2−10 幸せの願い
夏は日が長いのが嫌になる。外がいつまでもじわじわと暑いのは、暑いのが苦手な私としては拷問だ。やはり文明の発明・クーラー様がいなけれは夏は乗り越えられないだろう。私はこれからの帰路が憂鬱になり、ため息を吐いた。
「では皆さん、熱中症には気をつけるように!」
みんなが気だるげに机の横に立った。
「姿勢・礼!」「「ありがとうございました」」
少し長く感じた終礼が終わり、みんなは散り散りになった。部活に行く人、話をしている人、寮に帰る人。人それぞれである。そんな中私は引っ張られるようにして椅子に座った。
「うわっ、いろりんがバテてる……」
光がユニフォームに着替えながら、私を見ていた。
「そりゃあこんな暑かったらバテるよでしょ……。ああ、いいなあ〜、寮生は。暑い思いしないで帰れて……」
「いろりんの家だってたかだか20分ぐらいじゃん」
「校舎から直接寮に帰れる光たちとは訳が違うの〜〜!!」
私はとうとう暑さに参って、机に突っ伏した。机はひんやりしていて気持ちがいい……。せかせかと着替えている光を、私はぼんやりと見ていた。
「そうは言ってもとがみんがいるじゃない」
光は唐突にそんな事を言った。
「へ、戸神さん?」
「そう、とがみん!いつも涼しげじゃん、一緒に帰るんでしょ?見るだけで涼しいなんて儲け物だよ」
着替え終わった光は、鞄を持って私に振り向いた。
「とがみんの姿に癒されなよ。……では、いろりん!また明日!」
「え……うん、また明日あ……」
そう言って光は元気よく教室を出て行った。ユニフォームから察するに、今日はテニス部か。相変わらず運動部の助っ人として走り回っているようだ。私はその姿に思わず「元気だなあ……」と言葉を漏らした。
私は机に伏せたまま隣の話し声に耳をすませた。さっきから話し声がしている。それもそうだ。今日も今日とて戸神さんには何人かの女子が群がっている。相変わらずの人気らしい。女子達は声を弾ませて、話しかけていた。
「ねぇ、戸神さん!是非うちの茶道部に来てください!」
「戸神さん、運動はお好きですか?バスケ部楽しいですよ……!」
「戸神さんお歌はどうかしら?合唱部は部員も少ないしいかが?」
いや、部活の勧誘かっ!私は心の中で密かにツッコんだ。確かに戸神さんはまだ転入してきて三週間だから、もちろん部活は決まっていない。それに戸神さんが部活に入ってくれたら、部活はさぞ盛り上がるだろう。そんな理由で戸神さんを勧誘する気持ちはわからなくないでいた。私は腕の間からこっそりと隣を見た。戸神さんは相変わらず顔を崩さずに、綺麗に笑っていた。
「皆さん、ありがとうございます。見学したい気持ちはやまやまなんですが、今日は先約がありますから」
「あら、そうなんですの?」
「誰かとお約束でも?」
残念そうな声を上げる女子達の目をかいくぐるように、戸神さんと私は目があった。私はまずい、と思った。見ていたことがバレてしまう。顔をそのまま背けようとして、目を離そうとした。その時、戸神さんは何を思ったのか、私にウインクを投げた。
「うっっ……」
不覚……!!うう、かっこいい……。
私はそのウインクに心を射止められてしまいそうになった。危ない、と思い視線をそらす。何をドキドキしているのか。私はこんな簡単な事で恋になんか落ちないのに……。悔しいような、緊張のような感情が胸を占めた。私は腕に顔を埋めて、心が静まるのを待った。かくいう戸神さんはバレないようにウインクしたようで、周りにいる女子達は何も気づいていなかった。
「部活の時間に遅れてしまいませんか?」
戸神さんがそう言うと、女の子たちは口々に「残念だわ」「明日は必ず」と言いながら戸神さんの元を離れていった。ああ、やっと終わったのか……。私はこっそりと安堵の息を吐いた。
「いやあ、待たせちゃったかな?」
「えっ……」
思わず顔を上げて隣を見ると、戸神さんが綺麗な笑顔で笑っていた。
「ごめんね、彩葉。いつもいつも待たせちゃって」
戸神さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ、いいですよ。ほら、なんというか、会話しない訳にもいきませんし、ね!」
私が全然大丈夫だと言う風に笑うと、戸神さんは安心した表情を見せた。
「まあ、確かに、ね。好意があって話してくれているんだし、親切だしね」
私がそれに頷くと、戸神さんは「それでも少し大変だけどね」と言って笑った。
その笑顔に相槌を打ちながら目線を他の所に移すと、いつの間にか教室には私達だけになっていた。
「ところで、綾小路さんとは大丈夫だった?」
突然の質問に私は戸惑った。
「あ、え、綾小路さんですか……?」
「うん、何か話したんでしょ?」
「ま、まあ……」
期待の目を向けている戸神さんに、私は渋々今日の事を話した。
「まあ、結論から言うと、戸神さんのことは諦めるって……」
「へえ、そう。もう少し続くと思っていたけど」
戸神さんは自分で聞いておきながら、興味がなさそうな返事をした。
「純愛は嫌いだからって、言ってました」
「まあ、そうなるよね。……彩葉は気づいてた?」
「え、何をですか?」
「いや、気づく方が難しいけどさあ」
戸神さんは目線をそらして、上を見て仰いだ。
「綾小路さん、僕の事好きじゃなかったって事」
「……へっ」
驚く私に、戸神さんは上を向いたまま答えた。
「あれはさ、寂しいだけなんだよ。心に隙間があって、それを人で埋めてるんだ。彼女は」
私はその言葉に聞き覚えがあった。綾小路さんとの会話を思い出す。
『そうねぇ、でも寂しいだけよ。理由なんて。心の隙間の埋め合わせ……かしらね』
あの時の寂しそうな目、そうか、綾小路さんは……。
「だから、別に僕じゃなくてもよかったってこと」
そう言い終わると、戸神さんは静かに目を閉じた。
「綾小路さんは、単に寂しかっただけなんですね」
「うん、そう言うこと」
私は綾小路さんの事がとても居た堪れなくなった。
「そんなの寂しいですね。少しだけ、可哀想です」
私が呟いた言葉に、戸神さんは何も言わず頷くだけだった。
「でも、でも綾小路さんは……」
「悪い人では、なかったよね。僕もそう思う。……さあ、長話もここまでにして帰ろうか。」
戸神さんは椅子から立ち上がり、鞄を持った。私は音を追いながら、呟いた。
「綾小路さんはいい人です、とても」
「うん、そうだね」
戸神さんはそう言って、切なげに笑った。
――――――――――――――――――――
夕方の大通りは人も車も多い。私達は夕日に当てられながら、信号が青に変わるのを待っていた。私はざわめく人を見ながら、綾小路さんの事を考えていた。
人はみんな孤独だと、とある偉い人は言った。私もその一人で、お母さんとの生活は寂しさを感じる事ばかりだったと思う。心はいつも寂しかった。今じゃ戸神さんがきて、少しは家も賑やかになったけれど。でも本質的な寂しさと言うのは、なかなか消せないと思う。私は隣に立つ戸神さんに尋ねた。
「ねえ、戸神さん。人の寂しさってどうやったら埋まるんでしょうか」
戸神さんはしばらく考える素振りを見せた。
「うーん、そうだな。でもやっぱり幸せを感じる事をするのが一番じゃないかな。寂しさなんて誰でも持っているんだから、紛らわすしかないよね」
「幸せを感じること……かあ」
そう言われると、私の幸せってなんだろうと思った。勉強だろうか、それとも家事?うーん、いまいちピンとこない……。でも、幸せだった記憶はある。また、そうなればいいなという願望も。それを願いながら、その日のために生活をすることが今の私の幸せかもしれない。
信号が青になって、みんなが一斉に渡りだす。私達も歩を進めた。
「戸神さんにとっての、今の幸せってなんですか?」
自分の幸せがわかったところで、戸神さんのも聞いてみたくなった。やはりお父さんのことだろうか、それとも白草学院に通えた事?私はワクワクしながら返事を待った。
「僕の、今の幸せ?ああ、そんなの決まってるよ」
戸神さんは考える素振りも見せずに、即答した。
「彩葉と一緒にいれる事、それだけ」
予想外の返答に私は何も言えなくなった。戸神さんは笑って続けた。
「前も話したけどさ、ずっと追いかけてたんだよ。彩葉の事。近くにいたいと願い続けてきた。それが今、同居もできて同じ学校にも通えてるんだから、幸せじゃない訳がない」
そう語る戸神さんは、本当に幸せそうに話していた。表情だけで、ああ、本当にこの人はそれが幸せなんだとわかる。私はそのキッカケが自分だということに、少し恥ずかしさを感じた。そんな、そばにいるだけで幸せなんて言われたことはない。
「過去の辛かったことも、この日々のためにあったんだと思えば、全て報われているんだ」
先に信号を渡りおえた戸神さんは軽やかに、こちらを振り返った。私はその姿に魅了される。
「だから、ありがとう。彩葉」
そう言って恥ずかしそうに笑う戸神さんは、年相応の少女らしい笑顔だった。私はやっぱり、戸神さんにはあの王子様スマイルは似合わないよ、なんて思った。それでも王子様でいなきゃいけないあなたのために、せめて家ではありのままでいられるように。私は振り返った戸神さんの背中を追いかけた。
「戸神さん、戸神さんがきてくれなければ、私はずっと寂しい家族のままでした。戸神さんが彩をくれたんです。ありがとうは、私の方です」
そういうと戸神さんは「そっか……」と言って笑った。
「綾小路さんは、本当に大切な事を教えてくれるね。願わくば、」
戸神さんの言葉に続いて私も祈るように、続きを口にした。
「彼女にも、幸おおからんことを」
夕焼けの空には、一番星が輝いていた。
2章 綾小路 智花
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