番外編 私一人の恋じゃない
泣いても泣いても現実は変わらないし、泣いても泣いても夜は明け朝は来る。そうして私もあの人も、ちゃんとこの学院の中で生きている。その事実が憎らしい。
今日も今日とて、私は弓を引く。あの人がいなくなった弓道部は何も変わらないようで、毎日がやけに静かだ。もうあの奥の準備室にも、この射場にもあの人は立たない。そう分かっているのに、やはり頭のどこかであの人の面影を探してしまう。射った矢は真ん中からは大きくそれたものの、的には当たった。私はふう、と息を吐いて弓を下ろした。
「やっぱり、似ていますね」
ふと、後ろから声をかけられて振り向くと、名波さんがお行儀よく立っていた。
「名波さん、お疲れ様。これは、今更自分流には変えられないから……」
そう言うと名波さんは私に笑いかけた。
「少し、お休みしませんか?今日は私達だけですし」
「あれ、そう、だっけ」
「はい」
名波さんに言われて私は周りをぐるりと見渡した。そこには私以外の人は誰も立っておらず、私と名波さんの間を風が通り抜けていくだけだった。
「忘れてしまったんですか?蜜枝さんが部員全員にお休みを出したのに」
「……うん、そうだった」
私は射場から離れ、弓を仕舞った。
名波さんはそれを見ながら、私に話しかけた。
「蜜枝さん」
「ん?何?」
「……私にも紹介してください。あのお部屋」
「……!」
「蜜枝さんと神代先輩の思い出の場所、なのでしょう?」
私はごくりと息を飲んだ。あの人と別れを告げて以来、私は準備室の扉を開けていないからだ。あの日からもう、二度と開けられないと思った。扉を開けたら思い出が蘇るようで、嫌なのだ。でも、名波さんは一度言ったら聞かない人だ。言葉数の少なさからそれがうかがえる。私は観念して「うん」と返事をした。
「もう、ずいぶん開けてないから、埃っぽいかも。ごめんね」
「大丈夫です。かまいませんわ」
私は名波さんに一言断ってから、準備室の扉を開けた。開けた先の部屋は、何も変わっていなかった。置かれた机も、ソファーも、何もかもが、そのままだった。
「まるで準備室ではないですね。一体どこからソファーを持ち込んだのでしょうか」
「私が来た時からもうずっとあったから、わかんないな」
私はソファーの埃を手で払って、名波さんに座るように勧めた。名波さんは「ありがとうございます」と一礼して、ソファーに腰かけた。そこはいつも私が座っていた位置だった。
「珈琲と紅茶、どっちがいい?」
「あ、いえ、そんな気遣いは……」
そう言って謙遜する名波さんに私は告げた。
「いいんだ。神し、いや、あの人は、いつもこの部屋で珈琲を飲んでいたから。私も紅茶を飲んで、いつも部活を少しさぼって雑談に花を咲かせてた。どうせこの部屋にはもう誰も来ないんだから、最後のお客様として一杯飲んでいってよ、名波さん」
そこまで言い切って笑うと、名波さんは強い視線を私に向けた。
「……では、珈琲を」
「はぁい」
私はいつものように、いつもしていたように、シンクに向かって作業を始めた。今思えば不思議だが、ここには何故かキッチンがある。ちゃんとガスコンロもあって、シンクもあって、ちゃんと料理が出来る。私はやかんに水を注ぎ、コンロに置いた。
そうして自分の分と名波さんの分のティーカップを出す。そのカップに触れて、思い出した。
(あの人、このカップ忘れていったんだ)
私は陶器の青いティーカップを優しく撫でた。撫でる度に何かを思い出しそうで、すぐに撫でるのをやめてしまった。私はシンクに背を向けて立ち、名波さんの方を向いた。
「名波さん、砂糖とミルク、どうする?」
暗い気持ちをかき分けるように私は名波さんに聞いた。名波さんは迷いもなく、はっきりと
「神代先輩と一緒にしてください」
と、言った。少し動揺したけれど、ぎこちなく「うん」と返事をしておいた。あの人が珈琲をブラックで飲むことは、一体この学院のどれぐらいの人が知っているのだろうか。あの頃は、あの人を好いていた時は、願わくば私だけが知っていてほしいと思っていた。この学院でも、いや、この世界の中でも、あの人の飲む珈琲を作るのも、その作り方を知っているもの、私だけだと思っていたのだ。そんなことを、本気で信じていた時のあの頃が、今はもうずいぶんと遠い。
やかんがピー、と沸騰した知らせを鳴らしたので、私はコンロからやかんを引き上げて、二つのカップにお湯を注いだ。そうしてやかんを置いて、あの人がお気に入りで飲んでいた珈琲の粉をお湯に溶かした。香しい珈琲の匂いが部屋に充満する。私とあの人の思い出が、蘇る。いつも、いつまでも続くなんてそんなこと思っていた日が、どうしてこんなに愚かしく感じてしまうのか。そんなのは、今の私には到底、わからない現象だった。
私は名波さんの前に、あの人にやっていたように、カップを机に置いた。コトリ、と控え目にカップが音を鳴らす。そうしていつものように、あの言葉を言う。
「熱いですから、気を付けてくださいね」
そうしたらあの人は、あのサラサラの黒い髪を自慢げに揺らして、私に「ああ」って言うの。そうしたら私は「そっけない返事ですねぇ」って笑うのに。
「ありがとうございます。いただきます」
目の前にいるのは、もう違う人だ。私の大好きだった時間も空間も何も、どこにももういない。今、あるのは名波さんと私だけ。進まない、進めない私だけ。
名波さんは流石お嬢様、と言いたくなるような風格で珈琲を飲んで見せた。そうして一口飲んですぐにせき込んだ。
「こほっ、けほけほ、あの、どうしてブラックなのですか……?」
名波さんは何か言いたげに私を見た。私はあはは、と優しく微笑んでみた。
「名波さんが言ったんじゃない。あの人と同じでいいって」
そう言うと名波さんは少し何かに気づいたような顔をして、珈琲を見た。
「……そうでした。神代先輩はいつもこれを?」
「あの人は、ブラックだったような、そんな気がしなくもないかな。もうだいぶ前のことだからね。あはは、どうだったっけ」
私ははぐらかすようにそう言って、自分のカップにインスタントの紅茶パックを入れた。そうしてそのカップを持って、あの人の座っていたソファーに腰かけた。初めて座るその位置から見えた景色は、意外にも平凡なものだった。
(いつも笑っていたから、何か楽しいものでもあるのかと思っていた)
そうじゃないなら、あの人は何を見て……。
「忘れていないでしょう」
名波さんは平然とした顔をして、私に言った。
「……え?」
「蜜枝さんが神代先輩のことを好きなのも、振られたもの、全部知っていますから」
少し、目の前がくらくらした。ばれているなんて、思っていなかった。
「ごめん、いつから……」
「他の人だったら、気づいていないと思います。私だからわかった。だって、」
そう言って名波さんは私を真っ直ぐに見た。
「私も神代先輩のこと、好きですから」
その時、全ての意味を理解した気がした。名波さんがこの部屋に入りたがったのも、その珈琲を飲みたがったもの、その理由は全て神代先輩のことが好きだったから、か。神代先輩のことが好きだから、同じ人を好きになった私のこともきっと気づいたし、同じ人を好きになったから私の失恋も、言わずともわかる。全部、名波さんは全部、見ていたんだ。私はすぐに顔を上げた。
「ごめん、名波さん。私、何も気づかずに……!」
「蜜枝さん。神代先輩、白雪先輩に告白したそうですよ」
今度こそ、目の前が真っ白になった。
「……え、」
「失恋した白雪先輩に「俺で慰めていいから」って告白したそうです。蜜枝さん、ずっとお部屋に引きこもっていたから、知らなかったでしょう?」
「……ぁ、……っ、どう、し、」
「どうして、は私が聞きたいですよ。どうして、貴方じゃないんですか?」
「どう、して?」
「神代先輩があんなに可愛がっていたのは、貴方だけじゃないですか。貴方に熱心に弓道も教えて、貴方とこの部屋で笑いあって、貴方は神代先輩の一番近くにいて、どうして貴方じゃないんですか?」
「……っ、!」
「私は、私は貴方だったらいいって、諦められるなって、思っていたんですよ」
ほろほろと、名波さんの制服に涙が染み込んでいく。こんな名波さんは、こんなにも弱い名波さんを、私は初めて見た。その涙が、どれだけ神代先輩を好きだったのかを語っている。
私だってわからない。でも、神代先輩が好きな人がいたんならそれでいい。もう、私ものことも忘れて、すべて忘れて、私ももうあの人の名前を呼ぶことは二度と無くて。それでいいと、多分、思う。
「ごめん、名波さん。私じゃね、多分あの人のお目にかかれなかったんだと思うんだ。私じゃ駄目だった。けれど、理由が分からないんだ。私、あの人に好きだって事すら言えなかったんだもん。こんな弱い私は、きっと神代先輩を好きになる資格もなくて……」
「神代先輩は、貴方がいたから、ここにいたんですよ」
「……え、」
「貴方が笑って迎えてくれるから、ここにいたんじゃないですか。貴方がここにいて神代先輩を迎えるから、神代先輩は安心してここにいたんですよ」
そう言って、名波さんは顔を上げた。
「私は、そんな貴方だから、この恋を諦めてもいいって思えたんですよ」
涙に濡れたその顔は、なのに笑っていた。
「……もう、名前呼ばないんですか?」
私ははっとして、すぐに笑った。
「……ごめん、もう呼べないよ。いや、呼ばない」
名波さんは泣きながらそれを聞いて、また泣いた。私はどうしたらいいかわからなかった。こんな風に泣く名波さんのことも、白雪先輩に告白した神代先輩のことも、処理し切れなくて、どうしようもない。
(とんでもない恋をしていたんだ)
名波さんの泣いている姿の先で、この部屋で笑いあった神代先輩の姿が見えたような気がした。
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