出会い 8

 オレンジの大木のある家の庭を抜けた所で、絶好の活路かつろを見いだしたティリオンの顔がほころんだ。


 スパルタ兵たちの、馬をつないであるところに出たのだ。


 村の出口も、すぐそこである。


 女神アテナに感謝の言葉をつぶやきながら、木のさくにくくりつけてある馬の引きづなを解いていく。


 一頭、二頭、三頭……。


 尻を叩かれた馬は、次々と村の外へ逃げていった。


 四頭めにとりかかったティリオンの耳に、甲高い叫びが聞こえた。


 ぎょっとして振り向くと、おなじみの金頭が、何やらわめきながらまっしぐらにやってくる。


 (まだ追ってくるぞ。なんてしつこい、じゃじゃ馬姫なんだ!)


 追手おってへの妨害工作ぼうがいこうさくを断念したティリオンは、馬に飛び乗った。


 息を弾ませながら、アフロディアが叫ぶ。


「待て、殺しはせぬ! ききたいことがあるのだ、待て!」


 だが、馬をせかせる声とひづめの音が、彼女の叫びをかき消した。


 身を低くして馬を走らせていくティリオンの後に続いて、アフロディアもまた、馬にまたがった。


 村の外に広がる草原は、秋の色に染まりはじめていた。


 麦わら色が、ぽつぽつと見える大地の上を、赤とんぼの群れが、つい、つい、と泳ぐ。


 赤とんぼたちは恋の季節を迎えて、追いつ追われつをくり返していた。


 そんな赤とんぼたちの平和の空間を、やはり追う者と追われる者との、ふたつの馬蹄ばていがかき乱していく。 


 アフロディアは、なぜ自分がアテナイの青年を追っているのかよくわからなくなっていた。


 捕まえてどうするのか?


 そばかすの若者を救うために名乗り出た美貌びぼうの青年を、反乱者として処刑する気はなくなっていた。


 何かききたいことがあったような気もするのだが、それも、今はどうでもよくなっていた。


 ただ彼女は、子供が珍しい蝶でも追うように、美しい青年を追い続けたのである。


 しかし、追われるティリオンにとっては命がけの逃走であった。


 疾駆しっくするふたりの前に、川が見えてきた。


 実は、スパルタの姫ぎみのしつこい追跡にあらためて危機を感じたティリオンは、一計を案じていた。


 彼は川が近づくと、わざと速度を緩めた。


 鮮やかな手綱たづなさばきの姫ぎみは、みるみる追いついてくる。


 川にかけられた小さな古い木の橋の前に到着したとき、ふたりの差は二馬身ほどしかなかった。


 ティリオンは、この古い橋のなかほどが腐りかけていて、修理されないままに放置され、今では誰もここを通っていないのを知っていた。


 馬を巧みに操って、腐りかけた部分をさりげなくジャンプさせる。


 ここ半年ほどの逃亡生活で、追っ手を罠にひっかける技にも巧妙こうみょうさを増したティリオンだった。


 めりめりめりっ!!  バキィッ!!!!


 爆発するような、音。


 が激しく飛び散った。


 ティリオンは自分の罠が、予想以上の効果を発揮したことを知った。


 わずかな悲鳴を残し、スパルタの姫ぎみは、馬もろとも川に真っ逆さまに落ちていく。


 どうやら前にティリオンが観察した時より、腐食がかなり進んでいたらしい。


 まさか落ちるとは思わず、馬の足が板を踏み抜いて動けなくなる程度、と考えていたティリオンは、不安になって対岸で馬を止めた。


 川は、やや幅が広いが、深さはさほどなく、流れもゆるやかである。


 あのお転婆姫てんばひめのことだから、すぐに顔をだして上がってくるだろう、と彼は思った。


 姫ぎみが上がるのを確認してから逃げよう、と優しい青年は考えた。


 突然、水の中に叩き込まれたアフロディアは、驚きはしたが、それほどあわてなかった。


 自他ともに認めるお転婆姫てんばひめは、ティリオンの推察どおり、水泳も得意だったからである。


 ところが、水面に顔を出そうとした彼女を事故が襲った。


 急に水に落とされて、白目をむいて足掻あがく馬の後ろ足が、彼女の腹を直撃したのだ。


 ごぼっ! とアフロディアの口から多量の泡が吹き出し、かわりにもっと多量の水が流れこんだ。


 一度、二度……アフロディアの手足が弱々しく水をかく。


 ショックを受け、空気を求めてあえぐ小さな鼻と口に、冷たい水がもっと侵入した。


 よろいは、馬の足の打撃からは彼女を守ったが、泳ぐことには障害になった。


 気を失った彼女の体は、水底に静かに沈んでいった。

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