7-7 全てが上手くいくわけじゃない

「うんうん!いろりん、最高に可愛いよ!」


 そんな風におだてられて、私は少しだけたじろいてしまう。思わず「私なんか、可愛くないよ」と言いそうになったが、今日はそれは禁句だ。今日の私は可愛い、それぐらい思わなきゃ、戸神さんには喜んでもらえない。だから、私は鏡に向かって自分に言った。


「可愛いよ、ね。私。うん、大丈夫」


 その言葉に、きっと嘘は無かった。私は鏡で自分を励ました後、光にメッセージを送り返した。


「光、色々ありがとうね。そろそろ時間だから、行ってきます!」


 そう送ると、すぐに返信が返ってきた。


「困ったことがあったら何でも言ってね!最高に可愛いよ!いってらっしゃい、いろりん!」


 光の温かい言葉が、私の背中を押してくれる。私は画面越しに笑ってしまって、こくりと頷いていた。届かないけれど、画面に向かって


「行ってきます、光」


と、返事をした。



 時計はもう10時を指していた。私は鞄を持って、急いで部屋を出た。この先、階段を下りれば、戸神さんがいる。ああ、もう一度鏡で確認してくればよかったとか、おかしくないかなとかいろいろ考えちゃったけれど、もうそこからは勢いだった。階段を一段、また一段と下りる度に、胸の緊張が高鳴る。足が震えている。でも、行かなくちゃ。そうして、ついに階段を降り終わって、私はリビングに入った。そこで私は目を見開く。そこには、いつもよりずっと、ずっとキラキラした戸神さんがいた。シンプルなトップスにジーパンを履いた戸神さんは、それだけでもう十分にかっこよくて、何故か本当にキラキラしていて、私は「お待たせしました」という言葉さえ、忘れてしまっていた。でも、そんな私に戸神さんはすぐに気が付いてくれて、微笑んでくれた。その笑顔が、私の胸を貫く。こんなドキドキは、人生で初めてだった。


「準備終わった?」


 そう言って私のすぐ目の前に立った戸神さんの顔を近くで見たら、もうなおさらかっこよくて、私は返事をしなきゃと思いつつ、何も言えなかった。でも、戸神さんは私をじぃっと見ていた。その間のおかげで、私はようやく声を出せた。


「あ、あの、お待たせして、ごめんなさい!……あ、お、おかしく、ない、でしょうか?」


 そう言って戸神さんに尋ねると、戸神さんは何故か私から顔を背けてしまった。顔を手で隠して、目をうろうろとさせている。その反応に私は嫌な予感がした。


(あれ、もしかして……戸神さんの好みじゃなかった?)


 思考がうまく回らなかった。頭が混乱する。どうしよう、今からでも着替えたほうが……、メイクも変えたほうが……と、混乱していた時だった。戸神さんが、私のほうを向いて、手を顔から離した。その顔は、赤く染まっていた。


「ごめん、彩葉。……すっごい可愛い……」


 予想外の言葉に、私の体は思わず跳ねてしまった。


「あ、えっと……!」


 戸神さんの意外な言葉に、私も言葉を失う。なんて返せばいいのか、わからなくてまた混乱してしまう。もう、わからないことだらけだ。学校の授業だってこんなに難しくはない。もし授業で当てられても簡単に答えてしまえるのに。戸神さんと会話をするのは、一言一言を気にしてしまう。簡単には話せない。言葉を口に出せない。そのまま、お互い無言の時間が流れて、いつ話せばいいかわからなくなって、目がぐるぐるとし始めた時だった。


「彩葉」


 そう、優しく声をかけられて、私は反射的に顔を上げる。その目に前には、綺麗な戸神さんの顔があった。


「……あっ、!」


「僕にさ、可愛いのが好きかって聞いてくれてさ。その、僕の勘違いだったら恥ずかしいんだけれど、僕のためにこんな可愛い恰好してくれたんだよね。それが、本当に嬉しいし、彩葉はいつも可愛いけれど、今日が今までで一番可愛いよ」


 口説かれてるみたいな、そんな恥ずかしい言葉に私も思わず顔を赤くしてしまう。でも、心の中では「今日が一番可愛い」と言ってもらえて嬉しかった。戸神さんの好みになれて、喜んでもらえて、本当に嬉しい。私は言葉をしどろもどろにしながら、戸神さんに、


「あ、ありがとうございます!その、一生懸命頑張った甲斐がありました!戸神さん、可愛いのがお好きだって言っていたから、その、好みに合うかわからなかったんですけれど……」


 と、告げた。そう言うと、戸神さんは優しく顔を横に振った。


「好みに合うかだなんて……。好きな女の子が、僕の為に可愛くなってくれたんだなんて、とても幸せだよ。ありがとう、彩葉」


 その言葉ですべての努力が報われたような気がした。こうして、ちゃんと努力を評価して、感謝してくれる戸神さんに私も感謝しないといけないと思った。


「戸神さん、こちらこそありがとうごさいます。喜んでいただけて、本当に嬉しいです!」


私からも感謝の言葉を言って、お互いに感謝し合う。なんだか不思議な感覚だけれど、これでもいいのかな、私たちらしいかな、と思っちゃう。私と戸神さんはお互いに顔を見合わせて笑ってしまった。


「じゃあ、行こうか」


「はい!そうですね!」


そう言って私達は、出発しようとリビングを出て、玄関の廊下に出た時だった。


普段は開かない、開くはずもない、お母さんの部屋のドアが、ゆっくりと音を立てて開いた。私は息を飲んでしまった。でも、私の意思は関係なくふらり、と暗い部屋の中からお母さんが出てきた。酔っているせいか、足元はおぼつかない様子で、目も右往左往していた。……実に、お母さんと会うのはもう2週間ぶりぐらいだった。私は何も考えず、お母さんに声をかけてしまった。


「っ、……あ、!お、母さん……!」


その声でお母さんの視界に私が映る。


「その、おはよう!……大丈夫?」


お母さんが千鳥足で私に近づく。


「あ、あのね、お母さん!今から戸神さんと……」


「うるっさいんだよおおお!!!」


そんな絶叫を聞いたのもつかの間、次の瞬間、私は何故か地面に倒れていた。視界がぐるぐるしてよく分からないが、やけに右の頬が痛い。そこでどうやら私は、お母さんに叩かれたんだと自覚した。目の前にはいつの間にか戸神さんが立ちはだかって、私をお母さんから庇っていた。


「お母さん、酔いすぎです」


戸神さんの低い声が、廊下に響いた。


「言いましたよね。実の娘に手を挙げるなんてって……」


静かな空気が、胸を押さえつけるようだった。


「と、がみさん……駄目です……私は、大丈夫ですから……!」


そう言っても、戸神さんはピクリともしなかった。しないまま、お母さんがまた何かを言う。


「あらぁ、侑李ちゃぁん、!そんな子、庇わなくていいのよぉ!!今日はかっこいい私服ね……!ああ、侑李ちゃんみたいな娘を持てて私……「馬鹿な事を、言わないでください!」


戸神さんの叫び声が、響く。私は戸神さんがそんな大声を出しているのを見た事がなかった。戸神さんの今の表情は見えないけれど、それはきっと……。


戸神さんはお母さんの前に立ちはだかると、ふらふらのお母さんの体をそのまま部屋に突き落とした。遠くて瓶や缶が倒れる音がしていた。部屋にお母さんを押し込むと、そのままお母さんに向かって、


「次、彩葉に手を出したら、もう許しませんから」


と、言い放ち、そのまま扉を閉めた。扉の向こうでは何かがガタガタとなっている音がしたが、それを気にもせず、戸神さんは私の側まで来て、膝をついて心配してくれた。戸神さんは私の頬を触ろうとしたが、直ぐになにかに気づいてやめて、手袋を外した。そうしてそのままの素手で、戸神さんは私の右頬に触れた。


「戸神さん!手が……」


「大丈夫。彩葉は汚くなんてないから」


初めて触れられた戸神さんの手は、ひんやりとして冷たくて、叩かれて熱を持っている私の頬を冷やすには、ちょうど良い温度だった。






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