陰謀ピレウス港 2

 アテナイ・ポリスの、ピレウス港沖合の、小さな島。


 クレオンブロトス王率いるスパルタの艦隊は、夜陰やいんまぎれて軍船をこっそりと浜に引き揚げ、上陸することに成功していた。


 当時の軍船には船室などはなく、夜間は浜に船を引き揚げて、乗員は陸上で炊事をし休息をとったのである。


 兵と船漕ふなこぎ奴隷たちに食事と睡眠をとらせる指示を出した後、クレオンブロトス王は、浜の簡易テントの、仮にしつらえた簡素な玉座ぎょくざの上にいた。


 王の横には、カーギル近衛隊長。


 そして、王の目の前には、今夜中のピレウス港への奇襲を熱心に勧める、スポドリアス中隊長。


 大袈裟おおげさな身振りで、スポドリアス中隊長が熱弁ねつべんする。


「かのペロポネソスの戦でも、コリントス戦争でも、いつもみじめな惨敗ざんぱいばかりしている軟弱なアテナイ人ども。


 勝者のわれらが色々と温情おんじょうをかけて許してやった事も忘れ、最近の奴らめの増長ぞうちょうぶりは、目に余るものがあります!


 口だけは達者なアテナイ人らめは、口先だけで小ポリス群をまるめこみ、自らの傘下さんかに引き入れては小賢こざしい同盟を結び、性懲しょうこりもなく、我がスパルタに反抗する勢力を作らんとしております。


 王よ、今こそ神がわれらに与えたもうた好機!


 今夜中に一気に攻め込んで、憎っくきアテナイ人どもに、思い切り痛い目をみせてやるべきです!」


「だがな……」


 不機嫌そうな顔をしたクレオンブロトス王が、言う。


「もし、敵の待ち構えているただなかに突っ込んでいくようなことになれば、いくら軟弱なアテナイ人相手といえど、痛い目を見るのはこちらだからな」


 ぽん、と胸を叩くスポドリアス中隊長。


「ご安心ください、大丈夫です。


 私が斥候せっこうはなって確認しました。


 今宵こよいは警備も手薄。アテナイ人どもは、のんきに眠りこけております。


 今夜なら間違いなく、奴らを徹底的に叩きつぶしてやれます」


 自信たっぷりにうスポドリアスに対して、ますます不機嫌になるクレオンブロトス。


 不気味な低い声。


「私の目を節穴ふしあなと思うなよ、スポドリアス。


 人をたばかるのも、それくらいにしておけ」


 たじろくスポドリアス。


 色黒の顔の金壺眼かなつぼまなこが、きょろきょろと落ちつきなく動いた。


「どうなされたのです、王。何の事をおっしゃっているのか……」


「もっとはっきり言わねばならんのか?


 カーギル近衛隊長の出した斥候せっこうの報告では、我らの来襲を、アテナイ海軍が待ち構えているということだったぞ」


「ええっ、まさかそんな!」


 だくだくと冷や汗を吹き出させる、スポドリアス。


 (気づかなかった。


 カーギルの奴、いつの間に別の斥候せっこうなんか出してやがったんだ?)


 クレオンブロトス王の玉座ぎょくざの横に、巨大な軍神の彫像のようにそびえ立つ、カーギル近衛隊長。


 そのカーギルからつとめて視線をそらしながら、なおもスポドリアスが食い下がる。


「し、失礼ながら、カーギル近衛隊長は陸戦がご専門。


 私の部下には、海戦の経験者が数多くおります。


 だからこそフォイビダス将軍は、わざわざ今回の作戦に私をはいされました。


 どちらの報告を信用なさるべきかは、明らかと存じますが」


 カーギルがぎりっ、と歯をかみならし、だんっ、と一歩踏みだす。


「きさまっ、まだそのような戯言ざれごとをっ!!」


 怒りのあまり、剣のつかに手をかけるカーギル。


 クレオンブロトスが片手をあげ、それを制する。


 冷や汗にまみれ、色黒の肌でさえ血の気が引いているのがわかるスポドリアスを、王は皮肉っぽく眺めた。


「なるほど、そこまで言えるとはたいした度胸だ、スポドリアス。


 その度胸は買ってやる。


 それに、さっきから聞いていると、おまえがなかなか口達者くちたっしゃなのもわかった。


 さっきおまえの言っていた、口の達者なアテナイ人のようにな」


「お、王! アテナイ人のよう、だなどと、そのような侮辱ぶじょくは、いくら王といえど……」


「いやいや、侮辱ぶじょくしたわけではない。


 口が達者なアテナイ人は、ようするに頭が良いということなのだぞ。


 おまえもある意味では、頭が良いと言っているのだ。


 ただ、その頭の使い方が問題なのだが……」


 悲しげなため息をついてから、王は言葉を続けた。


「この人手不足の折だ。


 特にアテナイ人のように、一筋縄ひとすじなわではいかん連中の相手をするには、これからはおまえのような者でもスパルタに必要になるかも知れない、と思って我慢してきた。


 しかし、心がいやしければ、馬鹿であった方がましかもしれんな。


 ともかく、私は、おまえの報告よりもカーギル近衛隊長の報告を信じる。


 その理由は自分自身にきいてみろ。


 もうよい、下がれ」


 わずらわしそうに手を振って、会見の終わりを告げるクレオンブロトス王。


 だが、クレオンブロトス王をおとしいれよ、とフォイビダス将軍に厳命げんめいされているスポドリアスは、ピレウス港の奇襲に出掛けそうにない王の様子に、焦りまくっていた。


 (ここで失敗すれば、俺は完全にフォイビダスさまに見捨てられる。


 国に帰ったら、どんな罰をうけるかわからない。


 金も出世も、全部なくなる!)


 悪党なりの勇気をふりしぼって、叫ぶ。


「王よ、何を臆病風おくびょうかぜに吹かれておいでか!


 ここまで来て敵に後ろを見せるなど、スパルタ戦士の名折れ。


 これでは勇猛ゆうもう黄金獅子きんじしの名誉も、地にちましょうぞ!!」


 こうまで言われて、ついに王の堪忍袋かんにんぶくろの尾も、切れた。


 こぶしで激しく、玉座ぎょくざのひじかけを叩く。


 スパルタの黄金獅子きんじしが、えた。


「私の名誉など、きさまの知ったことではないわ!!


 奸物かんぶつの手先と成り下がったきさまなどに、何がわかるかっ!


 その薄汚れたツラを二度と見せるな、下がれっ!!」


 王の咆哮ほうこうに吹き飛ばされ、スポドリアスはねずみのように逃げ去った。

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