1-7 看病

「入るよ、彩葉。」


その声で泣くことだけをしていた意識が、引き戻された。私は急いで目を擦って、泣いているのを隠そうとした。けれど私の隣にしゃがんだ戸神さんは、それを見逃さなかった。


「あんまり擦らないで。これで冷やして。」


戸神さんは用意良く、濡らしたタオルを差し出してきた。私は「ごめんなさい」と言ってそれをおずおずと受け取った。目に当てるとひんやりとして、気持ちが良かった。その間、戸神さんは私に背中を優しくさすってくれた。手袋の皮越しに暖かさを感じるようで、なんだか不思議だ。


「少しは落ち着いた?」


私はこくりと頷いた。まだ目がしばしばするが、少しは冷えて落ち着いた。こんなに用意がいいなんて、戸神さんはいつから泣いていることが、わかっていたんだろう。私はタオルをぎゅっと握って、戸神さんに尋ねた。


「あの、いつから気づいてたんですか…?」


戸神さんは私の背中を撫でながら、うーん、と考えた。


「なんとなくかな、なんかわかっちゃった。」


不思議だよね、なんて言って戸神さんは笑った。私はその笑顔を見て自分が惨めに思えてしまった。私はあんなお母さんの軽い一言で、大泣きしてなんて情けないんだろうか。戸神さんは私が早退したことを上手く隠してくれていたのに。


「あの、ごめんなさい。私、本当に情けなくて。あんなお母さんの言葉で泣いちゃうなんて、ほんと馬鹿みたいで…。」


自傷的にそういうと、戸神さんは「ちょっとごめんね。」なんて言って、私を胸に抱き寄せた。突然のことで、私は声も出なかった。


「あの…、戸神さん…。」


私がそう呼びかけても、戸神さんは何も答えない、ただ私の背中を摩り続けるだけだった。緊張して、ドキドキしているはずなのに、なせか暖かくて何処か懐かしい感じがした。昔、誰かがそうしてくれていたような…そんな懐かしさだった。戸神さんの胸に近いからか、心臓の音がよく聞こえる。ドクン、ドクンと規則正しくなっている。私がその音に聞き入っていると、戸神さんは私の頭を優しく撫でた。


「大丈夫?ベタベタ触っちゃって。」


「え、あ、はい。大丈夫です。」


「よかった。」


戸神さんはそう言って私の頭を撫で続けた。きっと慰めようとしてくれているんだ。戸神さんなりに考えて、行動してくれている。私はそれが嬉しかった。しばらくそうしていて、私が心臓の音に耳を傾けていると、戸神さんは喋りだした。


「どうして、お母さんのことが好きなの?」


「え……?」


「いや、ふと気になって……。」


私が上を見上げると、戸神さんは困った顔をして私に笑いかけていた。私は自分の中でよく考えてみることにした。お母さんを好きな理由、か。それは……。


「それは……お母さんは優しくて、綺麗で、なんでも喜んでくれる人だから。一緒にいると楽しいんです。お母さんが笑う度に、幸せになるんです。」


戸神さんはしばらく私の頭を撫でたあと、


「そっか……。」


とだけ言った。そういえば戸神さんにお母さんはいたのだろうか。それともお父様という人に育てられたのだろうか。それともまた別の人かな?もちろん、そんな深入りしたことを聞けるわけもないけど、ふと気になってしまった。戸神さんは一体どんなところから、ここに来たんだろう。そうして一体ここに来るときどんな希望を抱いていただろう。いつか、聞いてみよう。戸神さんのことを、もっと深く知るまで。


戸神さんの頭を撫でる手が、止まった。


「落ち着いてきたね、大丈夫?体調悪くない?」


そう言って戸神さんは私の顔を覗き込んだ。私はその近さに驚きつつ、「はい、大丈夫です。」と答えた。戸神さんはうなずいて、やっと私を離してくれた。


「お腹すいてない?ご飯にしよう。」


「あ、お腹……、あんまり空いてないかもです……。」


そういえば忘れていたけれど、お昼はとっくにすぎていたっけ。時計は13時を指していた。戸神さんはまた困ったように笑ったけれど、


「いいよ、食べられる分だけでいいから。お昼ご飯作ってくるから、彩葉は着替えてゆっくりしてて?」


じゃあね、と言って戸神さんはゆっくり私から離れていった。扉を閉めて、階段を下りる音を聞いてから、私は崩れ落ちるように、床に横たわった。制服でこんなことしたら、シワになるからいけないのに体はだるく、動かせなかった。戸神さんには本当に良くしてもらっている。まだ会って2日?いや、1日も経ってないのに、こんなにも世話を焼いてもらってしまって。しっかりしないとなぁ、と思うのに何故か弱さを見せても安心できるのは何故なんだろう。さっき、抱きしめられた時に感じた懐かしさはなんだったんだろう。それで私は、ふとさっきの言葉を思い出した。


『僕と彩葉はね、ずっと昔に会った事があるんだよ。』


ずっと昔……っていつだろう。残念ながら記憶を探しても、戸神さんに会ったという記憶が見当たらない。中学、いや、小学生の時の同級生か……?いや、あんな綺麗な人がいたら気づくと思うんだけどなぁ……。まさか幼稚園の時とか??私は記憶探しを諦めて、ため息をついた。けれど、戸神さんは私と会ったことを覚えている。ずっと昔……か。秘密って言われたから、誰にも言えないし。私は思い出せる日が来るだろうか、なんで考えながら目を伏せようとした。


いけない、着替えなきゃ……。制服にシワがつく。私はだるい体をゆっくり持ち上げて、何とか起き上がった。クローゼットを開いて、服を吟味する。部屋着で寝やすくて、でも最低限の身だしなみがあるもの……。そんなのを探していると、白いワンピースが出てきた。薄い生地で、軽いものだ。


「まあ、これでいっか。」


上からカーディガンでも羽織れば、寒さは凌げるだろう。私はまず制服の胸のリボンを外した。次に、上の制服を脱いだ。少しは汗をかいていているので、制汗シートで軽く体を拭く。そのままスカートも脱いで、足をシートで拭いていった。これで少しはスッキリした。本当はお風呂に入りたかったけど、下にはお母さんがいるし下手に一階に降りてバレたら大変だ。今は制汗シートで我慢しよう。私は白いワンピースを着た。久しぶりに来たけれど、特に何も変わっていないようだ。私は制服を拾って、ハンガーにかけた。シワをしっかりと伸ばして、コロコロもかけておいた。一応には一応を重ねておこう。制服をいつものクローゼットのフックにかけたら、着替えは終わりだ。私は鏡の前に座って、三つ編みを解いた。解いた髪は三つ編みのおかげで、少しウエーブがかかっている。私はくしで優しく解いた。そういえば、戸神さんの髪は長かったな。私も中学生までは伸ばしていたけれど、勉強に邪魔になってバッサリ切ってしまった。それからなんとなく伸ばすのが嫌になって、定期的に切ってもらっていた。戸神さんみたいに綺麗な髪なら、伸ばしても楽しいのだろうけど。私は着替えを終えて、待ちぼうけを食らってしまった。課題をしようかとも思ったけれど、なんとなくそんな気分じゃないし。本を読んでもいいけど、なんとなく頭が痛くなりそうだし。私は手持ち無沙汰になって、スマホを開いた。メッセージにはなんの通知も入ってなかった。そういえば、戸神さんとまだ連絡先を交換してないな、と気づいた。今からは何かと一緒に入る事が多い訳だし、交換しておいて困る頃はない、後で、聞いてみようと私はスマホを握りしめた。そうして光に感謝のメッセージを送ったり、今日のニュースを見ていたりしたら時間は2時をさしていた。


ドアの外から、「彩葉、入るよ。」という戸神さんの声がした。ベットの上に移動して座り、私は慌ててスマホを仕舞い、「はい!どうぞ。」と返事をした。戸神さんは土鍋が乗ったお盆を持って、部屋に入ってきた。


「具合はどう?」


「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。この通り、元気ですから!」


と言って笑ってみせた。戸神さんは、


「それなら良かった。」


と言って、お盆を私に渡した。


「体調が悪いならお粥かな、と思ったんだけど大丈夫かな。」


「戸神さん、お料理できるんですね。」


「…うん。まあ、彩葉程じゃないけどね。」


なんて言って戸神さんは笑った。


「私もそんなにできませんよ。」


といって、私は土鍋を開けた。中には卵のお粥が入っていた。とても美味しそうだ。


「わあ、凄い。とても美味しそうです。」


「ありがとう、あんまり人に食べてもらった事ないから味が心配だけど、大丈夫かな。」


そう言っている戸神さんはどことなく、不安そうだった。確かに、お手伝いさんがいたらご飯なんて作らないよなあ、と思った。私だったら、お手伝いさんに任せて、料理なんて絶対に作らなくなっちゃうけどな、なんて考えながら私はスプーンを手に持った。


「頂いてもいいですか?」


「うん、どうぞ。」


私は確認をとって、スプーンでお粥をすくいひと口食べた。ご飯は程よく煮込まれていて柔らかくて、優しい舌触りだ。卵の味もあいまって本当に美味しい。ほんのり効いているだしが、また美味しさを加速させている。私は思わず頬が緩んで、


「美味しい……。」


と呟てしまった。戸神さんはその言葉を聞いて、安心したように息を吐いた。


「よかった。彩葉の口にあって。」


私はお粥をまたすくって、ひと口食べた。暖かな、優しい味がする。戸神さんはこんな料理が作れるなんて、優しい人なんだな、と思った。人が作ったご飯を食べるのがまず久しぶりだし、こんな優しい味はもう思い出せないくらい昔に食べた気がした。ご飯でこんなに心が暖かくなれるなんてな。私は自分の気持ちが暖かい事に少し驚いた。


「戸神さん、美味しいです。ありがとうございます。こんなご飯は、久しぶりです。」


そう告げると、戸神さんは目を細めてそれはそれは幸せだ、なんて言った顔をした。

戸神さん、こんな笑い方もするんだ……。


「よかった、彩葉の役に立てて……。」


「…………え、。」


「……彩葉が辛い時に助ける事が出来て良かった。やっと家族らしいこと、できたね。」


そう言って笑う戸神さんは、年頃の女の子みたいな笑顔をしていた。絶対に学校ではそんな笑い方、しなかったのに不思議だ。戸神さんはこんなふうに笑える人なんだ。いや、本当はまだ17歳の女の子なんだから、こんなふうに笑うのは当たり前か。ならば、戸神さんはどれだけ普段自分を隠して生きているんだろうか。私はスプーンを持つ手に、力が入った。


「あの……、戸神さん。」


「ん?なあに。」


私は緊張で震える手を抑えながら、思ってることを口に出した。


「私も、戸神さんの役に立てますか……?いや、立ちたいです。家族だから、支えたいです。だから、この家でぐらいは、そうやって笑ってください。」


戸神さんは、びっくりした顔をした。


「え、僕、どんな顔してた?」


私はコロコロ変わる表情に思わず笑ってしまった。


「ふふっ、年頃の女の子みたいな笑い方です、大きくて可愛いパフェが出てきて喜んでる女子校生みたいな顔!」


戸神さんは恥ずかしそうな顔をした。


「僕、そんな笑い方してた?恥ずかしいな、笑顔は練習してるつもりなのに。」


私はふふっ、と笑って答えた。


「そのままの笑顔でいいじゃないですか、確かに学校で笑ってるあの笑顔もかっこよくて好きですけど、私は今の笑顔だって好きですよ。」


戸神さんは恥ずかしそうにしていたけれど、私の方を少し見てから呟いた。


「彩葉は、どっちの方が好き……?」


「……へ?」


「彩葉が好きだって言ってくれた顔で、彩葉と話したい……。」


そのまま戸神さんは俯いて、顔を手で隠してしまった。顔が赤くなってるのを見て、私はさらに笑いが込み上げた。


「どんな顔でも好きですよ、戸神さんが思う気持ちを表情で出せばいいじゃないですか、!」


そう言うと戸神さんは、少しだけこちらに視線を向けた。そんなに恥ずかしいのか、私の方をじっと睨んでいるような感じだ。


「……女の子って、王子様みたいな笑顔が好きなんだと思ってた……。彩葉は違うんだね。」


「王子……様?」


「そう、王子様。女の子はみんな好きだろう?」


「んー、。」


確かに王子様はみんな好きだと思う。特に白草の女子なんかは、みんなお嬢様ばっかりだし。今日も戸神さんは凄い勢いで人気だったし。私も例外じゃなく、王子様は好きだ。少女漫画みたいな王子様が現れてくれたらって、願ってることもあるし。戸神さんはそれをわかってて、あんな笑顔を向けてたのかな……。


「私も好きですよ、王子様。」


私は意気揚々と答えた。


「でも、戸神さんは王子様ではないじゃないですか。戸神侑李って、人間なんですから。だから、王子様になって笑う必要ないですよ、少なくともここでは。」


戸神さんは「そっか……。」と言って、私の横に座った。ベットが二人分の重さできしんだ。


「みんなの王子様になれば、彩葉も好きになってくれると思ってたけど、とんだ思い違いだったね。」


そう言って戸神さんは私の手を取って、握った。


「この家では自分を偽らないようにする、王子様はやめるよ。だから、彩葉も偽らないで。」


戸神さんは私の手を唇に近づけると、軽く口付けた。私はその一連の行為に、思わずときめいてしまった。でも、すぐに笑いが込み上げた。


「ふふっ、王子様みたいな事はやめるんじゃないんですか?」


そう言うと、戸神さんもあの少女のような笑顔で笑った。


「ほんとだね」


私たちは心を開いて、笑いあった。

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