獅子への奸計 4

「楽士どの! 楽士どの!」


 その身にそぐわぬあわてふためき方で、ティリオンの、広い窓のある新しい部屋に駆け込んで来たクレオンブロトス王だった。


 机で書き物をしていたティリオンが、驚いて顔を上げる。


「これは、王……」


 立ち上がって挨拶しようとするティリオンも目に入らなげに、クレオンブロトスは息をきらせながら言った。


「大変だ、えらいことになった、楽士どの!


 そなたの薬は効きすぎた!


 そなたの薬は効きすぎたのだ!」


 息を飲むティリオン。


「アゲシラオスさまの身に何か?


 容体が悪化しましたか?!」


 首を振るクレオンブロトス、


「違う、違う、そうではない。


 悪化してない、良くなった。


 良くなって、元気になり過ぎてしまったんだ……ああっ!!」


 王は、黄金の頭をいらいらとかきむしった。


「いや、これはそなたのせいではない。


 この私の命じたことだ。


 この私が命じてやらせたこと……


 だが、まさかこんなことになるとは。


 こんな…… こんなことになってしまうとは!」


「????」


 訳のわからぬままに、危機感だけはその身にひしひしと受けながら、ティリオンは不安の視線を、部屋の入口にちらりと投げた。


 そこには、クレオンブロトス王の後からついてきたカーギル近衛隊長が、じっと喰い入るような目でティリオンを見ていた。


「ええい! 今さら私は何をくどくどと……


 済んだことは仕方がない!


 どちらにせよ、デルポイを救わねばならない!」


 断ち切るようにそう叫んでから、クレオンブロトスは、がば、とティリオンの両手をまとめて包むように握りしめた。


 びっくりして軽くのけぞるティリオン。


 クレオンブロトスは必死で言い始めた。


「楽士どの、頼みがある、ぜひきいてほしい。


 アテナイ使節団の遅れでずっと待たされた上、外でちょっと事件が起こって、諸ポリスの使節団は皆、不安がっている。


 このままでは、平和会議でまとまる話もまとまらない。


 せめて使節団の気持ちをほぐすため、会議の日だけと言わず、明日からでもすぐに琴をひいて欲しいのだ」


「それは、あの……」


「幕の後ろでも何の後ろででもいい!


 わずかの時間でもいいからやってくれ!


 そなたの琴が必要なのだ。


 この通りだ、頼む!」


 王に深々と頭を下げられ、やむなく、冷や汗をかきながらも頷いてしまうティリオン。


「……わかりました」


「そうか、よかった、助かる、頼むぞ!」


 ティリオンの承知を得たとたん、くるりときびすを返し、あわてて出ていこうとしたクレオンブロトスの足が、ふと止まった。


 怪訝そうに振り向いて見る、琥珀の目。


「ときに楽士どの、その髪はどうされた?」


 ティリオンの長かった美しい銀髪は、肩のあたりでぷっつりと断たれていた。


 ティリオンは、涼しくなった首筋に手をやり、微笑みを作って答えた。


「あ……これから暑くなってまいりますので、切りました」


「そうか。そうだな。これから暑くなるしな」


 軽く顎を動かして、クレオンブロトス王の姿が部屋の外に消える。


 ティリオンは、ほっと息をついた。


 楽士の部屋を出て、王宮の廊下を早足で歩きながら、クレオンブロトスは、後をついてくるカーギルに指示を与えていた。


「我々がすでにスパルタを出て、デルポイに向かったという情報を、早急に早馬で現地へ送っておけ。


 それだけでデルポイの情勢が変わるようなら、途中ですぐに引き返せるからな。


 出発は、明日の早朝だ。


 海は荒れているらしいから、とりあえず陸路で行く。


 陸路なら、うまくすれば、途中でアテナイ使節団をつかまえられるかもしれん。


 そうできれば事情を説明して、さらに到着を遅らせてもらう。


 アテナイが来なければ、平和会議は始まらないからな。


 他にも、アテナイが通って来そうな道には兵を出して……」


「すみません、クレオンブロトスさま。


 さっきの者は誰です?」


 あわただしいクレオンブロトスの言葉をさえぎって、カーギルが尋ねた。


 急いでいるクレオンブロトスは、眉をひそめたが、答えた。


「キプロス出身の楽士だ。


 平和会議で琴をひかせるんだ」


「キプロス出身の楽士? 琴をひかせる?


 私は、そのような者のことは聞いておりませんが」


「ああ、すまん。忙しくてな。


 ほら、あの毒薬事件の時の者だ。


 クラディウスの命を救ってくれたんだ」


「ああ、その話だけは聞きました。


 クレオンブロトスさま、私はあの者に、見覚えがあるような気がします」


「何っ?」


 クレオンブロトスは立ち止まって、振り向いた。


 首をかしげて、カーギルは考え込んでいた。


「確かに、確かに、どこかで見たような……」


「おまえもか?」


「するとクレオンブロトスさまも?」


 クレオンブロトスは顎に手をやった。


 しばらく黙考して、首を振る。


「いや、あの顔には覚えがない。


 だが最初に、あの緑色の目だけはどこかで見たような気がしたのだ」


「私は目だけでなく、あの者をどこかで見たような気がします」


「どこでだ?」


「それが……よく思い出せないのです。どこだったか……?」


 クレオンブロトスは肩をすくめた。


「気のせいじゃないのか。


 あれだけの美貌だ、一度見たら、そう簡単には忘れんぞ」


「それはそうですが、やはりどこかで……」


 腕組みまでして、じっくり考え込み始めたカーギルの二の腕を、クレオンブロトスはせわしく叩いた。


「わかった、もういい。


 思い出したら言ってくれ。


 それより、明日の準備が先だ、急ごう!」


「……はい」


 クレオンブロトスの後を追って走りだす前に、カーギルは、楽士の部屋の方を振り返った。


 (そうだ、前にどこかで確かに見たぞ、あの男。


 だがいつ、どこで?)

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