9-1 思い出をひっくり返すように現れる
のどかな土曜日の午前10時。僕と彩葉は玄関前の庭にいた。9月の太陽はまだ暑くじりじりとコンクリートを焼いていた。彩葉はどこからか出してきた麦わら帽子を頭にかぶっていた。暑さのせいで汗が出てきて、シャワーを浴びたい気持ちになったけれど、今日は彩葉のお手伝いだからと、自分に言い聞かせて、僕は手を動かした。
今日は庭の手入れをする、と彩葉が言ったので、それを手伝わせてもらっていた。
僕は家族の時間をほとんど過ごしたことがない。まず母親はいなかったし、父さんはいつも部屋にこもっていて、一緒にご飯を食べたりどこかに出かけたり、なんてことはしなかった。まず、父さんは僕とは話をしないのだ。僕の家庭環境がそんなだったから、彩葉の家族の時間は何よりも大切にしたかった。それは彩葉の最初の願いでもあったし。そうして家族の時間を増やして、彩葉の思い出が少しずつ僕で埋まっていけばいいと思う。いつか彩葉が家族の話をするときに、最初じゃなくてもその次には、僕が話題に出てくればそれでいい。そんな思い出作りの為、僕は彩葉の庭の手入れを手伝っていた。
ここの庭は決して大きい訳ではない。玄関前だけの少ない面積だ。けれど、それでもここには綺麗で鮮やかな花が咲き誇っている。寂しいあの家とは全然違う、と思った。ここには色がある。それも彩葉と共に。
「綺麗だね」
そう言う度に、彩葉はいつも少し困ったように笑う。
「ただの寄せ植えですよ。いつまでも忘れられなくて、こうして縋ってるままなんです」
いつか、彩葉はが聞かせてくれた、お母さんの話。元々はお母さんの趣味だったそうで、小さい頃から家族で花を植えていたらしい。それを、彩葉は未だに忘れられない。花を触ることで、お母さんの面影を探しているんだと、彩葉は言った。そう話してくれた彩葉の寂しそうな顔を、僕は忘れられない。大切な彩葉の思い出が、少しでも綺麗になりますように。少しでも楽しいものになりますように。そう願いを込めて、僕は彩葉の傍にいる。
9月の涼しい風が、背中を撫でた。僕と彩葉は花切りハサミを持って、ひと房ずつ丁寧に花を見て回っていた。ガーデニングはしたことがない僕に彩葉は丁寧に教えてくれた。
「お花は枯れた花や葉っぱがあるとすぐに広がってしまって、花が早く枯れる原因になるんです。なのでこの花切りハサミで、枯れてるものは摘んであげるんです」
僕はなるほど、と話を聞きながら、花に手を差し出した。一見、綺麗に見える花でもその下では枯れていたりするものがあった。それを、花切りハサミで丁寧に摘み取っていく。僕が慣れない手つきであたふたしている中、彩葉はどんどんすすめていっていた。彩葉は手を動かしながら、僕に尋ねてきた。
「戸神さん」
「うん、どうした?」
「学院は慣れましたか」
突然の質問に少し戸惑ったが、僕はすぐに答えた。
「うん、転入して実質はもう3か月目だし、テストも受けたし、もう慣れたかな」
そう言うと、彩葉は納得したように
「そうですよね、もう3か月も経つんですよね」
と頷いた。僕はその言葉に何も言うことがなく「うん」とだけ返した。彩葉は少し考えるような素振りを見せてから、また口を開いた。
「ここに来て3か月経って、戸神さんは寂しくなったりはしませんか?」
「……寂しい?」
「はい。誰かに会いたくなったり、前の学校の友達が恋しくなったりしませんか?」
ぱちん、と花切りハサミの音が鳴る。僕は手を止めて、少し考えてみた。
ここに来て3か月。いろいろあったけれど、寂しいだなんて思うことはなかった。別に前の学校でも大して親しい友達がいたわけでもないし、家は家でお父様と関わることなんてなかったし。むしろ、こちらに来て彩葉と生活し始めてから方が、精神的な意味で生活は彩った気がする。用意されたご飯を食べて、用意された服を着て、用意された稽古をただこなすだけの毎日じゃなくて、自分で何でもやる方がよっぽど人間らしいし、楽しい。そんなことを教えられた3か月だった。だから僕は言う。
「ならないよ。彩葉との生活が楽しいから、前のことなんて思い出さない」
そう言うと、彩葉は「……そうですか」と言って、また花切りハサミをぱちんと鳴らしたい。彩葉が花を触っているのに暗い顔をしているのは、少し珍しかった。
「……私も楽しいです、今の生活。でも、まだ混乱してます。なんというか、どうしても、お父さんとお母さんがいた頃が忘れられなくて。私だけが、あの幸せな生活を覚えているのかなぁ、って思ったら……」
ぱちん、と音がして、緋色の花が地面にぱたり、と落ちた。僕はそれを信じられない目で見ていた。だって彩葉が手元を狂わせるなんて、珍しすぎるからだ。彩葉は足元に落ちた花を見て「あ」と声を漏らした。
その時だった。
「彩葉!」
話を遮るように、遠くから、男性の声で、はっきりと彩葉を呼ぶ声がした。驚いて彩葉と2人、声のした方を見ると、こちらに向かって手を振る中年ぐらいの男性がいた。僕は誰かわからず、彩葉の方を見ると、彩葉は目を丸くしてその男性を凝視していた。
「……彩葉?」
すると彩葉は、男性を指さして言葉を零した。
「お父さん」
「……え?」
「あれ、私のお父さんです」
目先の男性は、彩葉に向かって手を振った。
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