3-12 何がなんでも君が好き
「やっほぉ、戸神さん!ようこそ、ヘルプへ!」
なんて元気な声とともに蜜枝さんが、扉から飛び出してくる。その顔は満面の笑みだった。
「蜜枝さん、いつもお出迎えありがとうございます」
「いやいや、新入部員じゃないとはいえヘルプに入ってくれるなら、私達は大歓迎だよお!ささ、入って!」
そう促され僕は靴を脱いだ。射場は今日も今日とて、部員たちが矢を射っている。この緊迫した空気にも慣れてきたような気がした。張り詰めた空気の中で矢が空気を割いて行く様子は、とても凛としていて美しい。僕はそれに見惚れながら、奥の弓道部準備室へと案内してもらった。
「神代先輩!戸神さんがいらっしゃってますよお」
そう言ってノックし開けた扉の先で、神代先輩はカップを揺らして驚いていた。
「…………どうしたんですか?」
蜜枝さんと僕は首を傾げる。神代先輩はコーヒーで濡れた手を拭きながら、僕を睨みつけた。
「……どうなってるんだ、お前」
「えっ?」
神代先輩は迷惑そうに僕を見ていた。
「蜜枝、コーヒーはいらない。お前は練習に戻れ」
「あっ、はい。わかりました」
そう言って蜜枝さんは、すぐに部屋を出ていった。部屋には少しイラついている神代先輩と、唖然とした僕が残った。
「神代先輩?僕、なにか変な事でも……?」
恐る恐る尋ねると、神代先輩はコーヒーのカップをシンクに置いた。
「お前に取り巻いてた桜宮の《オーラ》が弱くなってる。ここにお前が来る時は絶対わかるのに、今日はわからなかった。桜宮となんかあったのか?」
神代先輩はカップを水道で洗いながら尋ねてくる。僕は昨日のことを思い返していた。
「いや、特にはなにも。変わった事はないかと思いますが……」
そう言うと神代先輩は、続けて質問した。
「お前自身が、《オーラ》があってもなくても桜宮を好きだ、とか考えが変わってないか?」
胸がドキッとした。昨日の晩御飯の時、そういえばそんなことを思ったような気がする。いや、神代先輩に彩葉の《オーラ》の事を言われてからずっと考えていた。やっぱり僕は《オーラ》があろうがなかろうが彩葉が好きだ。桜宮彩葉は、僕が五歳の時に出会ってから何も変わっていない、僕の唯一の初恋の人。今も思いづづけている人。今更それが⦅オーラ⦆なんて不確かなもののせいだったなんて言われても、僕はそれでも、彩葉が好きなんだ。
「確かに、その通りです。⦅オーラ⦆があろうがなかろうが僕は彩葉が好きだって、そう思ってます」
そう言うと神代先輩は「それだな」と言って、また椅子に座った。
「⦅オーラ⦆を持つ人間からの影響を受けない方法は、近づかない事だったり祓ってもらうこともある。でも、一番の対処策は……」
神代先輩は僕を指差して言った。
「⦅オーラ⦆を受けている本人がそれを自覚し、対処する事だ。お前はそれが出来た。お前から桜宮の嫌な⦅オーラ⦆を感じなくなったのはそのせいだ」
僕はなんとなく事態を理解した。つまり彩葉の⦅オーラ⦆を自覚していれば影響を受けることはない、と言うことらしい。僕は知らず知らずのうちにそれが出来ていたようだった。だから僕から彩葉の⦅オーラ⦆はなくなくなった……と言うことか。
「おい、お前。⦅オーラ⦆が完全になくなったと思うなよ」
「へっ?」
神代先輩からの指摘に、僕は思わず首を傾げた。
「僕から彩葉の⦅オーラ⦆は無くなったんじゃないんですか?」
神代先輩は呆れたように、ため息をついた。
「そんな訳が無いだろう。お前が桜宮と居続ける以上はお前に取り憑く⦅オーラ⦆は消えたりはしない。言っただろう。⦅オーラ⦆の影響を受けたくなければ、⦅オーラ⦆を放つ人間から離れるのが一番だって」
僕はああ、確かになと思った。
「桜宮と関わり続ける限り、お前は取り憑かれたままだ。お前が自覚したから取り憑く力が弱くなっただけの話だ」
そう言って神代先輩は上を仰いだ。僕は話を聞くだけで、もう疲れていた。
「やっぱり、神代先輩の話は難しいです」
そうすると神代先輩は鼻をすんっと鳴らした。
「理解して欲しくて話してる訳じゃない。大体、俺はお前に忠告しただけだ。それを白幸を出してきて、話をめちゃめちゃにしやがって……」
神代先輩は重々しくため息をついた。
「お前と話してると、疲れる」
相変わらずはっきり言うなあ、と思った。僕はそれになんと返す訳でもなく、今日の本題を出した。
「それよりも、今日も基礎訓練ですか?体操服持ってきましたけど……」
神代先輩ははあ、とひとつため息をついてから、立ち上がった。そうして座ったままの僕を見下げる。
「……モチベーションが欲しいだろ、特別だ。射る所を見せてやる」
そう言って、そこに置いてあった弓を持って神代先輩は部屋を出た。
「えっ、あっ、ちょっと待って下さい!」
僕は体操服を投げ出して、神代先輩の後を追いかけた。
「あら、神代先輩だわ」
「神代先輩が弓を持ってらっしゃるわ」
「新入生?見ない顔ね」
静かだった射場は、弓を持った神代先輩が現れた事で一転して騒がしくなった。みんなざわざわしながら神代先輩を見ている。神代先輩は右手を差し出した。
「蜜枝」
そうすると、どこからともなく蜜枝さんが現れて神代先輩に矢を渡した。神代先輩はひとつ、深呼吸をすると両足を開いて体勢を作った。そうして弓を左の膝に置いて、右手は右の腰に当てた。ざわざわとした声が止み、みんなが神代先輩を見ている。
神代先輩はまた一呼吸したあと、右手を弦にかけて的を見た。狙うはきっと、真ん中だろう。そうして神代先輩は体勢を崩さないまま、両腕を頭の上の同じ高さまで上げた。ゆっくりと弓を引く。射場にはとてつもない緊張感が張り巡らされていた。僕は息を飲みながら、その姿を見ていた。神代先輩はそのままの体勢で的を狙い、瞬間、矢を放った。矢は真っ直ぐと的に向かって進んでいき、真ん中よりほんの数センチ離れたところに刺さった。神代先輩は矢を放った体勢をしばらく続けた後に、一礼をした。周りからものすごい拍手が上がる。
「流石、神代先輩の矢を射るお姿は美しいですね」
「やはり部長だけの事はありますわ」
「なんて素晴らしい……この目で見れただなんて」
そんな声が各方面から上がる。神代先輩は僕に一直線に歩いてきた。
「流石に腕が鈍ってた。まあ、部長でも真ん中に中るはのは難しいと思え」
そう言って、僕に弓を渡してきた。
「へっ?あの、」
「この弓は俺のだ。お前に譲るよ。今はまだ使えないだろうが、矢が射れるようになったら使え。じゃあな」
そう言って神代先輩は手をひらりと振った。そのまま準備室に戻っていく。僕はあの神代先輩が矢を射る姿が目から離れず、ずっとドキドキしていた。
___________________
ヘトヘトになりながら校舎を抜けて校門を出ると、見慣れた姿があった。その姿は僕を見て、体を翻してこちらに笑いかけた。
「戸神さん、部活お疲れ様です!」
「彩葉、今日は帰ったんじゃ……」
そう言うと彩葉は困ったように笑った。
「実は報告会の準備で不備があって、部活に出向いてお手伝いしていたんです」
「でも、どうしてここに……?」
「戸神さんと帰る時間、一緒になるかなあって思って待ってしまいました。……ごめんなさい、ご迷惑でしたか?」
そう言って心配そうに僕を見る彩葉は、疲れ切った僕にとっては天使のように見えた。僕は彩葉に近づくと、彩葉の背中を押して僕の方に抱き寄せた。
「わっ!と、戸神さん!」
「ありがとう、疲れなんか全部吹き飛んじゃった」
「戸神さん、ここ、外ですよ!」
僕は彩葉のそんな声を聞きながら、彩葉に少しだけもたれかかった。彩葉の暖かい体の体温が、僕の冷たい体に染み込んでいく。
「熱いなあ……」
彩葉を抱きしめながら、僕はそんな事をボソッと呟いてみた。
「じゃあまだ、弓は持たせてもらえないんですね」
彩葉は僕の少し先を歩きながら、そう尋ねた。日はもう完全に落ちていて、群青の空に街灯の灯りが映えていた。彩葉の影がゆらゆらと風に揺れている。
「うん。弓が引けるのは、多分一ヶ月後ぐらいかなあ」
そう言うと彩葉は
「運動部は大変ですもんね」
と言ってさらに先に道を歩いていった。僕も置いていかれないようにしながら、歩を進めていく。
「でも、夏休みに入ったら三年生は引退ですよね。誰が戸神さんに指導するんでしょうか?」
確かに、言われてみればそうだった。今は七月の中旬だ。そろそろ夏休みに入るだろう。神代先輩は当然受験があるから、もう部活には来ないだろうし。そうなると……、
「蜜枝さん、とかかなあ……」
僕に弓道を教えてくれそうな人なんて、蜜枝さんしかいなさそうなイメージがある。いや、むしろそうがいいなあと思った。それはそうとして、今日の彩葉の足取りは、なんだかいつもより軽いように感じた。
「彩葉、何か良い事でもあったの?」
僕がそう尋ねると、彩葉は驚いたような顔をして足を止めた。二人の間に夏の涼しい風が吹く。
「あれ、どうしてわかったんですか?もしかして、戸神さんはエスパーですか?」
彩葉は楽しそうに笑いながらそう告げた。彩葉が学校の事でこんなに楽しそうなのは、初めて見たような気がした。
「実は今日、白幸先輩から部長に指名したいって言われたんです。私なんかに出来るかなって思ったんですけど、白幸先輩の後を引き継げるなんて、そんな光栄なことはないなって思って……」
僕は純粋に彩葉を祝福した。
「それはおめでとう、彩葉。彩葉の部活内での頑張りが認められたんだね」
「そんな、私は大した事してないですし……」
なんて否定はしているものの、彩葉はとても嬉しそうだった。彩葉が嬉しいと、僕も嬉しい。僕は思わず顔が綻んだ。
「……良かったね、彩葉」
そう呟いた声に、彩葉は「はいっ」と小さく頷いた。群青の空を見上げると、星が見え始めていた。
「さあ、早く帰りましょう」
そう言って体を翻した彩葉は、やっぱり軽い足取りで帰路を歩いていった。その体は羽のように軽く、飛んでいきそうだった。
「うん、そうだね」
僕はその羽を逃してしまわないようにしながら、彩葉の後を追った。
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日が完全に落ちた群青の空からは、眩い星たちが輝き始めていた。部員のみんなはもう帰ってしまった。弓道部に残っているのは、神代先輩と私の二人だけだ。夜の静けさが部屋を飲み込んでいきそうだった。私は未だ椅子から腰を上げない神代先輩に、声をかけた。
「神代先輩、もう帰宅時間ですよ。夕食の時間が始まってしまいます」
そう声をかけても、神代先輩は反応しなかった。私たちの住んでいる寮は、午後七時から八時までしか食堂が開いていない。これを逃してしまえば、朝まで何も食べれないのは確定なのだ。私は一向に反応しない神代先輩に痺れを切れして、椅子に近寄った。
「神代先輩、もう帰りますよ……」
そう言って出した声を、私は抑えた。いつも物事を鋭く見つめている目が、静かに閉じられていたのだ。反応がなかったのは眠っていたからなのか。私は仕方がないんだから、と思った。こんなところで眠っていたら幽霊に喰われてしまいますよ、なんて言いたくなるのを抑えて、私は神代先輩の肩に手を添えた。そうして優しく揺らす。
「神代先輩、こんなところで眠っていないで帰りますよ……」
そう言って優しく肩を揺らすが、反応はない。
「もう、神代せんぱ……っ」
その時、赤い唇がゆっくりと開かれた。
「みつえ、だ……」
私の名前を呼ばれ、思わず固まってしまう。体が熱くなり、頬が赤くなるのを感じる。起きてるのかと、顔をそっと覗いたがやはり眠っていた。
「どうして、名前なんか呼ぶんですか……」
私は神代先輩が眠る椅子の下に、うずくまった。近くに神代先輩の白い手が見えている。私は熱る体を抱えながら神代先輩を見上げた。
「馬鹿……」
私は喉から溢れ出しそうな感情を、グッと抑えた。こんな所で泣いてはいけない。そんな理性が私を止めた。その白い手は後、数センチ私が手を伸ばせば触れてしまいそうだった。でも、そんな事は出来ない。私がこの人に触れる事は、叶わない。私はそのうち顔を見るのも辛くなって、顔を埋めた。
その四文字を、言ってしまえば戻れない気がした。私達の先輩後輩という関係も、学院の生徒だということも、今まで築き上げた関係も、全部無駄にしてしまう。そう思うのに、人間という生き物は魔が刺してしまう。私は神代先輩が起きていないことを確認してから、そっと呟いた。
「好き、です」
小さく掠れた声は、夜の闇に溶けて消えていった。
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