8-3 君がいるから味がするもんだ

 カチ、カチ、カチ、カチ。


 時計の針の音が部屋に響く。


 カチ、カチ、カチ、カチ。


 ふと、見ていた教科書から意識が浮上した。


 しばらく集中していた気がする。猫背になっていたのか、少しだけ背中や腰が痛い。私はうーん、と腕を上に伸ばして背伸びをした。関節が伸びていく感触がする。凝り固まった体にはちょうど気持ちがいい刺激だった。電源を消していたスマホに手に取って、電源をつける。Wi-Fiが付いてすぐに何件かメッセージが来ていた。


『光:いろりん、引きこもり中?』


 2時間前に来ていたメッセージは、光からだった。私ははっとして時計を見た。


時計は既に午後7時を指していた。私が勉強を始めたのが3時ぐらいだったから、メッセージが来てからもう2時間は経っている。電源を落としていたから、光のメッセージに全然気が付かなかった。今頃光は晩御飯中だろう、が、しっかり返事を返した。


『ごめん、今見た。なんかあった?』


 それだけ送り、私はスマホを机に置いた。


(そろそろご飯、食べておくか。)


 私は部屋のドアにゆっくりと向かった。そうして恐る恐る静かに扉を開けた。隣では戸神さんが勉強している。音を立てないようにとしながら、私は静かに扉を閉めて、一階に降りた。リビングは埃一つ無く、綺麗に掃除されていた。ダイニングテーブルの上を見ると、ラップがかけられたお皿と小さな紙が置かれていた。その紙を手に取って、読んでみる。


【彩葉さん、お勉強頑張り過ぎずに。温めて食べてくださいね。おにぎりばかりで飽きませんか?何かリクエストがあったら言ってくださいね。】


 それはお手伝いさんからのメッセージだった。私のことを心配してくれるのか、お手伝いさんは時々こうしてメモを残してくれている。この引きこもり機関の唯一の安らぎだ。私はリビングのペン立てからペンを一本取って、そのメモの下にちょこちょこ、と書き足した。


【ご心配ありがとうございます。おにぎりが一番食べやすくていいんです。テストが終わったらまた煮物作ってください。今食べたら気が抜けちゃいそうなので(笑)】


 それだけ書くと私は、ダイニングチェアに腰かけた。そうしてラップをはがし、おにぎりを一つ手に取って口に入れた。


(ああ、この味だ……)


 テスト期間はいつもこれを食べているから、いつの間にか私の中でおにぎりはテスト期間を思い出させる味になってしまっている。これを食べていると「私、引きこもってるなぁ」なんて少し自分を達観してしまうのだ。ダイニングテーブルの下だけ電気をつけているので、暗がりの方が部屋を占めている。窓から夕陽が落ちた後の赤い雲が遠くでほんの少しだけ見える。夏は日が落ちるのが遅いけれど、もう9月だ。今からはどんどん日が落ちていくのが遅くなっていくだろう。私はそれを少し思いながら、次のおにぎりに手を伸ばした。


(あ、)


 窓の外から目線を戻して、ダイニングテーブルに向かい合って思い出した。心細いのはいつものことで、しかも電気もつけていないから尚更なのに、なんだか今日はいつもよりずっと心細いような気がしていた。その正体に、気が付いた。


(戸神さんだ)


 戸神さんがいない。それが心細さの正体だった。戸神さんがこの家に来て、初めて一緒にご飯を食べてから、思えばずっと一緒にご飯を食べてきた。こんな風にばらばらになるのは、この2週間が初めてかもしれない。いないはずの私の正面で、戸神さんが笑っているような気がした。いつもみたいに「彩葉のご飯は美味しいね」なんて大げさにほめて見せる戸神さんが見える。いや、頭の中で、だ。だってここに、今、戸神さんはいないから。


(変だな、味が薄い気がする)


 おにぎりはいつものように美味しいのに、何故か少しだけ、何かが足りないような気がした。いつもの塩っ気だって中の具材だって何も変わらないはずなのに。なんでだろう、なんて考えて、あ、と思いつく。


 いつか、戸神さんに言われたことがあった。そうだ、あれは初めて戸神さんが家に来た日で、初めてご飯を食べてもらった日。


『桜宮さんと一緒に、毎日ご飯食べてもいいかな?桜宮さん一人でご飯食べさせないって、約束するよ?』


 あの時は、そんなの、そんなこと戸神さんがしなくたって、なんて思ってしまっていたけれど、思えば戸神さんはその約束を一度も破らないでくれていた。帰りが遅くなっても、どんな日でも、いつでも食卓で私を待っていてくれていた。


(そうだ、戸神さんは私の家族になってくれていたんだ。もう、とっくに)


 だからだと思った。戸神さんが私のご飯を食べて美味しいと笑うあの顔が、料理を美味しくしてくれていたんだ。戸神さんがいないから、美味しいご飯も味がしないよ。なんて、私は自傷的に笑ってしまった。


(戸神さんを恋愛的に好きかどうかはまだわからないけれど、それでも、私にとって戸神さんは、かけがえのない……)


 今すぐにでも、メッセージを送りたくなった。戸神さんの部屋の扉を開けたい。


「会いたい」と、言いたい。

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