9-2 彩葉のお父さん、僕のお母さん

「あれ、私のお父さんです」


 そう言って彩葉が指さした先の男性は、こちらに来て帽子を頭から取った。


「やぁ、彩葉。久しぶり」


 男性は少しぎこちない様子で彩葉の名前を呼んだ。彩葉は男性を見て茫然ぼうぜんとしていたが、すぐにはっとすると「お父さん。どうぞ、上がって」と言って、庭の隅に花切りハサミを置いて、バタバタと家の中に入っていった。僕と男性はそこに取り残されてしまい、僕はどうしようか、と立ち尽くしてしまった。すると男性は僕の方を向いた。


「あの、もしかして戸神さんちのお嬢さんかな?初めまして、彩葉の父の、桜宮祐介さくらみやゆうすけです。急にお邪魔してしまって申し訳ない……」


 と、頭を下げた。僕は動揺しつつ、すぐに


「初めまして、戸神侑李です。いつも彩葉さんにはお世話になっています」


 と、頭を下げた。祐介さんは「彩葉は変わりないですか」と心配そうに尋ねてきたので、「はい。あ、家の中にどうぞ」と言って、僕も花切りハサミを隅に置いて、祐介さんを家の中に招いた。


(ここは、元は祐介さんの家なのに……)


 と、思った気持ちは、そっと胸の中に仕舞った。





 家の中に祐介さんを入れて一緒にリビングに入ると、彩葉がすでにお茶を用意していた。彩葉はすぐに「お父さん、ここに座ってどうぞ」と彩葉から見て正面の椅子を勧めた。僕は彩葉に「ごめん、手洗ってくるから」と言った。彩葉はこくり、と頷いた。彩葉と祐介さんはもう話を始めていたので、僕は急がずに洗面台に向かった。



 ガーデニングで汚れた手袋をつけたまま、僕は石鹸で丁寧に洗った。手袋についた土を見て、初めて背中が少しぞっとした。うん、潔癖症にガーデニングは厳しかったか、なんて考える。が、彩葉がいるとやっぱり潔癖症は緩和される。彩葉が触れるものは綺麗だと頭が認識する。だから、触れる。彩葉の存在が結局どれほど大きいのかが、やっぱり身に染みるのだ。そんなことを思いながら手袋を外して素手を洗ったら、やっぱり少し背中に寒気が走った。


 リビングに戻り、彩葉の隣の椅子に腰を下ろす。座ってすぐ、僕は少し驚いてしまった。それは彩葉のテンションがとても高かったからだ。彩葉は嬉しそうに祐介さんに話をしていた。その姿はなんだかとても子供らしくて、僕が初めて見た彩葉の一面だった。彩葉は僕が席に着いたのを見ると、こほん、とわざとらしく話を区切って、また口を開いた。


「お、お父さん、!あの、紹介するね。戸神さん、戸神侑李とがみゆうりさん。7月にこの家に来たの。それから一緒に暮らしてる」


 僕が頭を下げて「お世話になっております」と言うと、祐介さんは「いえいえ」と言ってまた丁寧に頭を下げてくれた。そうして次に彩葉は僕を見た。


「それで、戸神さん。この人は、私のお父さんです。桜宮祐介さくらみやゆうすけ


 祐介さんは僕を見て「改めまして、彩葉の父です」と言ったので、僕は「改めて初めまして」と返した。


 彩葉は一安心、という風に息を吐いた。


「今の関係だと、彩葉とは義姉妹になるのかな。いやぁ、彩葉にこんな立派な娘さんがお姉さんになったなんて、嬉しいなぁ」


 祐介さんはそう言うと、お茶をすすった。彩葉が少し気まずそうにしながら「うん」と呟いた。それもそうだ、と思う。祐介さんからすれば、僕は元奥さんの不倫相手の子供。その子供が自分の子供と義姉妹になって、しかも自分が住んでいた家に我が物顔でいるわけなんだから。祐介さんからしたら、怒り出してしまっても仕方ない状況だ。祐介さんは平穏な顔をしているが、僕からすれば背筋が冷や冷やするし、彩葉からすればもっと気まずいだろう。祐介さんの言葉に二人して何も返せずにいると、祐介さんは湯のみを置いて、口を開いた。


「……彩葉も戸神さんも、そんなに気負わないでいいんだ。むしろ、大人のごたごたに巻き込んで申し訳ない」


 その言葉にはっとしたのは、僕も彩葉も同じだったと思う。そんなことを言われたのは、きっと初めてだったからだ。僕が彩葉の家に飛び込んできた事情も、母親が帰ってこない事情も、その全てので責任や事情に関して、「大人のことに巻き込んでごめんね」なんて言う人はいなかった。自分のことしか考えない、身勝手な大人ばかり。彩葉はすぐに首をぶんぶんと振った。


「こんなことになったのに、私、何もできなくて……。私の方こそ、ごめんなさい」


 「彩葉のせいじゃない」と言わなかったのは、それは僕が言うことじゃない、と思ったからだ。それは、僕が言えることじゃない。言っていいことじゃない。それを今、彩葉に言っていいのは、祐介さんだけだ。だから、僕は口をつぐんだ。


「彩葉は何も悪くない。あのお母さんのことだ。僕がいなくなった後も苦労しただろう。……戸神さんも。急に新しいお母さんが出来て、大変じゃないかい?」


 その質問に、僕は唖然としてしまった。そうして、今までの自分の認識がおかしかったことに気が付く。


「いえ、確かに急でしたけれど。今は彩葉の方が心配ですから」


 そんなことを言うけれど、僕は自分で自分にショックを受けていた。


(あの人を、お母さんだなんて、一度も思ったことはなかった)

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