第五章 陰謀ピレウス港

陰謀ピレウス港 1 *

 王の寝室には、えた臭いが充満していた。


 てっぺんが薄くなってきている茶色の髪。わし鼻が目立つスパルタ将軍フォイビダスは、嫌悪感を隠そうともせず寝室を見回した。 


 壁にぐしゃりと投げつけられた食物。

 粉々に砕けた陶器のかけら。

 引き裂かれて散らばった衣類。

 叩き壊された家具。


 荒廃こうはいした精神そのままを映した部屋の奥に、巨大なベッドがあり、シーツにくるまったかたまりがぶるぶると震えている。


 スパルタ・エウリュポン王家の72歳の老王、アゲシラオスである。


 老王のおい、フォイビダス将軍は、軽蔑の色を浮かべてにやりと笑った。


 (老いとやまいとは、恐ろしいものだな。


 かつての英明王えいめいおうも、いまでは疑心ぎしんにとらわれた、ただの臆病者か)


「わが王よ。フォイビダスでございます。ただいま戻りました」


 シーツの震えが止まった。しゃがれた声。


「……フォイビダス将軍か?」


 シーツの隙間から、黄色くにごった目が注意深くのぞき、骨ばった手がそろそろと出て、来い来いと招く。


 革鎧姿のフォイビダスは、マントをなびかせて歩み、シーツにくるまった王のすぐ近くに寄って、言った。


「アギスの王がピレウス奇襲に出発されてから、ずっとここにこもりきりだそうですな。


 皆、心配しておりますぞ」


 唐突にシーツをはねのけ、アゲシラオス王はフォイビダスの手を両手で、がば、とつかんだ。


 王の顔は、髑髏どくろに茶色の皮を一枚張りつけただけに見えた。


 禿げ上がった頭頂部をぐるりと取り巻く白髪が、汗に濡れて頬と首筋にはりついている。


 痩せた体を包む白い夜着も、ぐっしょりと汗にまみれていた。


 青いというより黒ずんだ唇を動かし、咳き込むように言う。


「予言が……予言があったのだ!!」


「また予言が? どのような?」


 アゲシラオス王の青の瞳は、恐怖を浮かべて空中をさまよった。


「太陽を背負った獅子が、月を食らっておるとの予言じゃ。


 太陽の紋章はアギス王家、月の紋章はもちろんわが王家。


 太陽の獅子に食われて月は欠け、どんどん細ってゆく」


 王の体は、おこりのようにぶるぶる震え始めた。


「そうじゃ。わしの名誉も威光いこうも、そしてこの体、命までも、あの黄金獅子きんじしに食われていくのじゃ。


 あああああああっ! 助けてくれ、このままだとわしはむさぼり食われる。


 食われてしまうっ! 殺される! ぎゃああああああ!!!」


 両手で頭を抱え、わめき出し始めた72歳の老王に、フォイビダスは内心ほくそ笑んだ。


 (ははははっ、いい加減な予言のひとつやふたつ聞かせてやったくらいで、これほど効果があるとは。


 老いぼれ叔父上おじうえの命もいよいよ長くないな。


 私に王位を譲るように、早いとこ遺言状を書きかえさせねば)


 そして、頭を抱えたまま、伏して震える王の肩を揺する。


「ご心配なさいますな。月は欠けてもいずれ、また満ちてまいりましょう。


 それでこそ復活、不死のエウリュポン王家の象徴。


 わが偉大なる叔父上、英明王えいめいおうアゲシラオスも、永遠に不滅でございますとも」


 顔を上げた老王の目に、光がともった。


「そうか、そうか、おぬしの言う通りじゃ。


 月は欠けても又満ちる。いまはこのようなありさまでも、きっと月が満ちれば……」


「そう、いずれ幸運の月が満ちれば、お体も良くなり、かつてのご威光いこうもよみがえりますとも」


 さらに扇動者せんどうしゃの将軍は、言葉を重ねた。


「その上、月を食らい、欠けさせる太陽の獅子を片づけれは、月は二度と欠けることもなく、豊かに満ちたままでおられましょうぞ」


 老王の表情が、狂的な色を帯び始める。


「そうだ、そうだ。あやつを早く始末せねばならん。


 あやつさえいなければ、月は食われて欠けることはなくなる。


 わしの体も元に戻るはずだ。


 あやつを殺せ、フォイビダス!


 スパルタの黄金獅子きんじしなどと呼ばれ、おごり高ぶっておる生意気な小僧を!


 クレオンブロトスを殺せ!!」


「シッ……声がお高い」


 荒廃こうはいした体から発される、独特の臭気に閉口しながらも、フォイビダスはアゲシラオス王の耳に口を近づけた。


「今頃は、アテナイのピレウス港に着いているでしょう。


 そして、待ち構えているアテナイ海軍の手によって、八つ裂きにされる。


 ご心配なさらずとも、クレオンブロトス王の命は今や、風前ふうぜん灯火ともしびです」


 フォイビダスの、薄い唇の端がつり上がる。


「クレオンブロトス王が死ねば、太陽の紋章アギス王家の正統の血を引くものは、もうアフロディア姫のみ。


 あのような小娘、後でどのようにでも料理できるというもの」



――――――――――――――――――*


 人物紹介(二つの王家のある、二王制軍事国家スパルタの人たち)


● アゲシラオス王(72歳)……二王制軍事国家スパルタの、エウリュポン王家の老王。かつては、英明王、とも謳われていたが、老齢と病気で体も心も病んでいる。

 

● フォイビダス将軍(30代後半?)……二王制軍事国家スパルタの、アゲシラオス王の甥。王位を狙う野心家。わし鼻が特徴的。

 病のアゲシラオス王に、クレオンブロトス王のことを悪く吹き込んでいる。

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