出会い 9

 姫ぎみの馬だけが河原に上がり、濡れた体を震わせ水しぶきを飛ばすのを見て、ティリオンは口許くちもとを引き締めた。


 馬上から身を乗り出し、透かすように水の表面を探る。

 

(上がってこないぞ?!)


 馬から飛びおり、土手を駆け降り、河原を走り抜けて、ティリオンは水に飛び込んだ。


 馬がかき乱した泥のせいで川底は濁っていたが、間もなく、金色の藻のように揺れる姫ぎみの髪を発見した。


 ぐったりした体を引っぱり上げ、なかば肩に担ぐように抱き上げた。


 ざぶざぶと片手で水をかき分けて、川から上がる。


 水を含んで重くなった姫ぎみの体に両手を添えて、よろめきながら河原を進む。


 土手のゆるやかな斜面の草の上までなんとか運んで、横たえた。


 ティリオンの喉は、ピューピューと笛のように鳴っていた。


 逃亡生活で痩せこけた栄養失調の体には、必死の逃走に相次ぐこの重労働は、こたえた。


 全身がなまりのようだった。


 そのまま、自分も草の上に倒れこみたい欲望をおさえて、ティリオンは姫ぎみの口に息を吹き込んだ。


 鎧の止め具を外し、前を開いて、柔らかい薄物の着衣の上から胸に耳をあてる。


 かすかに聞こえてくる鼓動に力を得、再び息を吹き込む。


 何度も、何度も、何度も……


 努力のかいあって、やがて姫ぎみは激しく咳き込み、すかさずティリオンが体を横向きにさせると、多量の水をげぼげぼと吐き出した。


 頭や首や背中をさすって十分に水を吐かせ、慎重に仰向けに戻すと、まぶたが開いた。


 虚ろな表情でしばし、目の前の秀麗しゅうれいな顔を眺める。


 それから小さな悲鳴をあげて、鋭く首をもたげた。


「よかった……」


 心から安堵したティリオンは、手を離し、疲労の波に押されて草の上につっ伏した。


 呼吸が苦しく、手足はしびれ、耳ががんがんと鳴っていた。


 閉じたまぶたの裏に光がちらちらと舞う。


 頭はくらくらし、もう何を考える気力もなかった。


 母なる大地に顔をうずめ、限界まで力を出し切った青年は、絶息する魚のように横たわっていた。


 しばらくして呼吸がやっと楽になったころ、柔らかい手がそっと肩にかかり、ためらいがちに揺すぶった。


 左の頬を下にして薄く目を開くと、金色に縁取られた顔がのぞきこんでいた。


「おい、しっかりしろ! 大丈夫か? だいぶ苦しいのか?」


 助け上げた姫ぎみに、逆に気づかわしげに尋ねられる。


 ティリオンは唖然とし、あきれ返った。


 とんでもないお転婆姫てんばひめに対して、あきれ返りすぎて、急に笑いがこみ上げてきた。


 ごろりと仰向けに転がり、片手を額にあてて、彼はくっくっと笑った。


 びしょ濡れの姫ぎみは、草の上にぺたりと座り込んで、きょとんとしている。


 笑いがおさまると、疲れた体を地面からひきはがすようにして、ティリオンは半身を起こした。


 名門貴族の子息として礼儀正しくしつけられた彼は、前後の事情はともあれ、心配してくれた姫ぎみに一応きちんと礼を述べた。


「ええ、大丈夫です。ありがとう」

 

 そう言って、にっこりしたアテナイ青年の魅力的な笑みに、アフロディアのほおが、ぱっとくれないに染まった。


 そして、スパルタの王女は恋に落ちた。


 彼女の運命を大きく変える、恋に落ちてしまったのである。


 急にどきどきと高鳴りはじめた心臓に、自分でもびっくりして、アフロディア姫は胸を押さえた。


 うろたえた声で言う。


「おまえは私を、たすけてくれた」


 確認を求める視線を青年にあてて、問いかける。


「おまえは、おぼれかけた私をたすけてくれたのだろう?」


「ええ、でもそれは……」


 今更ながら、腐った橋の罠にかけたのが実は自分であること。


 しかし、川の中にまで落とすつもりはなかったこと、などなどの事柄がティリオンの頭に浮かんだ。


 が、それらをいちいち説明するには、彼は疲れすぎていた。


 そこで彼は、けだるくうなずくだけにとどめた。


「おまえに礼をいいたい。いや、何か褒美ほうびをとらせよう!」


 ほおをばら色にして、初めてのときめきにひとりで興奮している姫ぎみは、自分の良い思いつきに手を打った。


「何でも、望みのものを言うがよいぞ!」


 ティリオンは苦笑して、首を振った。


 (反乱者変はんらんしゃへんじて、今度はご褒美ほうびか。妙なことになったものだ)


「いえ、私は何もいりません」


 濡れた体が冷えてきているにもかかわらず、極度の疲労で、睡魔すいまがじわじわと忍びよっていた。


 小さな貴婦人のおん前でなければ、もう一度横になりたかった。


 あくびを噛み殺し、耳に手をあてた。


 まだかすかに耳鳴りがしたのである。


 ぼんやりした頭でティリオンは、耳に水が入っているのかもしれない、と考えた。


「しかし、私はおまえに礼がしたいのだ」


 と、不満そうに姫ぎみ。


 眠いティリオンは吐息といきをついた。


「私のことはいいですから、姫さまは早くお戻りなさいませ。


 そのままではお風邪をひきますよ。兵たちも心配していましょう」


「お前はどうするのだ? お前も一緒に行こう。な、悪いようにはせぬから」


「本当に私にはお構いなく。どうか姫さまは、早くお戻りに……」


 そう言いながら、耳の中の水を出そうと、軽く頭を振っていたティリオンの表情がこわばった。


 眠気は一気に吹き飛んだ。


 (私はどうかしている。


 これは耳鳴りではない、馬蹄ばていの音だ!!)

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