きっと覆せない思いなのだと思う。それだけは、私にもわかる。その言葉の一つに一つには、きっと私と出会えた思い出が、喜びが、溢れ出しているのだと思う。戸神さんの10年間、私への思い。それが言葉となって、私の胸に流れてくるのだ。それが分かるから、私はやっぱり戸神さんを好きだと笑えるのだと思う。それは恋愛感情ではないけれど、戸神さんと同じ気持ちではないんだけれども、それでもいいと戸神さんが笑ってくれる今は、それでいいのだと思う。今のままで、きっと十分。


 だから私も、たまにはその気持ちに応えよう、と思う。


「はい、どうぞ」


 そう言ってパンケーキをフォークに刺して、一切れ差し出す。戸神さんは目を丸くして、パンケーキを凝視していた。


「恋人らしいじゃないですか、食べさせ合い。いつか恋人が出来たらしてみたかったんです」


 私の言葉に戸神さんの目がきらりと輝いた。


「え、彩葉っ、それってどういう……!」


「練習しておこうと思いまして。こんな場面が来た時、動揺しないでおけるように」


 そう言って私は、ぐいっ、とパンケーキを差し出した。


「早く食べないと溶けちゃいますよ?いいんですか、私が食べても」


「食べる、!」


 戸神さんは顔をゆっくりと前に動かすと、髪の毛を耳にかけて口を大きく開けた。パンケーキを見つめる細い目が、やけに色っぽい。口から出る赤い舌が、私の心をくすぐって嫌になる。戸神さんはやっぱり、どこまでも美人だしどこまでも綺麗なのだ。そんじょそこらにいる人ではない、ましてや、私と一緒に居る人でもないし。気が付けば戸神さんはパンケーキを口に含んで、もぐもぐと食べていた。その顔には、もうあの色っぽさなんてものはなかったし、いつもの戸神さんだった。


でも、やっぱり私は、私の料理を食べて美味しいと笑う戸神さんが、どこかで好きだったりするのだ。





「ごめんなさい。お金、払ってもらってしまって」


 私は隣を歩く戸神さんに何度もそう言って頭を下げた。


「いいよ、僕が好きでやったことだし」


 戸神さんはそうは言うが、私は気が済まなかった。


「でも、今日は私が誘ってしまったのに……」


 そう言い次の言葉を発しようと思った時だった。私の唇に細い指が当てられた。


「今日は彩葉からいろんなものをもらったから。これは僕のほんの少しのお返し」


 戸神さんは静かに笑って、私の唇から指を離した。


「名前も呼んでもらったしね。お金ぐらい払わないと僕の気が済まないよ」


 その瞬間、戸神さんは私の手を握って、立ち止った。そうして、唇が重なりそうなぐらいの距離で私を見つめた。繋がれた指から、何か暖かさがこみあげてくるようあだった。


「ありがとう、僕の夢を叶えてくれて」


 そう言って笑って見せた戸神さんの顔は、あまりにも……。


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