6−2 お別れはいつも隣に

戸神さんと別れて、私は生物室へと足を向けた。別棟の一階。その奥に生物室はある。ただ密やかに息をするように、そこにいるだけのように。いつかこの別棟も壊されるのでないかと思ったけれど、案外そんな様子もなく、生物室はそこに存在していられる。私は暗い廊下を抜けて、生物室の前までついた。蝉の声がやけに遠くに聞こえる。ここは現実から離された場所のようだと、時々思う。そうして、その中には、世にも美しい白雪姫がいるのだ。いや、いたのだ、と言うのが正しいだろうか。そうしてその白雪姫ももう、ここを出てゆく。今日が、その最後の日なのだ。私はそんな事を思いながら、生物室の扉をがらっ、と開けた。


「あ、桜宮先輩!おはようございます」


 黒板に背を向けていた後輩が、私の方を向いて挨拶をした。その手には、折り紙で作られたらしい輪っかが持たれていた。


「おはよう。みんなも、おはよう」


 そう言って声をかけると、生物部のみんなが口々に「おはようございます」と挨拶を返してくれた。私は適当な机に鞄を置いて、部室を見渡した。

 部室は、綺麗な折り紙で飾られていた。黒板には大きく『先輩方、引退おめでとうございます』と書かれている。その周りを、後輩たちが一生懸命折り紙の輪っかで飾っていた。


「桜宮先輩、どうでしょうか?おかしくないでしょうか?」


 一人の後輩が、折り紙を手に持って私に話しかける。私は後輩の方を向いて、「うん、良いと思う」と頷いた。一週間前、後輩達は先輩方の引退に向けて、部室を飾ろうと提案してきた。最後の部活なのだから、せめて楽しい思い出を、との事だった。後輩達はそのことで、副部長である私に相談してきていたのだ。私は勿論OKを出した。そうして当日、一年生は部室の飾り付け、二年生は一年生の分までの部活の活動を終わらせておくことを、みんなで決めた。私は服部長という事で、部室に残り、一年生の見張りをする事にした。後輩達は先輩達にとにかく何か残そうと、お別れ会をする事を提案してきた。部員から一人ずつ先輩に向けてお礼を言い、先輩達との別れを惜しむ、と言った簡易的なものだったが、それでも良い思い出になるだろう、と私はそれを了承した。一年生達はそうしてお別れ会に向けて、楽しそうに動いていたが、二年生は少し違った。今日はお別れ会もあるが、引き継ぎの日でもあるのだ。今日、三年生の先輩方から誰が部長になるか、発表される。二年生のから誰が選ばれるのか、みんなそわそわしているのだ。勿論私も数少ないその一人だった。白幸先輩の後を誰が引き継げるのか、みんな少しの不安もあったと思う。


 そんなこんなしているうちに、二年生が庭園のお手入れから帰ってきた。一年生達も飾り付けを終えたようだった。私は時間を見計らって、部員のみんなを集めた。


「みなさん、おはようございます」


 そういうと、みんなも丁寧に返してくれる。私は話を続けた。


「今日は、遂に先輩達が引退される日です。みなさん、各自準備ありがとうございました。先輩方は、もうすぐいらっしゃいます。心を込めて、最後の挨拶をしましょう」


 そう言うと、部員のみんなから「はい」「わかりました」などと言った声が上がった。私はそれを確認して、時計を見た。時計はもう八時五〇分を指していた。もう先輩達がいらっしゃる時間だ。


「では、みなさん。各自、自分の席に座ってください」


 私がそういうと、部員のみんなはそれぞれ席に移動した。私は黒板の近くに立ち、お別れ会の進行が書かれた紙を手にした。お別れ会の進行をするのも、副部長としての立派な仕事だ。私は、紙を持つ自分の手微かに震えているのを見た。それが緊張なのか、また別のものなのかはわからなかった。私は黒板の近くから、椅子に座っている部員のみんなを見渡した。もし、私が部長になったら、こうしてみんなをまとめていかないといけないんだ。白幸先輩のように、誰にでも優しく信用できるような部長に。私は、なれるだろうか。そんな一抹の不安が、私の頭をよぎった。その時だった。生物室のドアから、コンコンと、ノック音がする。私は体をそちらに向けて、背筋を伸ばした。ドアがゆっくりと開けられる。そこには、先輩方がみんな揃っていらっしゃった。私は、部員のみんなと合わせて、ゆっくり頭を下げた。


「先輩方、おはようございます!」


 今日で最後の、挨拶を。

____________________

 最初に入ってきたのは、白幸先輩だった。白幸先輩は目を輝かせて、部室内を見渡した。


「まあ……、なんてすてきなの」


 その声を筆頭に、先輩方が部室内を見渡して感嘆の声を上げている。準備をした一年生は、気恥しそうな顔をして笑っていた。私は先輩方はみんな部室にはいられたのを見計らって、


「先輩方、前の椅子へどうぞ」


と、声をかけた。先輩方は口々に「ありがとう」と言いながら、椅子に腰をかけていった。白幸先輩は、部長という事で、一番前の真ん中の席に座ってもらった。私は先輩方がみんな座ったのを確認してから、進行カードを見た。


「改めまして皆さん、おはようございます。今日は遂に、先輩方が引退される日です。皆さん暖かく見送りましょう。では、お別れ会を始めます」


 そう言うと、部員皆が拍手をして、会を始めた。私は未だ震える手に、ぎゅう、と力を込めて、紙を強く握った。


「でっ、では、早速。まずは、部員からの一人一人のお別れの言葉になります。それでは一年生の、河西さんから順番にお願いします」


 そう言うと、一年生の河西さんが「はいっ!」と良い返事で、椅子から立ち上がった。その顔は既に泣きそうに、歪んでいた。涙を強くこらえながら、河西さんは声を出した。


「先輩方、引退おめでとうございます!私は先輩方にはとてもお世話になりました。特に三年の〜」


 河西さんはそのうち、涙ながらに先輩にお世話になったことについて、話し出した。まだ右も左も分からぬ時に色々指導してくれたこと、楽しい部活動での一時、時にはたしなめてくれたこともあったこと。全てが良い思い出であったこと。そんなことを話し、最後に涙の感謝を伝え、河西さんは席に座った。その後の子達もそれぞれみんな、お世話になった先輩方についての思い出と感謝を述べた。最後まで言い切る子もいれば、途中で泣き出す子、ずっと泣いていた子もいた。先輩たちもその言葉に、みんな声を抑えて泣いていた。やはり、その中でも白幸先輩は一層深く、泣いていた。そうして一年生が言い終わり、二年生が言い終わって、遂に私の番が回ってきた。私は進行カードの紙を置き、先輩たちの方を向いた。


「先輩方、この度は引退おめでとうございます」


 そう言って、深く頭を下げる。


「先輩方から学んだことは、今の私を作っている、大切なものです」


 そこで一旦言葉を止めた。そうして、心を落ち着けてから、私はまた話し出した。


「佐倉先輩、熱帯魚が誰よりも好きで誰よりも詳しかったですよね。先輩のおかげで私も熱帯魚が大好きになりました。間宮先輩、植物に関しての知識に部員皆が助かりました。先輩の発表会はいつも完璧でした。七城先輩、先輩は観葉植物に詳しくて、先輩にお世話されている観葉植物はいつも生き生きとしていました」


 そうして私は、先輩一人づつにそれぞれメッセージを言って行った。それぐらいでしか、私の感謝は表せないと思った。また、副部長としての役目だとも思った。先輩達は私に名前を呼ばれる度に、私に頷いて、涙を流してくれた。私はその優しさが、とても嬉しかった。そうして約十人の先輩方にメッセージを送り、最後の一人となった。


「最後に、白幸先輩」


 そう言うと、白幸先輩は泣いて俯いていた顔を、正面に上げて、私をまっすぐと見据えた。

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