獅子への奸計 3

 愕然として顔色を失い、スパルタの黄金獅子きんじしクレオンブロトス王はきき直した。


「今、なんとおおせられましたか? アゲシラオスさま」


 すっかり血色が良くなり、体重も増えてきて、気力満々のアゲシラオス王が意地悪そうに笑う。


「だから、平和会議はわしに任せ、そなたはポキスのデルポイ・ポリスに向かって、明日にも早々に出発してもらいたいのだ」


 ポキス、というのは、テバイ・ポリスのあるボイオティア地方の、西隣にあたる土地である。


 スパルタ・ポリスから軍を率いて行こうとすれば、半月程度はかかる。


 エウリュポン王宮、謁見の間。


 対峙する二人のスパルタ王と、並ぶ5人の監督官エフォロイ


 さらにあと二人、テバイ・ポリスの使節団長エパミノンダスと、デルポイ・ポリスの使節団長が集まっていた。


 ティリオンの滋養強壮剤をこっそり盛られて、アゲシラオス王は見違えるように元気になっていた。


 72歳の老王は、玉座の横……いままではフォイビダス将軍の占めていた場所に、うやうやしくひざまずくエパミノンダスを、あごで指した。


「ここにおられる、テバイの使節団長どのの言われるとおり、聖なる神託の都デルポイ・ポリスの神官や巫女たちを、救わねばならぬからな」


 片膝をついて頭を下げたまま、エパミノンダスが言う。


「クレオンブロトス王さまには、我らテバイ・ポリスのために誠にご迷惑をおかけいたします。


 我ら平和会議賛成派のおさえる力が足りず、テバイ国内の反対分子が決起してしまい、奴らは聖なる都、デルポイを占拠しました。


 人質を取り、平和会議の主意に賛同しないよう脅しをかけてきております。


 どうかスパルタの黄金獅子きんじし、クレオンブロトスさまのご威光いこうで、これを静めてくださいませ」


 5人の監督官エフォロイの横。


 占拠されたというデルポイ・ポリスの使節団長が、さっきエパミノンダスが書いていた書簡を握りしめ、かなきり声で叫んだ。


「テバイ使節団長どの!


 いくら反対派の暴挙とはいえ、この不始末は、あなたにも必ず、必ず責任を取っていただきますぞ!


 平和会議の直前に、こっ、このような、このような脅迫状をつきつけてくるとはっ!!」


 恐ろしい脅迫状を渡されて、真っ青になっているデルポイの使節団長は、クレオンブロトスの足元に身を投げ出した。


「王よ! 偉大なるスパルタの黄金獅子きんじしよ!


 どうかデルポイをお救いください!


 ああああ、私の3人の娘はみんな美人の巫女で、早く助けにいかないと大変な事に……


 いえ、いえ、今頃、神官や巫女たちは、どんなひどい目にあわされていることか……うううううっ。


 どうか王よ、武力を持たぬ神託の都、聖なるデルポイを襲うなど、神をも恐れぬ悪行あくぎょうをするテバイを決してお許しありませんように!」


 おおおおぉぉぉ……! と大声をあげて、泣き崩れるデルポイ使節団長。


 じっとりと冷や汗をかきながら、クレオンブロトスが言う。


「では、誰か、他の将軍を差しつかわすことに……」


「そればかりはお許しください、クレオンブロトスさま!」


 顔を上げたエパミノンダスの表情も、必死である。


「もし、本格的な戦闘になってしまっては、我ら平和会議派の努力も、水の泡。


 平和会議どころか、またしても新たないくさの始まりではありませんか。


 スパルタの黄金獅子きんじしの名も高い、クレオンブロトスさま自らの御出陣ごしゅつじんと聞けば、きっと反対分子どもも恐れおののいて、すぐにデルポイから立ち退くでしょう。


 そうすれば誰の血も流されず、平和が戻って参ります。


 平和会議を成功させるためにも、どうか、どうか、御自おんみずからのご出陣を!」


 声なくして立ちつくすクレオンブロトス王に、アゲシラオス王が呑気のんきそうに手を振る。


「行ってやれ、アギスの王よ。


 そなたの名声はたいしたものだ。


 そなたがスパルタを出て、デルポイに向かったと知るだけで、下らん反乱分子など縮み上がって逃げだすだろう。


 そうすれば何事もなく、一件落着だ。


 平和会議のことは心配するな。


 わしもこのとおり、すっかり元気になった。


 そなたがおらずとも、わしが会議をちゃんとまとめてやる。


 安心して出かけるがよいぞ」


 自身をからめとってゆく情勢に抗するように、クレオンブロトスは首を振った。


「しかし、しかしアゲシラオスさま、私は……」


 アゲシラオス王の目が、ぎらりと光る。


「何を迷っている、アギスの王よ。


 迷う必要などあるまい。


 今回はそなたが外をおさめ、わしが内をおさめれば、それで済むこと。


 それとも、若いそなたのかわりに、このわしに老体を押して出陣せよと申すか?」


「……いえ、そのようなことは」


「ではまさか、わしが平和会議を束ねるのに不安がある、とでも言うのではないだろうな?」


「………」


「何だその顔は、その目はっ!


 それが年長の王に対する、アギス王家の礼儀か!!」


 笞打むちうつような老王の言葉に、こぶしをかためながらも、床に視線を落とす25歳の若いクレオンブロトス王。

 

 その様子に、アゲシラオス王が満足の笑みをもらす。


 うってかわった猫なで声で、老王は言った。


「若い王よ、そなたが全精力を傾けて開いた、平和会議だ。


 成り行きが心配なのは、わしにもよく分かるぞ。


 だが、デルポイをこのまま見捨てる訳にもいくまい?


 ここはひとつ、そなたが生まれる前からスパルタをおさめている、このエウリュポンの王に任せてみてはどうかな?」


「アゲシラオスさま……」


 クレオンブロトスの声は、熱病に喘ぐ病人のようだった。


 心を病んだまま、体の病だけは癒えた老王が、苦しむ若い王にとどめをさす。


「行け、スパルタの黄金獅子きんじしよ!


 そなたが望む平和は、血を流さずしてデルポイを救わねば、実現せぬぞ」

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