3-6 あやふやなものより、確かな僕を
「あら、戸神さん。お急ぎ?」
「うん、ごめんね」
話しかけてくれた子に、僕は雑な返事を返した。でも、それどころじゃなかった。渡り廊下を急いで歩き、生物室に向かう。弓の弦が切れ、神代先輩の「迎えに行ったほうがいい」という忠告をされ、空には怪しい雲がかかっている。僕は漠然と嫌な予感がしていた。もし、彩葉に何かあったら。そう思うと、気が気じゃなかった。
「あら、雨が降ってきましたわね」
そんな声が背後で聞こえる。僕は急ぐ足をさらに早く進めた。
ただでさえ暗かった生物室は、曇り空の影響かさらに暗く、足元が見えなくなりそうだった。僕はスピードを落として、生物室の扉の前に立った。もしここに神代先輩がいたら、何か感じていただろうか。もしそれが僕にもわかったら……。僕は頭に浮かぶ雑念を振り払った。そんな出来もしないことを、今願ってどうする。僕は僕にできる事をやるしかないんだ。そう自分に言い聞かせて、僕は生物室の扉を叩いた。
「はあい」
と、言う声を確認してから扉を開けた。中には生物部員達が変わらず部活動をしていたところだった。だが、教室中を見渡しても彩葉の姿はなかった。ついでに言うなら、白幸先輩の姿も。一人の生物部員が怪訝そうに僕を見た。
「あの、何か御用ですか?」
僕はすぐに質問した。
「すみません、桜宮さんはいらっしゃいますか?」
そう言うと、その子は教室を見渡した後に
「すみません、奥の部屋にいないか確認してきますね」
と言って、奥の部屋に向かっていった。ふと目に映ったのは熱帯魚の水槽だった。前回行った時には、誰かが面倒を見ていたのに今日は誰も居なかった。魚達は何も知らないとでも言いたげに、水を中を揺らめいて泳いでいる。
「戸神先輩、今日も見学ですか?」
数人の女の子が、僕に話しかけてきた。見た感じ、一年生といったところか。
「いいや、桜宮さんに用があってね。今、呼んでもらっているんだ」
そう答えると、女の子達は残念そうに眉を下げた。
「戸神先輩が生物部に入ってくれたらいいのに。生き物にも沢山触れられるし、楽しいですよ?」
そういって女の子達は僕を勧誘した。僕は曖昧に笑って、
「そうだな、確かに熱帯魚が毎日見られるのは素敵だね」
と返した。最初に対応してくれた女の子は、奥の部屋に行ったきり出てこない。もしかして何かあるんじゃないか、と僕は柄にもなく不安になった。
「先輩、生物部に入りませんか〜」と、未だ勧誘を続ける女の子達に、僕は尋ねることにした。
「あ、ねえ、白幸先輩の姿が見られないね。今日はいらっしゃらないのかな?」
そう言うと女の子達は悩むような仕草を見せた後、口を開いた。
「いえ、今日はいらっしゃってはいるんですけど、途中から桜宮先輩と奥の部屋でお話し合いをされているみたいで……。もう三十分は出てきてないよね?」
そうその子が尋ねると女の子達は、それぞれこくり、と頷いた。また別の子が口を開く。
「最近、白幸先輩、桜宮先輩としか話さないんです。前は部員みんなに話しかけてくれたのに……」
不安そうな顔を見せ、その子は俯いた。僕にはその出来事に心当たりがありすぎた。神代先輩の言葉が蘇る。
『桜宮に何度か会ったことがあるが、⦅アレ⦆はよく人を惹きつける。実際生物部の白幸だって、桜宮を異常に気に入ってるだろ?』
もし、もしも白幸先輩が彩葉に何かしたりでもしたら……。僕はその時、自分がどうなってしまうか
わからなかった。もしかしたら、もし、白幸先輩を傷つける結果にでもなったら……。僕の不安は胸に募っていくばかりだった。その時、奥の扉が開いた。
「戸神さんっ、どうかしましたか!?」
彩葉が奥の扉から飛び出してきて、僕に駆け寄ってきた。当たり前だけどその彩葉から、何か変な事を感じることは無かった。けれど心なしか少しぎこちないように感じた。僕は第一声に迷い、何も言い出せなかった。彩葉は僕を心配そうに伺っている。
「あの、戸神さん……?」
僕は目の前の彩葉が不安がっているのを見て、やっと声が出そうになったが、彩葉の背後からの圧に僕は押されてしまった。白幸先輩は彩葉の後ろにピッタリとくっついた。
「あら、戸神さん。見学にいらしてくれたのかしら。それとも誰かにご用事……?」
顔こそ笑っているが、そこからはなにとも言えない威圧感。いや、僕への警戒心が漂っている。これはオーラとかじゃなくて、普通に態度に出てるやつだ。僕はまたしても出てくる嫌な汗が背中に伝うのを感じながら、何とか声を振り絞って出した。
「し、白幸先輩。またお会いになれるとは思いませんでした。実は桜宮さんに用事があって……」
そう言うと白幸先輩はゆっくりと微笑んだ。
「そうだったの、そうだとしたらごめんなさいね。ちょうど彩葉ちゃんとお話してたところだったの。お待たせしてし待ったわね」
白幸先輩は彩葉の肩に手を乗せた。
「それで、戸神さん。その、用事とは一体……」
彩葉は僕を伺うようにして、見上げている。僕は情けない声が出ないように、息を飲み込みつつ口を開いた。
「実は、お母さんからさっき連絡があって……。家にすぐ帰ってきて欲しいって」
咄嗟についた嘘だった。本当はそんな連絡来ていない……が、今の状態から彩葉を連れ出すにはこれしか思い浮かばなかった。我ながら脆い嘘だとわかっている。なにか詮索されれば、すぐにバレるだろう。今はただ彩葉が信じてくれることだけを願った。
彩葉は僕の言葉に顔色を変えた。動揺しているのが、目に見えてわかった。彩葉はすぐに後ろを振り返った。
「白幸先輩、すみません……私、」
彩葉がそう言う前に、白幸先輩は彩葉の口を人差し指で止めた。その顔はさっきとは驚くほど変わっていた。穏やかで優しい顔をしている。
「いいのよ、ご家庭の事情なら急がなくちゃね。今日の部活は終わりでいいわ」
そう言って唇から指を離すと、彩葉は
「……ありがとう、ございますっ」
と、白幸先輩に一礼してから僕の元に来た。
「行きましょう、戸神さん」
「あ、うん……」
僕は彩葉に急かされて、生物部室を後にした。
____________________
「お母さん、何かあったんですか?!」
廊下をものすごいスピードで歩きながら、彩葉は尋ねてきた。ここで嘘だと言い出すのは正直言いずらいが、逆にここでネタばらししなければ、そのチャンスは次にいつ巡ってくるか分からない。僕は意を決して急ぎ歩く彩葉の手を掴んだ。
「彩葉っ」
「わわっ!」
引っ張るように止めてしまったので、彩葉の体はぐらりと傾いて、なんとか立ち止まった。
「戸神さんっ!?」
彩葉は不思議そうに僕を見ている。僕は本日三度目の冷や汗をかきながら、口を開いた。
「あ、あの、彩葉。申し訳ないんだけど……」
彩葉が早く行こうよ、と言いたげに体を動かしている。僕は一発叩かれる覚悟で言った。
「嘘、なんだ!お母さんから連絡があったって話……」
今度は僕が伺うように彩葉を見ると、彩葉は甲高い声を上げて驚いた。
「えっ、ええええええええええええ!!!!」
彩葉の声が、放課後の校舎に響き渡る。
「う、嘘?それは一体どういう……」
「あー、えーっと……」
僕は思わず頭を抱えてしまった。これは、なんて説明すればいいのだろうか。正直に「神代先輩が彩葉が危ないって言ったから」とでも言うか?いや、言えるわけがない。まず彩葉は神代先輩に苦手意識があるのに、そんなこと言ったら彩葉はいい気分にはならないだろう。だからと言って何かいい言い訳があるかと言われたら、何にもないし……。僕は考えを絞り出して、悩んだ、彩葉は不審そうに僕を見ている。
「……戸神さん?」
「ちょっ、ちょっと待ってね。あの、その、ね!」
僕は窓の外を見て、ひらめいた。そうだ、これでいけるかもしれない……!
「あ、そう!ほら!今から雨が降るって!」
「…………雨、ですか?」
彩葉はまだ不審そうに僕を見ている。僕は笑顔で続けた。
「そう、今から雨が降るって聞いて。ほら、僕達寮生じゃないから早く帰ったほうがいいかと思って!」
そう言うと彩葉はやっと不審そうな顔をやめた。
「なる……ほど。確かに雨は予想外でしたね……」
「そう!そうでしょ?だから、早めに帰ろうかと思って声かけたんだ!ごめんね、部活中だったのに、途中で終わらせてしまって……」
そう言うと彩葉はパッと笑った。
「なんだあ、戸神さん。そんな事で呼び出したんですか?それならそうと言ってくれれば良かったのに。わざわざお母さんから連絡が来たなんて嘘つかなくても良かったのに……」
そう言って笑う彩葉に僕はこっそり安堵した。
「うん、ごめんね。なんて言って連れ出せばいいのか、わからなくてさ。もっと良い理由あったよね。驚かせてごめん」
そう言うと彩葉は首を横に振った。
「ううん、良いんですよ。帰りの事、心配してくれたんですよね。ありがとうございます。天気なんてあんまり気にしてませんでした」
ゆっくりと話す彩葉は落ち着いていて、僕は未だ彩葉の腕を掴んでいたことに気がついた。
「あっ、ごめん。痛くなかった?」
そう言って手を離すと、彩葉は
「これぐらい、大丈夫ですよ」
と言って、笑ってみせた。僕はその姿に安心した。なんだ、彩葉は何も変わっていないじゃないか。神代先輩があんなこと言うから、心配しすぎてしまったじゃないか。僕は胸を撫でおろして、彩葉の顔を見た。その顔が少しだけ歪んでいることに、僕は間も無く気がついた。
「でも、良かったです。戸神さんが訪ねてきてくれて……」
彩葉は落ち着いた様子で、安心したようにそう呟いた。その顔は少しの哀愁が感じられる。僕は思わず尋ねてしまった。
「え……、なんで……」
彩葉は変わらない表情で言った。
「今日、白幸先輩の様子が少し、おかしくて。私、どうしたらいいか、わからなかったんです。もし戸神さんが来てくれてなかったら、私……」
神代先輩の嫌なお言葉が頭をよぎる。
『お前、白幸には用心しろよ』
白幸先輩に、用心ってやっぱり……。
「何か……あったの?」
彩葉は背けていた顔を僕に向けて、優しく笑った。
「いえ、戸神さんが心配する事は何もないですよ」
その顔からは、異様な妖艶さが顔から滲み出ている。
「い、彩葉……」
「でも、あんなに私を大事に思ってくれているなんて、私、感謝しなければいけないですね。少し、ほんの少しだけ、依存にも似ていますけど……」
その言葉だけで、白雪先輩が彩葉にのめり込んでいるのはは明確な事だった。
____________________
校門を出て、僕達は大通りに出た。空は異様な暗さだったが、一度雨は降り止んだ様だった。街の人もほとんどは傘など持っておらず、その様子からも急な通り雨だったことは明らかだった。地面や植物は濡れており、梅雨を思い出させるような湿気だった。
「戸神さん、今日は弓道部に行ったんですよね」
「え、あ、うん。そうだよ」
「弓道部ってことは、やっぱり、神代先輩に会ったんですか?」
彩葉は少し気まずそうに、僕に問いかけた。僕はぎこちなく頷いた。
「……うん、まあ、そこそこ。でも、いい人だったよ?まあ、少し不思議な話は聞いたけど……別におかしいわけじゃないだろうし……」
そう言うと彩葉はこくりと頷いた。
「うん、確かに悪い人ではないですよね。でも、やっぱり変な話、されたんですね……」
「うん、」
彩葉は心配そうに僕を眺めていた。彩葉的にはあまり関わってほしくないような人なのだろうか。
「ちなみに言いたくないなら、言わなくて良いんだけど……、神代先輩になにか言われたの?」
そう言うと彩葉は何かに気づいた様な顔をしてから、顔に影を落とした。
「私……、私は「お前、人を誘惑して問題を起こすなよ」って、言われたんです……。それが一体何のことだか、私、わからなくて……」
交差点の前で信号が青になるのを待つ。車が水溜りの上を通って、水滴が跳ねた。地面は湿っぽく濡れている。
「その事を光に話したら、神代先輩は人には見えない物が見えるって噂を聞いたんです。だから、神代先輩はその事を言ってたのかなって……」
そう言って彩葉は俯いた。僕には、今日神代先輩から聞いた話を彩葉にする事は出来なかった。まず信憑性のある話ではないし、彩葉にそれを言ったからと言って彩葉がどうこうなる話ではないと思う。僕的には彩葉には⦅オーラ⦆の話は言いたくない。知ってほしくない。彩葉は何も知らないままでいい。これは僕や白幸先輩とかの、彩葉に関わった人がどうこうする話なのだと思う。彩葉が自分の⦅オーラ⦆で悩むなんて、してほしくない。お母さんに嫌われている理由も、知らないでほしい。それは僕の自分勝手なわがままだ。彩葉には純粋無垢でいてほしいという、僕の勝手な願い。僕は彩葉を励ますように、言った。
「彩葉は魅力的な人だから、人が魅了されてしまうのは仕方のない事だ。それに今日、神代先輩の話を聞いたけれど、僕は全部は信じていないよ」
そう言うと彩葉は「え……」と言って顔を上げた。信号が青になり、人が歩き出す。僕はゆっくりと、一歩前に踏み出した。
「だって僕らには視えない話だ。もしかしたら、神代先輩の妄想の話かもしれないじゃないか」
彩葉は僕の後ろをトボトボと歩きながら、「でも……」と呟いた。
「もし彩葉が問題を起こしても、全部僕が解決するよ。必ずね。絶対彩葉が困る様な事にはしない。だから……」
信号を渡り終えて、僕は後ろを振り向いた。彩葉は申し訳なさそうな、そんな顔をしていた。
「神代先輩の言葉より、僕の事を信じてよ」
僕は彩葉に手を差し出して、微笑みかけた。それは心からの僕の思いだった。彩葉はしばらく僕を見上げた後に、ゆっくりとその手を伸ばした。彩葉の白い手が、僕の手に触れた。その目は微かに揺れていた。
「お願いします、私の力じゃどうにも出来ないから……」
しっかりと繋がれた手を、僕は離さないと誓った。彩葉の手を引くのは、これで何度目の事だろうか。
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