3-7 君を一番思うのは

彩葉の手を離さないと誓ってすぐに、その試練は僕らを訪れた。それは玄関の扉を開けてすぐの事だった。


「あら、おかえりなさい!侑李ちゃん、彩葉」


 お母さんが玄関で僕らを出迎えたのだ。


「……おかあ、さん。ただいま、帰りました」


僕は驚きと緊張が混じりながら、返事をした。後ろにいた彩葉の息を呑む音が聞こえる。そこに立ち尽くしているわけにもいかないので、僕たちは玄関に入って扉を閉めた。


 僕は彩葉の手を離さなかった。いや、離せなかった。今ここで離してしまったら、いけない様な気がしたのだ。僕は彩葉の手を掴んだまま、お母さんに尋ねた。


「お母さん、これから外出ですか?」


僕は笑顔を絶やさないようにした。お母さんは笑顔のまま、僕の後ろを指差した。


「そうなんだけど、彩葉に用事があるの。侑李ちゃんはお部屋に戻っていいわよ」


僕は警戒した。お母さんは何かを企んでいる……?いや、わからない。ただ単に彩葉に話があるだけかもしれないし。でも、普段の様子からしてそんなわけがなかった。でも一つ、僕は確信していた。お母さんは彩葉に手を上げる。それだけは、確信が持てた。僕は一旦、彩葉の手を離した。


「わかりました、今日は夜ご飯食べて来るんですか?」


彩葉より先に家に上がり、お母さんに尋ねる。


「ええ、だから二人で食べてね」


「……わかりました」


そう言って僕はリビングの扉を開け、部屋に戻るふりをした。扉を閉めて、その近くに身を潜めこっそりと様子を伺った。


 


瞬間、お母さんの体が揺らめいた。


「彩葉、今日の洗濯物は何?洗い物もしないで。侑李ちゃんにも家事をさせてるわよね、いったいどう言う事なの!?」


お母さんはさっきとは打って変わって、大声を上げはじめた。やっぱり、と思った。お母さんは彩葉を怒るために、僕を部屋に返したのだろう。いや、怒るためじゃない。ただの、憂さ晴らしのためだ。彩葉はまだ、何も言っていない。


「貴女がしっかりしないと、私までダメだと思われるのよ。それでもし、お父さんに見放されでもしたらどうしてくれるの!」


彩葉は何も答えない。


「まさか、学校で侑李ちゃんに迷惑かけてないでしょうね?……彩葉、答えなさい」


彩葉はやっぱり何も答えない。


「彩葉!…………何か言いなさいって、」


お母さんの腕が振り上がる影が見えた。

それは、いけない……!

僕はリビングのドアを思いっきり開けた。


「言ってるでしょっ!……っ!?」


「お、かあっ、さんっ……」


僕は危機一髪という所で、彩葉を叩こうとしたお母さんの手を掴んだ。お母さんが一気に怯む。僕は本当にヒヤヒヤした気持ちだった。


「ゆ、侑李ちゃん……、なんで……」


「戸神さん……」


お母さんは怯み、彩葉は驚いたように僕を見ていた。僕はお母さんを睨んでしまわないように注意しながら、お母さんに声をかけた。


「お母さん、一体どうしたのですか……?自分の子供に手をあげるなんて……」


そう尋ねると、お母さんは彩葉を憎そうに睨んだ。


「なんでもなにもないわ、大体彩葉は……」


「ああっ、待ってください!僕と、二人っきりで話をしましょう!……あの、彩葉。先に戻っていてくれる?」


そう彩葉に言うと、彩葉は無理に笑って見せた。


「戸神さん。そこまでしてもらわなくても、大丈夫ですよ。私とお母さんとの問題ですし……」


「彩葉に一方的に手をあげようとして、⦅二人の問題⦆だからなんてそんな話、僕は認めない」


僕は彩葉に真剣な目線を送った。


「彩葉のお母さんは僕のお母さんでもあるし、彩葉は僕の妹でもあるんだ。……一旦、ここは僕に任せてほしい」


そう言うと彩葉は考え込むような顔をして、俯いた。僕はいつ彩葉にお母さんの手が振り落とされるかが怖くて、できれば彩葉に早く逃げてほしかった。いや、逃げるなんて表現は間違っているかもしれないけれど。僕は彩葉の逃げようという気持ちや、僕に任せようという気持ちを後押しするように、はっきりと告げた。


「もし彩葉が問題を起こしても、全部僕が解決する。必ず。絶対彩葉が困る様な事にはしない。だから、僕を信じて」


それは帰宅していた途中に彩葉に告げた言葉だった。僕はそれを繰り返して告げた。彩葉は弾かれたように顔を上げて、僕をじっと見た、その目は揺れて動揺していた。僕は心の中で願った。


お願い、彩葉。僕を信じて……。


彩葉は唇を強く噛み締めた。


「戸神さん、お願いします……」


そう言って一礼して、僕とお母さんの横を通ってリビングに行ってくれた。僕は安堵の息を漏らした。


 彩葉がちゃんとリビングの扉を閉めたところで、僕はお母さんの手を離した。


「すみません……、強く、握ってしまって……」


お母さんは僕の言葉は気にも止めず、彩葉の歩いていった道筋を見ていた。腕は、ぶらりとしたにぶら下がっている。僕は意を決して、お母さんに尋ねた。


「お母さん、一体どうしたんですか……?彩葉が何かしましたか?」


そうゆっくり尋ねると、お母さんはさっき彩葉を怒鳴っていた顔とは打って変わって、ケロリとしていた。今度は僕の言葉が聞こえたらしく、首を傾げた。


「私、どうしちゃったのかしら……」


そう言うとお母さんは後悔しているように、眉を下げた。


「どうしてなのかしら、ああ、私ったら……」


そう呟いて、体を震わせた。僕はお母さんの背中を擦りながら、ゆっくりと尋ねた。


「……お母さん?一体どうして、あんな事を?」


お母さんは僕の方をじっと見て、微かに微笑んだ。


「どうしてかしらね、私も自分が分からないの」


そう言って語るお母さんは、どこか動揺していたようだった。でも、彩葉と話していた時のような、激情は感じられない。比較的、落ち着いていると思う。僕はどうか落ち着いたままでいてくれるように願いながら、口を開いた。


「彩葉に強く当たってしまうのが……、どうしてか分からないってことですか?」


そう尋ねるとお母さんはこくり、と頷いた。


「変な話よね。私もいつも、やってしまった後に気づいて後悔するのよ。彩葉と話していると、なんだかとても反発したくなって、手を出してしまうの」


そう言うと、お母さんは両手で顔を伏せた。肩を震わせて、泣いている。


「彩葉のことが、嫌いなのかって考えたんだけれど、そんな訳が無いし……、私、あの子にどうしたらいいか……」


「お母さん……」


悲しみに満ちて泣くお母さんを、僕は懸命に慰めた。そうしながら頭の中で考えた。


これは演技か……?


それとも本音か……?


お母さんが彩葉の前では本性を出して、僕の前で皮を被っている可能性はないか……?もしここで優しく許してしまえば、また彩葉を叩いていいと思うかもしれない。そんなのは許せない。そんな隙は与えさせない。僕の生い立ち上、女性の怖い部分を見ることの方が多かったのだ。女性という生き物は、紙一重だ。天使の顔と悪魔の顔を同時に持つ。だから、騙されてはいけない。そう僕の五感が囁いていた。


「彩葉が、彩葉の事は好きですか?」


嘘か本当かの糸口を探すために、質問をする。お母さんは泣きながら答えた。


「勿論よ!私の可愛い娘なのよ、嫌いな訳がないわ!私はあの子が元気でさえいれば……」


僕は頷いた。


「お母さん、彩葉が好きなんですね……?」


僕は確認するように尋ねた。お母さんは、


「当たり前だわ……」


と、また泣いてみせていた。僕は困ったな、と思った。全く糸口が見つからない。普通の神経ならこれを演技だとは思わない。娘思いの優しい母親だ。だけど、だけどもし、これが巧妙な演技だったらー?泣き落として、僕を騙そうとしていたら?それに引っかかってしまったら、被害を被るのは間違いなく彩葉なんだ。そう、それは分かっているけれど、糸口が見つからない。僕は歯がゆい思いに、思わず顔が歪んだ。なんて言えば、どうすれば嘘か本当か見える?考えろ、考えろ僕。そう思いながら、頭をフル回転させていた時だった。


「でも、侑李ちゃんが心配することじゃないのよ」


「えっ……?」


その言葉を聞いてお母さんの顔を見た。どういうことか、と勘ぐりを入れようとして、やめる。お母さんの泣いていた顔は、打って変わって優しい笑顔になっていたから。それは穏やかで天使の微笑みにも思える。


「彩葉はかわいい私の娘なんだから、しっかり話し合うわ」


どうし、たんだ――?


その顔は優しさを秘めた笑顔から、妖艶な笑みへと変貌した。甘く甘美な果物を食べて、恍惚な表情を浮かべているように。どこはかとなく感じる、色気。その目に、僕は魅了される。


この顔、どこかで……。


頭の中で記憶がフラッシュバックする。


―――――――――――――――――――

『何か……あったの?』


彩葉は背けていた顔を僕に向けて、優しく笑った。


『いえ、戸神さんが心配する事は何もないですよ』


その顔からは、異様な妖艶さが顔から滲み出ている。

―――――――――――――――――――


「それ、だ……」


僕は思い出した。今日、部活から彩葉を連れ出して話をした時に、彩葉が確かこんな顔をしていた。ああ、似ているのは親子だったからなのか。通りでどこかで見た、と思った。

 でもお母さんや彩葉はどうしてこんな顔を――?もしかして、なにかの共通点や条件があるのか?僕は必死に彩葉との会話を思い出した。


あの時、彩葉は何を話していた?誰の話を……?


――――――――――――――――――――


『でも、あんなに私を大事に思ってくれているなんて、私、感謝しなければいけないですね。少し、ほんの少しだけ、依存にも似ていますけど……』


――――――――――――――――――――


そうだ、白幸先輩の話だ。白幸先輩の様子がおかしくて、みたいな話だった。なら、お母さんは?お母さんはどんな会話をした時にあの顔をした?


――――――――――――――――――――


『彩葉はかわいい私の娘なんだから、しっかり話し合うわ』


――――――――――――――――――――

 彩葉は白幸先輩、お母さんは彩葉の話。その二人に共通点があるとすれば、生物部と言うぐらいだ。どうして彩葉は白幸先輩の、お母さんは彩葉の話をした時にあの顔をするんだ?そこになにかの共通点はないか?僕は必死に考えた。そもそもお母さんの態度が嘘か本当か分からないでいるのに……。このままじゃ、謎が増えていくだけだ……!ああ、もう、どうしたらっ……!こんな時に神代先輩がいたら、なにかわかったのかな……。


…………………………。


…………………………神代、先輩?


…………………………そうだ、神代先輩は……


『⦅オーラ⦆は同じ⦅モノ⦆を持つ者には通用しない。むしろ嫌われやすい。ほら、時々桜宮は怪我してくるじゃないか。母親に嫌われるのはそれが原因なんじゃないか?』


そうか、わかった……。


僕は神代先輩の言葉で理解した。白幸先輩は彩葉の《オーラ》に当てられていた。そうしてもし、お母さんも彩葉の《オーラ》に当てられていたとしたら?お母さんが彩葉に理由なく手を挙げてしまう理由。そうして後々後悔するのは、彩葉の《オーラ》のせいか……?もしお母さんが彩葉と同じ《オーラ》を持つなら、それは彩葉を嫌わせるだろう。なら、お母さんには嘘も本当もなかった。お母さんは彩葉の《オーラ》に当てられて、彩葉を不必要に嫌って、手を挙げてしまっていたのか。

 白幸先輩もお母さんも、彩葉の《オーラ》に当てれている。そうして彩葉とお母さんは同じ《オーラ》を持っている。つまりあの顔は、桜宮家の人間が何らかの《オーラ》を出している時にする顔なのかもしれない。

 それが分かれば、話は早い。


「お母さん」


「ん?なあに?」


お母さんは涙を拭って答えた。僕は優しく笑いかけた。


「彩葉と話をする時は、必ず僕を挟んでください。今の状態で彩葉と話をすれば、また彩葉を傷つけてしまいます。もちろん、お母さんもね?」


そう言うとお母さんは顔を曇らせた。


「でも、侑李ちゃんに迷惑かかったら……」


僕は首を振って答えた。


「いいえ、僕達はもう家族です。彩葉とお母さんの問題を、僕にも抱えさせて下さい。もう、家族なんですから!ね、だからお願いします」


僕はお母さんに詰め寄り、目をじっとみた。


「彩葉と話す時は、僕を必ず挟んでください」


お母さんはしばらく考えた素振りを見せた後、渋々こくりと頷いた。


「……わかったわ、しばらくはそうしてみましょう。また彩葉を傷つけたら、いけないものね……」


そう言ってお母さんは僕に笑いかけた。


「ありがとう、侑李ちゃん。彩葉にごめんねって伝えていてちょうだい。さあ、夜ご飯を食べてらっしゃい」


僕の背中をリビングに押し、リビングに向かわせる僕はリビングに行く前に振り返った。


「ねえ、お母さん。彩葉の事は嫌いですか?」


これだけは、確かめておきたかった。さっきは好きだと言っていたけれど、もう一度お母さんの口から聞かないと、気が済まなかった。そんな僕の気持ちもつゆ知らず、お母さんは笑って即答した。


「そんなわけないでしょう。彩葉を世界で一番愛しているわ」


「……そうですか。よかった」


それだけ言って僕はリビングの扉を開けて、お母さんの前から立ち去った。扉を閉めて、お母さんが部屋に戻ったのを確認してから、僕はポツリと言葉を落とした。


「……嘘つき」


僕は締め付けられる胸を押さえた。世界で一番愛してる?彩葉のことを?そんな馬鹿げた冗談、今更僕には通用しない。本当に愛しているなら、本気で愛しているなら、毎晩この広い家に一人ぼっちで置いて、出かけたらするわけないじゃないか。家事を全部させたりしない。ご飯を一人で食べさせたりしない。おかえりも、行ってらっしゃいも言ってあげないわけがない。確かに、彩葉に手をあげるのは⦅オーラ⦆のせいかもしれないが、それでもお母さんは彩葉を愛しているどころか、大切とさえ思っていない。行動に、態度に出ているんだ。全部。僕は扉の向こうを睨みつけた。


「彩葉を世界で一番愛してるのは、僕だ」

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