4-2 ワルツ・ローズ
午後二時。五時間目の授業は、白草女学院の寮で行われる。必要な事は制服を着ることと、ヒールのある靴を履いてくること。第二会場と書かれた扉を開けば、そこには風に舞うスカート。飾られた髪。輝きを放つ靴。生徒達の歓喜の声。女の子達の花園が、あるのだ。
「では、皆さん。パートナーを決めますから、その場にいてくださいね」
先生の声で生徒達は話をやめた。この授業だけの間のパートナーだが、それでも誰になるのか、生徒達にとっては緊張せざるおえない時間である。女の子達のペアが出来ていくのを、私は遠い目で見ていた。女の子達の手が繋がれていく。私には程遠い話だった。
私が運動神経が悪いのは、もうだいぶ昔からの話だ。昔から運動はできない。走ればコケるし、ボールを掴めば顔にあたる。運動が私を嫌いなら、私も運動が嫌いだ。と、言うわけでお決まりの通り、私はワルツを踊れないのである。ダンスだけ踊れます、なんて奇跡が起こるほど神様は安くない。惨劇を起こしたのは、丁度去年のこの時期だった。私はダンスならマニュアルだから踊れるだろう、なんて甘えたことを言って、ペアになった女の子の手を握った。私は女の子役だった。それが惨劇の引き金だったのだ。まず私は相手役の女の子の足をこれでもかというぐらい踏んだ。その子は笑って許してくれていたが、内心ドン引きしていたと思う。そして、痛かったと思う。ワルツは女の子役がくるり、と回らなければならないのだが、私は盛大に転けた。その時に足をひねり、ねんざをした。私のワルツ人生は三分で幕を閉じたのだ。相手役の子も流石にドン引きである。そういった訳で、私は基礎運動(腹筋やスクワット)などをする代わりに、ワルツの授業を免除してもらっているのだ。二度と、惨劇を起こさないように。そういうわけで、私は会場の隅っこで、どんどんペアが出来ていくのを見ていたわけである。
光のペアの子は、これまた可愛らしいA組の女の子だった。確か名前は、川原さん、だったっけ。どこかの会社の社長令嬢だった気がする。光は率先して男役をやるだろう。私は微笑ましく、二人を眺めた。ちなみに光と踊ってみたが、結果はバツだった。光ごと転げた。もう二度とワルツなんかしない、と思った。私は会場をぐるり、と見渡した。黄緑の長くてサラサラな髪を探す。すらっとした背丈のおかげか、すぐに見つける事が出来た。――戸神さんは、優しく女の子に笑いかけていた。少しだけ、ほんの少しだけ戸神さんのペアが気になってしまった。相手の女の子はA組の学級委員長、未池田 優子(みいけだ ゆうこ)さんだった。黒くてウエーブのかかった髪が特徴的で、目は翡翠(ひすい)色をしている。話によれば家系の中に外国人がいるらしく、その目の色になったらしい。何を話しているかは分からないが、責任感のある顔は変わっていない。未池田さんなら、ワルツをしたことが無い戸神さんを上手くリードしてくれるだろう。私は勝手に安心して、ほっとしてしまった。そうして胸に手を当てていると、その黄緑の髪がさらりと揺れた。
「…………っ!!!??」
すぐに顔を背け、戸神さんから視線を離す。戸神さんがこちらを向いたのだ。見ていたなんてバレたら恥ずかしい。私はそのまま顔をすばやく背けて、早くワルツが始まるのを待った。ああ、いつも完璧な未池田さんと綺麗な戸神さんのワルツは、きっと美しいんだろうな。私はそんなことを考えながら、会場を眺めていた。目が合ったときめきには、気付かないふりをして。
「はい、みんなペアができましたね!じゃあ去年の復習から!右側の人が女役、左側が男役でいきましょう!」
綺麗なヒールの靴を履いた女の子達は、それぞれペアの子と手を重ねる。その光景は、まるでおとぎ話の舞踏会を彷彿とさせた。
「はい、では、ワルツは主に三つのステップがあります。最初はナチュラルターンから、はい、みんな、向き合って!」
そう指示され、生徒たちは向き合う。男役の子は女役の子の腰に手を添えて、基本の姿勢をとる。これから始まるワルツの予感に、私は胸が高鳴った。
「ワルツはフロアを反時計回りに進んでいきます。ではワン、ツー、スリーの拍子に合わせて、踊ってください」
戸神さんのような転入生になると話は別だが、白草女学院に入った以上ワルツは必須科目で、一年生の時にこれでもかと言うほど叩き込まれる。それをたかが一年ぐらいで忘れないのが、白草の生徒なのだ。なのでみんな、簡単に踊れるわけである。
「ナチュラルターンから、はい!せーの、」
生徒たちの姿勢が伸びて、一気に会場の空気感が高まる。瞬間、制服のスカートがなびいた。
「ワン、ツー、スリー!」
先生の手拍子と共に、一斉に生徒達が足を動かした。押し寄せる波のように、右足を出して、左足を引き寄せるを、繰り返している。その足の開閉が、優雅なダンスを生み出していた。
「ワン、ツー、スリー!」
反時計回りに周りながら、ゆっくりと踊る。ヒールのなる音、舞い上がるスカート、揺れる髪、にこやかに笑うお嬢様たち。全てが完成されていた。何回みても、そう、何度見ても、ここをおとぎ話の世界のように感じるのだ。私は無垢な少女のように、ワルツをただ眺めていた。私にも、踊れたらいいななんて僅かな願いを重ねながら。
―――――――――――――――――――
経験がある、と言うと面倒くさいから黙っていたけれど、ワルツは習ったことがある。はるか昔、小学生ぐらいだった。1年くらいやっていた時期があった。勿論、お稽古事の一つとして。それ以来、やっていないから踊れない、なんて思っていたけれど、案外あっさりできてしまった。
「あら、戸神さん。ワルツは初めてではなくて?」
今日ペアになった、未池田さんは驚いたように僕を見た。僕はなんと言い訳しようかと、考えた。流石にワルツは経験してないと、最初からできない。僕は言葉を濁した。
「あー、実は小さい時に少しやったことがあって……。体が覚えてたみたい」
そんな言い訳をすると未池田さんは、「なるほど」と納得してくれた。
「じゃあ、他のステップも覚えていたりするんでしょうか?」
「いや、……わからない。なんにしても、未池田さんに教えてもらえると助かるな。本当はエスコートもできないなんて恥ずかしいんだけどね」
そう言うと未池田さんは首を横に振った。
「いいえ、恥ずかしいことではありませんわ。みんな、出来ないことはあります。むしろ戸神さんは完璧すぎて、あの頃と何も……っ!」
未池田さんは急に話すのをやめて、口を押さえた。
「……未池田、さん?」
未池田さんは口を手で塞いでいたが、すぐに笑った。
「いえ、戸神さんにも出来ないことはあるのですね。意外です」
僕はそれに頷くしかなかった。
「……うん、僕にも出来ないことぐらいはあるよ……」
そんな話をしていると、先生から号令がかかった。
「はい、みんな。ナチュラルターンは出来ましたね?次はクローズドチェンジ、いきますよー!」
先生の掛け声とともに、みんながまた基本の体勢をする。僕も急いで未池田さんの肩に手を添えた。今は僕が女役でやらせてもらっている。未池田さんも僕の腰に手を添える。確かお稽古事でやっていた時は男役ばかりやらされていたから、女役は少しだけ緊張する。やっぱり僕はエスコート慣れしてしまっているようだ。逆にエスコートされるのは、得意じゃない。
「緊張なさってますか?」
そんな声をかけられて、正面を見ると未池田さんがにこやかに笑っていた。
「大丈夫ですよ、私がしっかりエスコートしますから」
確かに緊張しているのは、確かだった。僕は素直に、
「よろしく、お願いします」
と、返した。
「じゃあクローズドチェンジ、いきますよ。まずは男役が右足を前進させるパターンから。せーの、」
未池田さんは僕の体をゆっくりと引いた。
「戸神さんは、左足を後ろに下げてください」
言われるがまま、僕は足を動かした。
「ワン、ツー、スリー!」
先生の手拍子と共に、フロアを舞うように踊る。
「次は右足を後ろに、その繰り返しです」
僕は未池田さんの言葉を忠実に行った。僕たちのワルツは他の生徒達とそんなに変わりがなかったと思う。やっぱり体は覚えているようだ。足はすいすい、と動いた。
「ワン、ツー、スリー!」
僕は小学生時代のことを思い出していた。かつてワルツを踊っていた女の子は、とても幸せそうな顔をしていた。僕はその時は女の子をリードすることでいっぱいだったけれど、どうしてかその顔が忘れられなかった。
「やっぱり、お上手ですね。運動神経もセンスもあるわ」
未池田さんは笑って僕を褒めた。未池田さんはリードが上手だ。きっと学年内でも上手い方なんだろう。僕は笑って答えた。
「昔の名残ですよ。それに未池田さんのリードが上手だから……」
未池田さんは少し笑って、
「ワルツは好きだから、張り切ってしまうんです」
なんて言った。
「はい、みんな踊れましたね!じゃあ最後!リバースターンです」
未池田さんは僕に笑いかけた。
「戸神さん、もう全部思い出していますでしょう?私が教える事はありませんね」
僕は意外な発言に、言葉が行き詰まった。
「そんな、僕はまだ踊れな……」
「戸神さんなら出来ます、ほら!」
未池田さんは僕の腰に手を置いて、体を引いた。先生が号令をかける。
「では、手拍子に合わせて踊ってくださいね、いきますよ!せーの、」
仕組み自体は、今までの応用だった。右足を出し、左足を出し、進めながら半回転回る。それを手拍子に合わせて合わせる。
「ワン、ツー、スリー!」
先生の手拍子が響く。未池田さんはあんなに熱心に指導してくれていたのに、今は何も言わない。ただ澄ました顔をして踊っている。僕は体が覚えている事をただ信じながら、足を動かした。
「ワン、ツー、スリー!」
後ろにくるり、と回る。未池田さんが腰を掴んでくれているから出来るものの、遠心力で吹き飛ばされてしまいそうだ。女の子役って意外と怖いんだな、なんて僕は考えていた。
先生の手拍子が止み、僕たちは踊りを止めた。未池田さんは満足そうに笑って、
「なんだ、ちゃんと踊れるじゃないですか」
なんて言って笑って見せた。未池田さんは案外お茶目というか、よく笑う人なんだと思った。A組の学級委員長と聞いていたし、見た目もしっかりとしていたから堅い子なのかと思っていた。どうやらそれは僕の勘違いだったようだ。未池田さんは、本当に花のように頬を赤らめて笑った。
「流石は王子様、ですね」
その言葉に僕は、こくりと頷いた。それはよく言われることだけれど、それよりも今は、未池田さんの笑顔が僕は微笑ましかった。
「よかった、未池田さんに恥をかけない踊りが出来て」
僕も笑いかけてそう言うと、未池田さんはふふ、と笑った。
「噂通り、なんですね」
僕は頭にはてなが浮かんだ。
「噂って、何かあるの?」
未池田さんはまた笑って、僕に答えた。
「言う事も全部、王子様なのっ!」
そう言って笑う未池田さんは、咲き綻ぶ薔薇の様だった。その頬は赤い薔薇の色に染まっていた。
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「では、一回自由に踊ってみましょう」
去年の復習は終わったようで、先生は一回通しでやってみることを指示した。生徒達はさらに広がって距離を取り、会場いっぱいに広がる。煌びやかな足元はお嬢様達をさらに輝かせていた。
「じゃあ、流しますよ」
そう言って先生がスピーカーのボタンを押すと、優雅なクラシックが流れた。生徒達は音楽に合わせて、ステップを踏み出す。だが、一見舞踏会の様に思えた会場は、とあるペアのダンスにより、その独壇場となっていた。会場の真ん中で、優雅に踊って見せているのは戸神さんと未池田さんのペアだった。ふわり、と制服のスカートは風に乗って舞い、煌びやかな靴を鳴らしている。戸神さんの黄緑の髪が婉曲を描いて回っている。足の動きから、体の動きから二人はピッタリで、本当に美しいワルツだった。私はその二人に、いや、厳密に言えば戸神さんに魅せられていた。会場を自分のものにして優雅に踊る姿は、美しい鳥の様にも思えた。そうして戸神さんがターンをして、回り、振り返った瞬間だった。
「え、……」
ほんの一瞬だった。夢のように淡く、走馬灯の様に早い。ほんの一瞬、目が合った。戸神さんは私を見て、笑っていた。百合のように美しく、赤い薔薇のように頬を染めて。
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会場をくるり、と自由に踊っている所で、とある人影に気がついた。茶髪で、肩より短い三つ編みをしているのは、僕の愛しい愛しい彩葉だった。何故か彼女は誰ともペアを組まずに、ただ僕たちを見ていた。一体どうして……、踊りながら疑問が浮かぶ。曲も盛り上がり、ターンをしようとしたところで彩葉からの強い視線を感じた。
(彩葉、僕を見ている?)
僕は少しだけ企んで、ターンを回った。そうして振り返った瞬間に、僕は最高の気持ちを込めて笑い、彩葉に目線を送った。自分でどんな顔をしているかはわからない。ただ、頬が熱くなっているのを感じた。
彩葉、どうして君は踊っていないの?
彩葉、どうして君は舞わないの?
僕は口元が緩むのを、我慢しなかった。
ああ、きっと踊らせたら、一番美しいだろうな。
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