9-5 身勝手な母親

 お父様がいた。いつものように、椅子に深く腰を掛けて。


その膝の上に彩葉のお母さんがいた。はだけた服から、白い肌が見えていた。彩葉と同じ茶髪の髪が異様に乱れていた。


その光景は、明らかに行為の途中だった。


「あ、え……」


 僕は目を見開いてそのまま固まってしまっていた。どうしたらいいのかわからずに、言葉も出ずに、ただそこに立ち尽くしてしまった。まさか、こんなところで盛っているだなんて思いもしなかった。そんな僕とは反面、彩葉のお母さんは動揺して


「ちょっと、侑李ちゃん!?何でここにいるの!?ちょっと、扉閉めなさい!」


 と、焦っていた。今の彩葉のお母さんはほぼ下着姿も同然だった。うん、一回仕切り直すために扉を閉めても、と思ったけれど、ここまで来て今更、扉を開けてしまった以上は引き返せない。そうして僕が扉を開けたまま、どうしようかと硬直していたその時だった。


「……え、うわっ、!?い、彩葉?」


 後ろから体を横に押されてそちらを見れば、彩葉が後ろから飛び出して、そのまま彩葉のお母さんの元に直行し始めた。


「ちょ、っと待って!彩葉!」


 と、迷わず彩葉のお母さんに突進していく彩葉に手を伸ばしたけれど、その手はそのまま空を切った。


 彩葉はお母さんの前まで行くと、堂々と言い放った。


「初めまして、私、桜宮彩葉と申します。この人の娘です。この人、少し借りますね。話があります」


 彩葉は静かにお父様にそう告げると、お母さんの肩を掴んだか、と思えば、そのまま肩を押して地面に叩きつけた。本当に、叩きつけたのだ。父様から体を引きはがした、と言ってもいい。そうして鈍い音を立てて派手に地面に転がったお母さんの体にまたがった。


「いっ、!ぁ、彩葉あんた、何するのよ!」


「え、……い、彩葉っ、!」


 僕が思わず名前を呼ぶが、今の彩葉には聞こえていないようだった。彩葉はそのままお母さんの胸ぐらを掴んだ。


「あんた、本当に何してくれてるの。あんた、こんなところで本当に何してるの」


 彩葉の静かな声が、部屋に響く。


「はぁ、!?何の話よ!私から降りて、早く出ていきなさいよ!」


 お母さんは、彩葉に叫んでそう告げるが、彩葉は動揺もしていなかった。


「……今日、お父さんが来た」


「……え?」


 動揺するお母さんに彩葉は構わず続ける。


「もう20歳まで会えないって、悲しい顔して、僕は今の彩葉の家族じゃないからって。……ねぇ、どんな気持ちでお父さんがそんなこと言ったか、あんたにわかる?」


 彩葉はお母さんを揺さぶる。


「あんたに、あんたなんかにわかるって言うの!?お父さんの気持ちが、お父さんを裏切ったあんたなんかに……!」


 彩葉は胸ぐらを離したか、と思えば、そのままお母さんの肩を地面に押し付けた。


「ねぇ、何とか言ってみれば?」


 そんな声を聴いたのは、僕も、多分お母さんも初めてだった。それぐらい、それぐらいに彩葉は怒っていた。悲しんでいた。祐介さんにしたお母さんの所業を、許せないんだと思った。でも、そんなの当たり前だ。あんなこと、誰だって許せない。今でも僕の脳裏には祐介さん切ない笑顔が残っている。ただ一人の、自分の子供を、こんな家庭に残していかなければならない祐介さんの気持ちが、今になって痛いほど、心に流れ込んでくる。


 彩葉のお母さんは、彩葉を馬鹿にしたように、ふっと笑った。


「はっ、あんたの方が分かっていないでしょう?あいつは私にぞっこんだったから、私の言うことなんてなんでもいうこと聞くのよ!むしろ、あんたを産んであげただけ感謝する立場なのよ、あいつは。あんたも、私の邪魔しないでよ」


 彩葉のお母さんの本性を、見た。お母さんは祐介さんのことなんて、きっと、これっぽっちも愛しちゃいなかったんだろう。そうしてきっとこの人は、彩葉のことだって、本当の意味では愛していないのだ。自分のことしか考えていない、ただのエゴイスト。


 

 彩葉の目が見開いたのを、僕は見た。彩葉は、ゆっくりとお母さんの肩から手を離した。


「っ、ぃ、!」


 その時、彩葉が大きく手を振り上げた。その手は、お母さんの顔を狙っているのは、見ていても分かった。


「彩葉っ、!」


 僕はすぐに彩葉の背後に回り込んで、彩葉の腕を振り落とされる間一髪で掴んだ。


「い、ろは……」


 彩葉が戸惑った顔で、僕を振り返った。


「彩葉、駄目だ。そこまでしたら、戻れなくなる」


 その言葉に彩葉は反抗するように、僕から手を引き離そうとした。


「離してください、戸神さん!この人を、私は叩かなきゃ、気が済まないっ!」


「駄目だ、彩葉」


 僕はぎゅう、と彩葉の腕を握り締めた。


「ここでもしお母さんを叩いたら、彩葉は自分を許せなくなる」


 彩葉の力が、少し抜けた。


「こんな人の為に、自分を傷つけないで」


 そう言って、力のない腕を、離した。彩葉はそのまま、ゆっくりとお母さんに縋り付いた。


「お母さん」


 涙が、溢れていた。


「ねぇ、お母さん」


 彩葉はただ、お母さんに尋ねた。


「どうして、こんなことしたの?なんで?お母さん……」


 力のない声が、ただ部屋にむなしく響いた。

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