クレオンブロトス王 6

 アフロディアの乳母うばは悩んでいた。


 (私のしたことは本当に良かったのだろうか?


 あのアテナイのお方をかくまうのを手伝い、そして今度は、クレオンブロトスさままで騙すことになってしまう。


 姫さまは、少しの間だけだ、とおっしゃるけれども……)


 目に入れても痛くないほど、かわいがって育てたアフロディア。


 そのアフロディアにすがるように頼まれて、彼女の新たなたくらみに加担かたんすることを承知したものの、不安と心配でじっとしてはいられなかった。


 そこで乳母うばは様子に見にいくべく、盆に飲み物をのせて、クレオンブロトス王の執務室に向かっていた。


 (あのアテナイのお方は、決して悪いお方ではない。


 むしろ誰よりも優しく、穏やかな良いお方だわ。


 姫さまが、あれほど心惹こころひかれるのも仕方ないほどに。


 あんなに幼くして母ぎみさまと父ぎみさまを亡くされた、お可哀想そうな姫さま。


 兄ぎみクレオンブロトスさまも、王としてのお仕事がお忙しくて、なかなかかまって差し上げられない。


 そんな姫さまの寂しいお心が少しでも慰められたら、と思ったのだけれど)


 ぼんやりと考えながら歩いていた乳母うばの目に、うごめく小さな生き物が映った。


「まあ!」


 乳母うばは盆を下に置き、床でもがく小さな生き物に駆け寄った。


 人影を恐れて、ちいちいと鳴きだしたそれをすくい上げる。


「誰がこんなひどいことを」


 それは翼の羽を、短く切られてしまった小鳥だった。


「かわいそうに。これでは猫にすぐ食べられてしまう」


 手の中で、哀れみを乞うように鳴く小鳥を優しく撫でる。


 その時、背後に忍び寄った黒い影が、盆の上の水差しに透明な液体を流し込んだ事に、乳母うばは全く気づかなかった。


 優しい乳母うばは、飛べない小鳥をふところにそっと忍ばせた。


 そして盆の所に戻り、取り上げ、再び歩きだした。


 クレオンブロトス王の執務室に近づくにつれ、世にもたえなる音楽が聴こえてくる。


 (まあ、これもあのかたが?


 なんと美しい音色かしら)


 がくに引かれるように、乳母うばは執務室に入った。


 乳母うばの入ってきたのにも気づかぬほど、ティリオンの奏でるキタラの美しい音色に、他の3人は聴きほれているようだった。


 そう、クラディウスさえも。


 乳母うばは、演奏の邪魔をせぬよう静かに進んだ。


 部屋の入り口近くの隅にある小机で、水差しから高杯に飲み物を……レモンを絞って香りをつけた清水、を人数分注いだ。


 それから部屋の皆に配った。


 クレオンブロトス王の高杯は、机の上に。


 立ったままのクラディウスには、そっと手渡した。


 残りの二人の高杯は、水差しと共に盆にのせたまま、うっとりとしているアフロディアの脇に置いた。


 部屋を満たす、あまりに美しくたおやかな音色に立ち去りかねて、そのまま乳母うばは部屋の隅に立った。


 心をとろかす優しい調べがさざ波となって、ひたひたと全身に寄せる。


 澄んだ音色に、不安だった気持ちまで綺麗に洗われていくようだった。


 やがて静かな余韻よいんを残し、演奏が終了した。


 しばしの感動の沈黙の後、クレオンブロトス王が惜しみない拍手を送る。


「これは素晴らしい! 全く見事なものだ!


 これほどの腕とは驚いた!」


「そうであろう兄上!」


 頬を紅潮させ、嬉しそうな大声でアフロディアが言う。


「ティルのがくはきっとギリシャ一、いや、世界一に違いないと私は思います。


 兄上もそう思われたであろう?!」


「ああ、そうかもしれんな。


 いい音色で、本当に疲れがとれたよ」


 はしゃぐ妹に優しく頷き、クレオンブロトスは、美貌の楽士に穏やかに声をかけた。


「楽士どの、残念ながら私は、め言葉を数多くは知らん。


 だが、そなたの楽の音の美しさ、素晴らしさは、私の倍もめ言葉を知っている者でも、なかなか言いあらわせるものではないだろう。


 本当に良いものを聴かせてもらって、礼をいうぞ」


 目元をわずかに染めた楽士は、銀の髪を揺らして一礼した。


「ありがとうございます。


 お言葉のような、過分かぶんなおめにあずかれる腕とは、到底自惚うぬぼれてはおりません。


 が、にしうスパルタ王のお耳に少しでも叶えば、これにまさる名誉はございません」


 部屋の隅で乳母うばがにっこりと微笑む。


 ただ一人、クラディウスだけは苦々しい思いを噛みしめていた。


 (アテナイ人め、器用な奴だ。


 これでうまく皆を騙したつもりだな)


 手に持つ高杯に満たされた液体に、ゆがんだ自分の顔が映る。


 (どうしたらいいんだ。このまま黙っているか?


 いや、相手はずる賢いアテナイ人だ、姫さまにもしものことがあったらどうする。


 たとえ嫌われても、やはり言わなくては)


 くじけそうな決心にかつをいれるように、高杯を口にあてて、ぐいと飲む。


 なんだか苦いような気がしたが、彼の心はもっと苦かった。

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